津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          身命を惜しまず

■家康から信頼された帯刀

<本文から>
 合戦ののち、直次の戦功はあきらかになった。池田恒興、紀伊守を討ちとった手柄は比類ないものとして、家康から弓一張を与えられ、大功をあげた四人の一人に挙げられた。弓は天正、慶長の頃、名人といわれた雪荷の作品である。
 天正十六年(一五八八)直次は従五位下帯刀先生に叙任され、同十人年(一五九〇)、小田原北条攻めのとき、五ノ字の指物を許される御使番十五人のうちにあげられた。
 翌十九年(一五九一)直次は千石を加増され、五千石となった。
 慶長四年(一五九九)閏三月三日、前田利家が逝去したのち、諸大名のうちに石田三成を憎む者が多く、動乱がおこりかねない形勢であった。このとき家康は次男の結城少将秀康に石田を護衛して、伏見屋敷からその居城近江佐和山城へおもむかせた。
 そのとき秀康の供をしたのは、直次一人であった。途中で闇討ちされかねない危険な仕事を、家康が直次に任せたのは、深い信頼を寄せていたためである。
 慶長五年(一六〇〇)関ケ原合戦では、直次は家康旗本勢に属し、実戦に出なかった。
 この年、家康は幕僚を長く務めた人々に知行一万石ずつ与えたが、なぜか直次だけが横須賀で五千石を与えられたのみであった。
 家康は直次にも一万石を与えたと思いこんでいた。あるとき、成瀬正成と直次を呼び、たずねた。
 「おぬしどもには一万石の領地を与えているが、その治政はどのようにいたしておるかや」
 成瀬が答えた。
 「恐れながらわれらは二万石なれども、安藤ばかりはただ五千石にござりまする」
 家康はおおいに驚いていった。
「予は三州横須賀にて一万石をつかわせしと思うておったが、そのほうは成瀬とともに数年武功を重ねてきた。それを分けへだてするつもりは毛頭ない。
 まったく予のあやまちであったが、そのほうは顔色にもあらわさず、怨まず怒らず今日に至った。実に恥ずかしいかぎりだで」
 家康は直次に過失を詫び、ただちに俸禄を一万石とし、十年問与えるべきであった分を納米として五万石与えた。
 慶長十年(一六〇五)直次は二千石の加増を与えられた。慶長十二年(一六〇七)に五千石加増をうけた。
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■頼宣の御附家老に志願

<本文から>
 慶長五年(一六〇〇)に生まれた第九子義直は、慶長十三年(一六〇八)に八歳で尾張領主となった。翌十四年(一六〇九)、第十子頼宣七歳が水戸から駿河、遠江五十万石に移封された。
 第十−子頼房は、鶴松と称していた慶長十年(一六〇五)に二歳で常陸下妻十万石の領主となっていた。
 家康は当時胃腸をわずらい、食欲がなく鷹野に出ることもすくなくなっていた。彼は三人の幼ない息子たちに、然るべき家老職の家来を一人ずつつけたいものだと、近臣に洩らした。
 頼宣は家康が六十歳のときにできた第十子で、二歳年上の義直とともに、父から非常に愛された。
 西国には関ケ原合戦で東軍として戦い、大領主となった秀吉恩顧の大名が多い。彼らが万一、江戸幕府を攻める事態がおこったとき、尾張の義直、駿河、遠江の頼宣が、攻撃をくいとめる頑強な障壁となる。
 そのとき前線の総司令となる義直、頼宣に、有能な参謀が必要である。もちろん二人には有能なお傅役がついていた。
 慶長人年(−六〇三)、二歳の長福丸と称していた頼宣の傅役となったのは、生母お万の方の同母兄三浦長門守為春であった。
 さらに慶長十三年(一六〇八)二月、頼宣六歳のとき、暮府大番頭水野対馬守重伸を傅役に加え、家老とした。
