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<本文から> 近太夫は北海道操業の挫折で、太地鯨方の命脈は、ほぼ確実に絶たれたと考えていた。いまさら覚吾が棟梁の座に戻っても、冬場に南方を目ざす鯨の回済する数が激減したいま、多額の借財を抱えて鯨方が生きぬけるわけがない。慶長以来連綿と伝えられた太地網取漁法も、終焉は近いと彼は読んだ。
太地村は険しい山地を背に負い、他所へ行くには舟を使うほかには軌道さえない陸の孤島であった。いままで村民の命を支えてきた鯨方が消滅すれば、そのあとどのような生計の道が残されているか、近太夫には見当もつかない。一村の者がすべて他郷へ離散する運命が待っているのかも知れなかった。
その夏は不漁に加え旱魃が浦人を苦しめた。戸毎に養蜂を営んでいるのに、採取した糖蜜はすべて仲買人に売払い、子供に与える余裕のある家はなかった。井戸水が枯れ、売水を買入れねばならなくなると、生計に事欠く祖母や母は、かわきを訴える小児にせがまれ自分の唾液を飲ませた。
皆が貧乏になり、餓え死にしても、祖先の墳墓を見捨てて逃散しても、すべて「おやさま」のお心にあることだからやむを得ないと、近太夫はあきらめていた。
十七歳で刺水主になって以来、近太夫は数えきれないほどの鯨を仕留めてきた。「生物は何でも死ぬんじゃもの、この世に未練を残して何すら」と彼は思う。血潮を中天に吹きあげ狂いたつ巨鯨の死を見届ける経験を重ねる長い年月のうち、彼のうちに命に対する執着が徐々にうすれてきていた。
物心つく頃から海に出て波のきらめきにかこまれ、動揺する舟板のうえを住いとしてきた近太夫には、海ときりはなされた生活は想像できなかった。天渡船という鯨舟の通称が、彼は気にいっていた。陸から眺めていると、遥かな沖へ出て海と空のあやちも分らない辺りで姿を消してゆく鯨舟が、天に渡るようにみえるところからつけられた名であった。
「沖合い、下り潮やよし」
佐一郎は、網舟にひるがえる自二本の吹流しを指さした。東南風は先刻より力を増し、梶取崎の沖から那智山の方角へ吹きぬける烈風は空の大半を覆った雨層の形を忙しく変えていた。 |
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