津本陽著書
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          小説渋沢栄一(下)

■幸運を信じていた

<本文から>
「渋沢氏銀行総監役勤仕中ハ、給料トシテ毎月三百円ヲ銀行ヨリ支給スベシ。尤モ同氏勤仕中、格別其事務ヲ勉強シテ其効験アレバ、満期ノ節、相当ノ賞与ヲ銀行益金ノ中ヨリ支給スベシ。
 但、銀行ノ用向ニテ、臨時他出出張ノ事アレバ、第一等ノ旅費其外ヲ支給スベシ」
 栄一はこのとき三十四歳であった。陽は中天に輝いている年頃である。栄−は其の時分から、私は幸運であるといっていた。大成する人物は、かならずわが幸運を信じるものである。将来を悲観するような消極的な性格の人物が、社会で名を成した例はない。
『現代金権史』『日本人民史』『足利尊氏』などの著作のある評論家、山路愛山(−八六四〜一九一七)も、栄一の運のよさを指摘している。
 尊攘志士として自滅の道を辿ったかも知れない栄一が、一橋家に奉公し、民部大輔(徳川昭武。一八五二〜一九一〇)に随行渡欧し、維新の動乱に捲きこまれることなく西洋文明を眼の辺りにした。帰朝すれば新知識として徳川藩から新政府へ召し出され、たちまち重用されるに至った経過が、きわめて強運であるというのである。
 しかし、栄一の運のよさは、「果報は寝て待て」というふうに、何の努力もしないうちに出世の階段を登っていったというような内容ではなかった。
 彼は自分の置かれた環境で、常に最善の結果をあげようと努力する、きわめて現実認識のきびしい人物であった。栄一が民部大輔の随貞に選ばれたのは、一橋家の家来となってのち、軍制改正御用掛を命ぜられ、備中の領地から百姓の二、三男四百五十人を歩兵隊に応募させた功績を、主君慶喜に覚えられていたためである。
 領民に歩兵を徴募しても、命を失いかねない戦場に立たされる危険を嫌い、応募する者が一人もいないといわれていたが、栄一は現地に出向き、しばらく滞在するうちに地元の人々を信用させた。
 しかも歩兵徴募のため摂津、播磨を巡回するうちに、従来播磨の上米を兵庫の商人に任せきりにして売っていたのを、灘、西宮の酒造家に従来よりもはるかに高く売れる。また播磨の木綿の生産高をふやし、大坂で売却するとき有利な売先を見つければ、利益が大幅にふえるという事情を知った。
 栄一はこの事情を用人に報告し、勘定組頭並に昇進した。これらの実績を慶喜が観察していて、弟の民部大輔がパリ万国博覧会に出立するとき、栄一を勘定役として随行させ理財の能力を発揮させようとしたのである。
 栄一は自分の置かれた場所で、わが能力を最大限に発揮しようと努力を惜しまなかった。出世するためにそうするのではない。改良すべき点がいろいろと眼についてきて、じつとしていられなくなるのである。
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■ヨーロッパ各国の文明に驚嘆し、教育に力をいれた

<本文から>
 その後、徳川昭武民部公子の随員として、ヨーロッパに約一年間滞在しているうちに、別天地のような各国の文明に接し、驚嘆した。もっとも心をゆさぶられたのは、鉄についての工業の大発展であった。
 栄一は日本における商工業者の力が、実に弱小であることを痛感した。政治体制に新風を導入することも大切であるが、それよりも商工業を発展させ、国富を養い、実業家の地位を引きあげねばならないと考えるようになった。
 明治六年に大蔵省を辞職したのも、年来の希望を実現させたい素志に従ってのことであった。当時の商工業者は、金儲けさえできればよいという、視野のきわめて狭い考えを、小僧の頃からたたきこまれた者ばかりで、実業教育が必要であるとすすめても、商売は実地に覚えこめばよいとして、まったく反応を示さない。
 栄一はヨーロッパ諸国の商業教育の実態を眼にしてきた。貿易をおこなうには商業地理、商業史、法制経済、科学などさまざまの知識が必要であった。そういう学問を身につけてなければ、外国人との交渉を円滑におこなうことができない。
 そのような教育機関の設置を早急に進めたいと考えていたとき、森有礼が商法講習所の経営を東京会議所に托したので、栄一は協力を惜しまなかった。
 商法講習所発足の当初は、生徒がわずか三十人ほどで、学校といえるほどの体裁をそなえていなかったが、途中幾度も経済困難によって廃校の危機に遭いつつも、栄一はその都度、有志から寄付金を募り、農商務卿に建議をして補助金をうけた。
 その結果、商法講習所は官立となり、東京商業学校と改称し、東京商科大学へと発展していったのである。
 栄一は東京会議所会頭であった明治八年頃、養育院の監督を府知事から委嘱されると、快諾した。欧州諸国では慈善事業がきわめて発達しているのを実見しており、社会事業の必要性を認めていたためであった。
 栄一はさっそく、上野の養育院を実地視察して、子供と老衰者、病気で生活の道を失った者の三類に区別して、救養することにした。
 このとき、栄一は子供の教育につきさまざまの発見をしたと、つぎのように記している。
「子供の事については種々なる研究を遂げた。なぜかというに、養育院に入院する子供の多くは棄児であるからである。
 とかく棄児の発育が十分でなく、好結果を得るに困難であることは、事物の進歩せぬその当時にあっては、むしろ当然とされていたのであるが、それは主として食物と住居の悪影響が原因となっていた。
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■養育院事業に力をつくす

