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<本文から> 合戦ののち、直次の戦功はあきらかになった。池田恒興、紀伊守を討ちとった手柄は比類ないものとして、家康から弓一張を与えられ、大功をあげた四人の一人に挙げられた。弓は天正、慶長の頃、名人といわれた雪荷の作品である。
天正十六年(一五八八)直次は従五位下帯刀先生に叙任され、同十人年(一五九〇)、小田原北条攻めのとき、五ノ字の指物を許される御使番十五人のうちにあげられた。
翌十九年(一五九一)直次は千石を加増され、五千石となった。
慶長四年(一五九九)閏三月三日、前田利家が逝去したのち、諸大名のうちに石田三成を憎む者が多く、動乱がおこりかねない形勢であった。このとき家康は次男の結城少将秀康に石田を護衛して、伏見屋敷からその居城近江佐和山城へおもむかせた。
そのとき秀康の供をしたのは、直次一人であった。途中で闇討ちされかねない危険な仕事を、家康が直次に任せたのは、深い信頼を寄せていたためである。
慶長五年(一六〇〇)関ケ原合戦では、直次は家康旗本勢に属し、実戦に出なかった。
この年、家康は幕僚を長く務めた人々に知行一万石ずつ与えたが、なぜか直次だけが横須賀で五千石を与えられたのみであった。
家康は直次にも一万石を与えたと思いこんでいた。あるとき、成瀬正成と直次を呼び、たずねた。
「おぬしどもには一万石の領地を与えているが、その治政はどのようにいたしておるかや」
成瀬が答えた。
「恐れながらわれらは二万石なれども、安藤ばかりはただ五千石にござりまする」
家康はおおいに驚いていった。
「予は三州横須賀にて一万石をつかわせしと思うておったが、そのほうは成瀬とともに数年武功を重ねてきた。それを分けへだてするつもりは毛頭ない。
まったく予のあやまちであったが、そのほうは顔色にもあらわさず、怨まず怒らず今日に至った。実に恥ずかしいかぎりだで」
家康は直次に過失を詫び、ただちに俸禄を一万石とし、十年問与えるべきであった分を納米として五万石与えた。
慶長十年(一六〇五)直次は二千石の加増を与えられた。慶長十二年(一六〇七)に五千石加増をうけた。 |
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