津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          深重の海

■北海道操業の挫折で太地鯨方の終焉は近いと予感

<本文から> 近太夫は北海道操業の挫折で、太地鯨方の命脈は、ほぼ確実に絶たれたと考えていた。いまさら覚吾が棟梁の座に戻っても、冬場に南方を目ざす鯨の回済する数が激減したいま、多額の借財を抱えて鯨方が生きぬけるわけがない。慶長以来連綿と伝えられた太地網取漁法も、終焉は近いと彼は読んだ。
 太地村は険しい山地を背に負い、他所へ行くには舟を使うほかには軌道さえない陸の孤島であった。いままで村民の命を支えてきた鯨方が消滅すれば、そのあとどのような生計の道が残されているか、近太夫には見当もつかない。一村の者がすべて他郷へ離散する運命が待っているのかも知れなかった。
 その夏は不漁に加え旱魃が浦人を苦しめた。戸毎に養蜂を営んでいるのに、採取した糖蜜はすべて仲買人に売払い、子供に与える余裕のある家はなかった。井戸水が枯れ、売水を買入れねばならなくなると、生計に事欠く祖母や母は、かわきを訴える小児にせがまれ自分の唾液を飲ませた。
 皆が貧乏になり、餓え死にしても、祖先の墳墓を見捨てて逃散しても、すべて「おやさま」のお心にあることだからやむを得ないと、近太夫はあきらめていた。
 十七歳で刺水主になって以来、近太夫は数えきれないほどの鯨を仕留めてきた。「生物は何でも死ぬんじゃもの、この世に未練を残して何すら」と彼は思う。血潮を中天に吹きあげ狂いたつ巨鯨の死を見届ける経験を重ねる長い年月のうち、彼のうちに命に対する執着が徐々にうすれてきていた。
 物心つく頃から海に出て波のきらめきにかこまれ、動揺する舟板のうえを住いとしてきた近太夫には、海ときりはなされた生活は想像できなかった。天渡船という鯨舟の通称が、彼は気にいっていた。陸から眺めていると、遥かな沖へ出て海と空のあやちも分らない辺りで姿を消してゆく鯨舟が、天に渡るようにみえるところからつけられた名であった。
「沖合い、下り潮やよし」
 佐一郎は、網舟にひるがえる自二本の吹流しを指さした。東南風は先刻より力を増し、梶取崎の沖から那智山の方角へ吹きぬける烈風は空の大半を覆った雨層の形を忙しく変えていた。
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■難破した太夫舟の生還者

<本文から> 明治十二年と年があらたまり、はや七日であった。師走二十七日夜、要太夫舟が生還者の先頭を切って押上りしたあと、二十八日夜四つ(十時)頃、三重県阿多和より早飛脚が到着。当日、次郎太夫舟が無事阿多和に近い二木島に着いたと知らせた。次郎太夫舟は、翌晩五つ(八時)に、殺船が激しい櫓声と共に、十三人が無事太地に帰着した。海に落ちたという次郎太夫にかわり、水主たちが揃って押上り口上をした。彼らのいうには、他に三艘が同行して陸に押しあがったとのことであった。
 問いただすうち、四つ(十時)に阿多和よりふたたび早飛脚が駆け来って、富太夫舟、延太夫舟の二腰の勢子舟が沈没し、乗組みの一部が、益太夫の指揮する持双舟に扶けあげられ、持双舟も浸水甚だしい処を、紀伊浦神から出漁していた孫市舟(鮎舟)に助けられた、と告げた。
 孫市舟は、太地から捜索に東上していた弥太夫の乗る五十集舟に出会い、助かった一行は、五十集に乗りかえ、すでに太地に向っているという。本万屋敷は喜びに湧きたち、浜に出て待つうち、九つ(午前零時)には、鯨肉出荷用の俊足を誇る四十石積みの五十集舟が、二十人の還者と五人の死者を乗せて帰港した。
 三十日、阿多和村より三度めの飛脚が到着、持双舟一艇へ刃刺国太夫外二十七人乗組み、木崎下り松という所へ到着したと知らせた。
 翌三十一日、夜九つ国太夫舟は、太地に戻った。国太夫の口上によれば、漂流者を救いあげ、乗組みの人数は一時三十一人に及んだが、そのうち三人は波に払われ、夜暗のなかに姿を消したということであった。
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■鯨を追うのは、孫才次には死者へ語りかけている時間

<本文から> 四年のあいだ東京に逐電していて舞い戻った覚吾は、色槌せた紬を着流した、気難しい老人になっていた。
 一日、孫才次は魚寄せ場の桟橋際で、日を浴びてしゃがんでいる弱ん人に呼びとめられた。目脂に覆われた皺ばんだ瞼を見張った老人は、半身の自由を失った要太夫であった。
 孫才次は、やはり今浦島になっていた。彼の帰郷をよろこんでくれる人間の数が減りすぎていた。
 本万屋敷の跡は小学校に変っていたが、家並みの眺めはおおよそ昔のままであった。孫才次はそうした風景に触発され、胸の痛む記憶を揺りおこすが、それを告げたいひとびとの大半は、もはやいいない。
 独り身の孫才次は、ヤソ平たちに妻帯をすすめられた。彼は同意した。太地に戻ったいまは、また新らしい記憶をつむいで行かねば、生きていけない。
海に出て鯨を追う時間は、孫才次には、死者へ語りかけている時間であった。勢子舟の紬で潮の飛沫を浴びているとき、彼は近太夫に頑を撫でられ、弥太夫に目くばせされ、日除けの手拭いをかぶったいよに、剰軽な手つきで招かれ、ぶんに笑いかけられた。ゆきは夕顔の花弁のように白く、常に眼前に揺曳していた。
 温暖な西風の吹く朝、孫才次が待ちかねていた大鯨が、灯明崎沖に姿をあらわした。
 灯明崎山見が、背美鯨発見の黒地白抜きの旗を所えしていた。クジラ銃を舟首に据えた孫才次の乗る勢子舟は、昔と変らない櫓声をあげ、捕鯨会社の船団が見守るなかを、鯨に向って直進した。
 孫才次は揺れ立つ勢子舟の袖に足を踏ん張って立ち、銃把を下腹に押えこんでいた。彼は十九年の時の経過がなかったような気がした。潮の色も、風のにおいも、青く煙った空も、昔のままであった。孫才次の魂は獣のように自由に、日をはねかえす海原を走っていた。
 鯨が潮をたぎらせ、漆黒の背を浮きあがらせてきた。孫才次は照準をあわせ、ゆっくりと引金を引いた。
 背後で見守っていた捕鯨会社の舟の漁夫たちは、捕鯨銃の周囲に青い火光が大輪の菊花のようにひらき、孫才次が倒れるのを見た。
 爆発音で聾になったヤソ平たちは、うつ伏せに倒れている孫才次を抱き起した。孫才次の顔は、血で覆われていた。銃が破裂し、銃身の尾栓が、彼の額を微塵に砕いていた。
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