 駿、遠二カ国の太守となった八歳の頼宣は、父の望みにより能楽を学び、観世、金春の演能は、諸大名をおどろかすほどになっていたが、徳川家を守るための武将としての心得を、徹底して教えこむ御附家老が必要な時期をむかえていた。
 家康はこれと目をつけた重臣に、内々で誘いをかけたこともあったようだが、責任の重さを考えると、たやすく応じる者がいないという噂がひろまっていた。
 家康に従い岐阜城へおもむいていた安藤帯刀は、朋輩の成瀬正成とひそかに相談した。成瀬は二万石をうけ、家康の側近である。
「大御所様は、お年若な両殿への御附人につき、ことのほかにお気づかい召されておられる。何事をいたすにも御奉公なれば撰りごのみはいたすまい。われら両人が申しあわせ、御附人とならせ給えと申しあげようではないか」
 成瀬は即座に応じた。
「よからあず。大御所様の膝元にて政事にかかわるは、たしかにめざましきはたらきなれども、いとけなき両殿をご養育申しあげるのも、このうえもないご奉公だで」
 二人はいいあわせて家康に申しあげた。
「この間より大御所様には、ご幼少なご両殿へのお附人につき、ことのほかご苦心に思し召されおられると、聞き及んでおりまする。ついてはわれら両人で申しあわせ、何事もご奉公なれば、われらがごとき不調法なる者なれどもかまわぬとの思し召しならば、上意しだいにご両殿へご奉公申しあげまする」
 家康はおおいによろこんだ。
 「そのほうどもの志、このうえもなくよろこばしきかぎりだで。よくぞ申し出てくれた。早速にその運びといたすだわ」
 家康は二人のこれまでの公儀の役儀はそのまま勤めさせ、直次を頼宣、正成を義直に附けた。さらに頼房の御附家老に中山備前守を命じた。
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■紀州五十万石への国替えは帯刀が死を決して秀忠と談判した結果

<本文から>
 帯刀はためらうことなく、即座に答えた。
「中納言様は、宗家の御為ならば身命を惜しまざるべしと存じあげておられますれば、駿府に心を残すことはいささかもなく、いかようにも上意にまかせ、上方西国鎮守にはたらきまする」
 秀忠はおおいによろこび、紀州五十万石に伊勢松坂など五万五千石をあわせ、五十五万五千石を頼宣に与えた。
 表向きには頼宣の駿河遠江から東三河に及ぶ五十万石の領地から、紀州への国替えは、何の紛糾もなく決ったことになっているが、実際は帯刀が死を決して秀忠と談判した結果であった。
 はじめ秀忠は帯刀を召し寄せると、頼宣を福島正則の旧領安芸広島に転封させるよう命じた。帯刀は両眼に炎のような憤怒を燃やし、将軍の下命に不服を訴えた。
 「おそれながら中納言様を安芸におつかわしなさるるは、外様大名と同様のお扱いであろうと存じまする。神君は駿府城に百万石をつけて中納言様にお与えのご存念なりしを、みまかられていまだ三年がたちしばかりなるに、はるか西国にお移し遊ばさるるとは、おどろきいったる次第。
 さようの御達しなれば、この帯刀は中納言様に申しあげられず、腹掻き切って死に申す」
 秀忠を呪みつける帯刀の額には、右から左へ横殴りに浴びた長い刀痕が光っていた。夏の陣でうけた向う庇である。
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■遠眼鏡を打ちこわし軽はずみな振る舞いを諌めた

<本文から>
 頼宣は機嫌よく小姓、近侍の人にすすめた。
「これを見よ。遠方の眺めが手もとに引き寄せられるように、よく眺められるだわ」
 遠眼鏡で四方の景色を見渡した家来たちは、感嘆の声をあげるばかりであった。
