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<本文から>
富田流小太刀の威力が天下に聞こえた慶長、元和の頃から八十年ののち、赤穂浪士の討入りのあった元禄十五年(一七〇二)の頃には、武道はすたれていた。
物狙裸の護国秘録には、当時の武士気質がつぎのように記されている。
「いまごろの槍剣の術は、平和な時代に育った者が工夫したため、一人で多数を相手の試合はなく、すべて一対一での立ちあいである。試合の場には大勢の見物人がいるので、彼らの限に見事と思われるような勝ちかたをすることが、第一である。世のなかがしだいに豊かとなり、武士の暮らしむきもぜいたくになってきたので、剣理を含蓄ありげにあれこれとあげつらい、道場での立ちまわりの動作を派手にするのが時勢にかなうことになった。
しないで相手を打つにも、痛めつけるような激しい打撃は嫌われる。また道場の板敷にほ胡桃の油をひいているので、足袋をはいてそのうえを転ばぬ所作、長袴でそのうえを動いてしないを使う所作など、実にむずかしいことだが、戦場の用にはすべて役立たないことである」
時勢の流行はおそろしいものであった。
戦国期から徳川初期にかけ、武士には意地というものがあったが、将軍家光が鎖国をおこない、太平安逸の気風がひろがるにつれ武士のあいだに男色がさかんになり、丈夫な刀を帯びるのは、時代にそむいた野暮の骨頂とされるようになってゆくのである。
小太刀の効用など忘れ去られた元禄期は、現代と似通っている。富田一族は、日本の剣術の歴史のうえに、はんのわずかなあいだ光耀をのこした彗星のような存在であった。 |
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