津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          清水次郎長・下

■幕末には侍の取り立ての話がくるが断る

<本文から>
「公儀に睨まれると、たちまち身をすくめねばならない、世間に卑下して暮らすやくざにとって、士分にとりたててもらうのは、望外の栄誉であった。
 当時京都では、尊攘浪士の掻擾がようやくはげしくなり、公卿屋敷では、侍のみならず町人百姓からも、腕の立つ剛胆な者を徴士としてとりあげ、護衛の役向きを与えることが、流行していた。
 刈産は激動する世間の動きを論じ、次郎長の勇気ある行動をたかく買っていると告げ、随身をすすめる。
 だが、次郎長は話に乗ろうとはしなかった。
  「あっしらのようなしがねえ者に、侍になれと仰って下さるご親切は、まことにありがてえと存じやす。しかしあっしどもは、もともと学も行儀も知らねえ、やくざでござんすよ。それがいきなり羽織袴で二本差しても、似合わねえと存じやす。子分たちも、かしこまって坐ることさえできねえ奴らばっかりで、とてもお屋敷づとめは窮屈がって、嫌がりやす。あっしらはやっぱしいまの稼業が身についているんでどざんすよ」
 刈屋は次郎長を、なんとか説得しょうと努めた。
 「せっかく間之助殿が承知しておるのだ。貴公も思い直してはくれぬか。人には分相応の暮らしがあるというのは、泰平の世のなかでのことだ。この乱世に、貴公ほどの胸と胆力をそなえた器量人が、侍になって、なにが不釣合いだ。どうか思い直してくれ」
 次郎長は、しきりにすすめられるが、いったん辞退ときめたうえは、翻意しないと固くいいはる。
 だが刈屋の熱意に性だされ、譲歩した。
 「それじゃ、あっしどもは、刈屋さまのご主人に、なにか災難がふりかかることがあれば、お便りを演戴しだいに、子分どもをひきつれて、駆けつけやしょう。それは堅くお約束させて頂きやす」
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■総督府道中探索方、山本長五郎と苗字帯刀を許される

<本文から>
 書面には、次郎長の過去の凶状が詳細に記されていた。
 (こりやあいけねえ、俺っちのやったことを、全部知っていやがる)
 次郎長は背筋に冷汗が噴きでてきた。
 「どうだ長五郎、いま申し聞かせたことに相違ないか」
 伏谷判事に聞かれ、次郎長は恐れいって答えた。
 「あっしは、もう隠すことは何にもございやせん。よくもそこまでお調べがゆきとどいたものでござんすよ。お上の眼力にゃ、恐れいるよりほかはござんせん。ただそのうち二つほど違っているところがござりやす」
 次郎長は誤謬について、詳しく告げた。
 伏谷判事はそれを聞きとったのち、次郎長にいう。
 「これだけの凶状なら、お前の首は飛ぶこと請けあいだ。儂の命ずる通り、道中探索方をひきうけるなら、昔の凶状は水に流してやろう。どうだ、これでもことわるか」
 「そこまで仰って頂けるとは、あっしの身に余る果報でござんすよ。ご恩は生涯忘れるもんじゃござんせん」
 次郎長はいままでの罪過をすべて免ぜられ、総督府道中探索方、山本長五郎と苗字帯刀を許されることとなった。
 彼は天保十三年(一八竺)に生家を出奔して以来二十七年、常に危難のうちにあって、捕更に追われていた。いまはじめて青天白日のもと、堂々と闊歩できる身のうえとなり、感慨無量であった。
 世間の人は、次郎長を嫉んでいった。
 「あの野郎は、道中探索方をひきうけたのはいいが、三保界隈のわずかな縄張りだけを、後生大事に守ってるだけじゃねえか」
 次郎長は、無職仲間の悪評に耳をふさぎ、懸命に治安の維持にはたらいた。
 子分たちも次郎長の指図のままに、東海道で毎日のよう忙おこる喧嘩、暴行、かっぱらい、強盗な どの事件の解決に、寝る暇もなく働いた。
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■山岡鉄舟との出会い

<本文から>
 山岡はその様を見てうなずいた。
 「長五郎、刀を鞘に納めろ。儂はお主の度胸を試したのだが、いや立派なものだ」
 「おそれいってござりやす」
 次郎長は頭を下げた。
  山岡は次郎長の侠気がまがいものでないことを見抜き、事件を平穏に納めてくれた。二人はこのときから、肝胆相照らす仲になったといわれでいる。
 ただ、静岡市在住の作家江崎惇氏の調査によれば、次郎長はそれ以前、山岡鉄舟が駿府で大総督府参謀西郷隆盛と会見する手助けをしたというから、既知の間柄であったことになる。
 のちに海軍中将子爵小笠原長生は「大豪清水次郎長」の一作を書いたが、彼は友人の広瀬中佐の紹介で、海軍少尉の頃に次郎長を訪ねている。
 小笠原が次郎長とはじめて会ったのは、明治二十三年(一八九〇)十一月のことであった。そのとき小笠原は聞いた。
 「時に親分、人を斬るときの気持はどんなものですか」
 「人を斬る時の気持。な−に何でもないさ。斬りあいは命がけだから、大そうむずかしいように考えるが、実際やってみると斬るのは訳もないものさ。まずこうやって互いにかまえている。こっちがじっと待っていると、やがて向うから斬ってくる。そいつを静かにかわしてさっと斬る。先方は倒れる。それでおしまいさ」
 次郎長の腹には、無数の刀傷があったという。
 彼は真剣勝負忙よって練りあげた、鉄のような意志力をそなえていた。盆ゴザの鉄火場では、本職同士の勝負では、貸元盆頭は長脇差を股ぐらにひきつけ、あるいは抜き身を盆の真申へ突きたてておき、イカサマを使う者をその場で斬りすてることも、辞さないのが常である。
 鉄火場で鍛えあげた次郎長の度胸は、山岡鉄舟さえ感じいるほどのものであった。
 山岡は駿府の止宿先からしばしば清水を訪れ、板屋の町風呂に入浴してゆくよう忙なった。
 彼は板屋の主人に頼まれ、風呂屋を「富士見楼」と命名する。山岡と次郎長の友情は、急速に深まっていった。
 山岡は咸臨丸戦死者の碑に記す「壮士墓」の文字を揮重し、別にどくろの絵に「生きて一日の歓びなく、死して万世に名あり」の賛を附し、次郎長に与えた。
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