 そのうちに安藤帯刀が出仕したので、頼宣は遠眼鏡をさしだし、すすめた。
「これで四方の景色を眺むれば、おもしろきことかぎりなし。爺も見てみよ」
 帯刀はそれをうけとり、笑顔でいった。
 「さてさて、重宝なる器械にござるだわ」
 彼は遠眼鏡を手にして次の間へ出ると、それを敷居にうちつけ微塵に砕き、そのままうしろもふりかえらず退出した。
 ほかの家来であれば、その場で手討ちにされてもふしぎではない不時のふるまいであるが、頼宣は顔色を変えただけで、傍の小姓二人に命じた。
 「帯刀がどこへ参りしか、気づかれぬようにあとよりつけて参れ」
 小姓たちが帯刀から半町(約五十メートル)ほど離れてついてゆくと、自邸の門内へ歩み入った。
 「さて、いかがしたものか。お城へ戻り、殿にお知らせ申そうか」
 思案し、足をめぐらそうとすると、帯刀の家来に呼びとめられた。
 「貴公がた、われらが主人のお呼びじゃ。こなたへ参られい」
 二人の小姓が邸内へ呼びこまれると、帯刀が待っていた。
 「そのほうども、この帯刀の気がふれたかとたしかめて参れとの殿の仰せできたのであろうが」
 小姓たちは縁先に膝をつき、声もなくうなだれる。
 帯刀は笑声をたてた。
 「儂の気はたしかだわ。なぜ遠眼鏡を打ちこわしたか、わけを知りたければ教えてやらあず。あの器械は戦場で敵の陣中などをご覧なされるものだで。
 しかし使いようでよくも悪くもなるものだでなん。薬のうちでも人参ほど万能なものはないといわれるが、用いようを誤ったときは毒薬と同様になることもある。
 櫓の上より家中の侍どもの通行するを眺め興じるうちに、いままで知らなんだ善悪のふるまいも知るようになる。下々の者は殿が櫓より遠眼鏡で見物されておられると知れば、櫓の下を通らぬようになり、わずらわしく思うだわ。
 儂のような侍どもの頭をいたす者でさえ、お城の外に出ては不作法のふるまいをいたす。襟をひろげ酒を飲み、くつろぐ様子を、いちいち殿に見られてはたまらぬでなん。
 昔より異国の聖賢といわれる人は、冠の下に紗でこしらえた目すだれをかけ、ものを見ぬようにいたし、耳には耳金というものをつけ、人声を開かぬようにしたそうじゃ。殿も一国をお治めなされるお方なれば、かるはずみなおふるまいはなされぬよう、願いたきものよ」
 小姓たちは帯刀の意見を開き、頼宣に伝えた。
 頼宣はもっともであると理解した。
 「帯刀はさすが権現さまのお目にかなった宿老ゆえ、よきことを申すだわ」
 頼宣は将軍秀忠に警戒の眼をむけられている、自分の立場を充分承知していた。
 頼宣に不穏悪政のふるまいがあれば、酒井忠世、土井利勝ら秀忠の宿老が、たちまち改易の利刀をふるいかねない、緊迫した情勢であった。
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■何の失錯もなく手討ちにした頼宣を諌める

<本文から>
 かの者はたしかに私方へ参り、事の次第を詳しく申してござりしが、侍として何も咎めるところがなきゆえに、即刻立ちのかせ申せしだわ。ただいまは屋敷におりませぬ」
 頼宣は帯刀のいうところが道理にかなっているので、何ともいいようがなく、城下を退散した小姓頭に討手をむけることもできず、事はそのままに終ってしまった。
 元和九年(一六二三)の歳末、頼宣は銃猟に出かけたが、猟物がすくないので機嫌がきわめてわるく、家来たちにあたりちらし、罵声をあげつつ帰城した。
 廊下に手をつき、頼宣を迎えた大小姓間宮久弥が、恐れて舌をふるわせた。彼は日頃から頼宣に疎まれ、しばしば叱声を浴びていた。二十二歳の頼宣は気がみじかい。
 久弥は反歯で、かしこまっているときでも笑っているように見えることがある。頼宣は久弥の前を通りかかり、彼が顔をゆがめたのを見て、足をとめた。
 「こりや久弥、いま目口をゆがめ、嘲けり笑いおりしか。成敗いたしてやるだわ」
 家来は主君から手討ちにするといわれたときは、斬られるしかない。
 彼は左手で脇差を斡ごと抜き、次の間へ投げ、反抗の姿勢を見せず首をさしのべた。頼宣は一刀で久弥の首を打ちおとした。
 騒ぎを聞いた帯刀は、さっそく城中へ駆けつけ、頼宣に理由をたずねた。
 「お大切のご家来を、いかなるわけにて殺害召されしか」
 頼宣はやむなく告げた。
 「久弥めは主人をあざ笑いしゆえ、斬って捨てしよ」
 「大小姓をつとめる者が、わけもなく殿をあざけりましょうかや。久弥は反歯にて、ふだんにても笑いしごとく見ゆるではござりませぬか。なんぞ不時なることを口走ったのでござろうか」
 「いや、何も申さなんだが、舌を見せて笑いしはたしかだわ。これ、そのほうどもも存じておろうがや」
 頼宣は、傍にひかえる家来たちに声をかける。
 「それはまことか。しかと申せ」
 帯刀が眼光すさまじく彼らを見すえると、畳に手をついたまま、一人として顔をあげる者がなかった。
 帯刀は頼宣に詰め寄り、激しくなじった。
 「小姓どもに怖れられる殿を、久弥がなぜあざ笑いましょうや。さようのことは見違えしのみ。その真偽をたしかめしうえでのご成敗ならば、やむをえませぬが、かるがるしくなさるべきことにはありませぬだわ」
帯刀がきびしく意見をつらねるうち、頼宣はこらえかね、「こうるさき説誓いつまでいたすか。もはや聞き飽いたぞ」といいおいて、奥の座所へ入ろうとした。帯刀がついてゆくと、小姓たちが襖を閉めようとしたので、大声で叫んだ。
「殿は権現様よりお預りいたせし世伜なれば、今日の事を将軍家へ申しあげ島流しにいたそうぞ」
 帯刀が立ったままでいると、奥から小姓が出てきて、頼宣の前へ案内した。
「ただいまは、あいすまぬことをした」
頼宣は帯刀の手をとり、袖口から入れさせて、肌をさぐらせた。満身に汗をかいている。頼宣はいった。
「そのほうの叱責に困りはて、ここまで汗を浸せしだわ」
 帯刀は口をとざしたまま座をしりぞき、下城した。
 翌日、帯刀は登城しなかった。頼宣は使者をつかわし登城を命じたが応じなかった。
「今日は登城つかまつらぬだわ」
 頼宣は使番と相談のうえ、再登城をうながす。帯刀は登城して頼宣の前へ出るなり、言上した。
「昨日はあまりに心のせくままに、慮外の雑言を申しあげ、もったいなきことにござりしだわ」
 帯刀が涙をこぼすと、頼宣も大粒の涙を落した。
「爺が俺の身を案じ、意見してくれし言葉は終生忘却いたさぬでのん」
 頼宣が手討ちにした間宮久弥は徳川譜代の家来で、親戚に大身の旗本がいた。久弥が何の失錯もないままに手討ちにされたとの知らせが幕府に聞えたときは、紀州の動静を常にうかがっている幕閣宿老たちから、どのようないいがかりをつけられるかも知れない。このため、帯刀は小姓たち諸侍の前で口をきわめて頼宣を罵倒し、藩の規律がまったく弛んでいないことを、世間に知らせようとしたのである。
 頼宣はこののち、家来を手討ちにすることが一度もなかった。
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■自ら考えさせる有能な人材を育てるやり方

<本文から>
 土井利勝は紀州家上屋敷へ出向い、帯刀に会い将軍の下命を告げると、帯刀はかつての後輩に機嫌よく応じた。
「よからあず。儂の役座敷におるがよい」
 紀州家では、余裕のない会計をやりくりして、数十万両の経費を、将軍御成にあてねばならなかった。
 御成は、有力大名の貯蓄を減らす、参観交替と同様の効果を狙うものであった。利勝は翌日から紀州上屋敷へ出向き、帯刀の指図の仕様を見聞した。
 紀州藩諸役人は用件があるごとに帯刀の前に出て聞いた。
「この儀は、いかがいたしまするか」
 帯刀は質問が意にかなったときはうなずく。同意しないときは「いや、悪しきだわ」というだけで、役人に何の指図もしなかった。
 役人はいろいろと考えをめぐらし、案を変えて申し出るが、幾度変えてみても、「いやいや」というばかりで指図をしない。
 役人たちは自分の考案を否定されると、幾度も考えをかさね、帯刀が「よし」というまで方策を練った。
 帯刀より二十歳ほども年下の利勝は、その様子を見ていて、つい自分の意見を口にした。
 「一度うかがいに出たとき、悪しきと思われたときは、よくいたすよう、しかるべき指図なさればよきことと存じまする。帯刀殿に対し、いらざる差し出口を申し、失礼にはござりますが、さようのなされかたでは、何事にも手間がかかるのではござりませぬか」
 帯刀はゆるやかな口調で答えた。
「われらは年寄りにて、やがて死にまする。いまのうちによき者をこしらえておかねばならぬだわ」
 利勝は帯刀の言うことを分かりかねて黙っていると、帯刀は言葉をかさね、説明した。
「こなたより指図してやれば、役人どもは伺いさえすればよいと思い、何事も自ら考えることなく、思案なしに用を弁ずるばかりとなろうだで。
 そうなれば、生涯功のない無能役人ばかりで、よき人材はできぬものよ」
 利勝はふかく感動し、今後は帯刀の分別を見習い御用をいたさねばならぬと、周囲の者に語った。
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■片倉小十郎は少年の頃から苦労し、下人雑兵を理解し、明敏な頭脳をそなえていた

<本文から>
 強大な戦力である旗本衆が、もっとも信頼を寄せているのは、政宗近習の片倉小十郎であった。小十郎は矢玉のなかを突撃する侍たちの心情を、もっともよく理解していた。
 獰猛な戦士たちも、命が惜しいのは常人と同様である。笑って死地に飛びこむのは、彼らの侍としての誇りを失いたくないためであった。
 どうせ死ぬのであれば、犬死にしたくないのは、侍大将から雑兵に至るまで、おなじ思いである。
 だが名もない葉武者から、血の海のなかを泳ぎまわって身を立て、ひとかどの身分に成りあがった戦国大名のなかには、兵の損害を惜しまず、むやみに我攻め(正面攻撃)をさせる者がすくなくなかった。
 彼らはふだんからわが身だけが贅沢をして、小者たちを食うや食わずの目にあわせる。なにか失敗をすると、重罰をくわえ、首を斬ってしまう。
 そのような大将のもとで戦わねばならない侍たちは、主人に忠義をつくす気持ちになれないので、戦場に出て危険な攻撃を強いられると、巧みに逃げ隠れする。
 味方が敵に圧倒されてくると、いちはやく敵方にまぎれこむ。敵の大将もそんな事情は承知しているので、彼らをうけいれる。
 五千人ずつの敵味方が戦ううち、一方が六千人、七千人と人数がふえてきて、一方は四千人、三千人と減ってゆく。そうして人数が減ったほうの軍勢は、ひとたまりもなく打ちやぶられ、潰走してゆくのである。
 武者振りが衆にすぐれた十八歳の政宗が、家督相続をするのは、遠い先のことではない。彼が伊達家の当主となれば、片倉小十郎は全軍の指揮をあずかる輔佐役、参謀になる。
 名掛衆、不断組の精鋭の信望が小十郎に集まるのは、彼が少年の頃から苦労をかさね、下人雑兵の気持ちをよく理解する、明敏な頭脳をそなえていたためであった。
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