<本文から>
  その頃養育院に収容した子供は、私の眠から見れば特に悪いように思われた。細民窟の子供に比較しても発育が悪いし、挙動が清澄でないし、なんとなく気の重いところがある。栄養不良のためではないかと思って、その点も研究してみたが、そうでもない。
 どうも不審であると思うて、さらに研究を進めた結果、ようやくその原因を発見した。一般世間の温かい家庭に育つ子供を見ると、すねる、跳ねる、あまえるという自由さがある。
 笑うのも泣くのも、自分の欲望を父母に訴えてこれを満たし、あるいは満たさんとするひとつの楽しみから出ている。
 しかし養育院の子倶にはそれらの愉快がなく、楽しみがなく、また自由さもない。それに、誰に頼ろうという対象者もないので、自然に行動が不清澄となり、幼いながらも孤独のさびしさを感ずるようになる。それがひいては子供の発育に大関係があることを知った。
 それでこれらの子供を順調に発育させ、のびのびとした気持で世のなかに出るようにさせなければならぬと考え、それには家族的の親しみと楽しみを享けさせるのが、もっとも肝腎であると思った。
 そこで書記の一人にいわば親父の役をするように注意させ、毎日煎餅や薩摩芋などをその書記の手から与えて、しだいに子傍らと接近させるようにし、時にはこれらの子供の遊び相手となって親しみを増させるようにしたのである。
 この方法を実行してみるとなかなか成績がよく、いままで沈みがちであった気持も直り、発育のほうも以前よりはよほどよくなってきた。そしてついには子供らも親のようにその係の者を尊敬し、よろこばしい時も悲しい時も、また何やかやの不平なども、すべて遠慮なく訴えるようになった。
 その成績が良いので、その後引きつづきこの制度を採用しているが、この点は「私が幼童者を取扱う点についての一発見であると云うても差支えないと思うている」
 栄一はその後長く養育院事業に力をつくし、東京府の養育院であるか、渋沢の養育院であるかといわれるようになった。
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■栄一は必要な事業と思えば損失を重ねても見限らなかった

<本文から>
 明治十九年から二十年にかけて、世間は不景気となり、金利は低落した。この時期に擡頭した新規事業の数は、きわめて多かった。
 栄一はわが国の経済施設のほとんどすべてと、近代商工業を育成した第一人者として、産業界の先頭に立ち、活躍をつづけていた。欧米で発展した新規事業を実業界にうけいれ、基礎づくりからはじめる過程は、失敗の累積であった。
 先駆者としての苦心と失敗、物質上の損失に堪え、失敗に屈することなく堪えぬいてのちに、世界の貿易競争に勝ち抜く実力をそなえた大企業に成長してゆくのである。
 栄一は日本国にとって必要欠くべからざる事業であると思えば、どれほど損失を重ねても見限ることがなかった。協力者がひとりもいなくなっても、努力をつづけた。
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■商工業以外については接触を避けてきた

<本文から>
 明治三十三年五月、栄一は男爵を授けられた。それまで華族は公卿、旧大名、文武官僚のうち功績ある者にかぎられており、商工業者で授爵の恩命をうけた者はなかった。
 栄一は自叙伝に、つぎのような述懐をしている。
 「私は明治初年官界に身を置いていたが、深く西欧列強の形勢を考えると、今後彼らに対抗しうる国力をたくわえるには、わが商工業を発達させることが第一であると信じ、官を辞し民間に身を置いた。
 もとより資力、識見ともに足りないので、はたしてどの程度に進展できるものか見当もつかない。当時の日本の経済力を測るものさしがまったくない有様で、欧米諸国と比較することさえできなかった。
 欧米では、政治は実業を助ける機甜閑であった。実業が土工体で、政治はその客体であった。だが日本では、政治をおこなうために実業で金を稼ぎ、その金で政治力を拡張するという、欧米とはまったく反対の考えが通用していた。
 このため私は日本がこのままではとても発達しないと考え、ひたすら商工業に従事し、政界には絶対にかかわらないと覚悟した。
 この覚悟をきめたうえは、政治に対する名誉というものは、得られるものでもなし、受けるべきものでもないと考えた。
 その後三十年のあいだ、商工業以外の事柄については、きびしく接触を避けるようこころがけていた。
 日本の社会では、勲章とか爵位とかいうものは、すべて政治に関する名誉であって、商売に関する名誉ではないと了解していた。
 そのため、授爵の恩命は予期しないことであったので、拝受すべきか否か、おおいにためらった。どういう御意からこのような恩命が出たかということが、まったく理解できなかったので、一布衣の民間人で実に意外な光栄であり、恐催するばかりであった。
 商業会議所、銀行集会所、商工業諸会社の人々が、私を招待し祝賀の宴をひらいてくれるので、私は恐縮するばかりで心苦しく感じた。
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■実業界に入った理由は日本の商業道徳を一新するため

<本文から>
「人間の能力には限界があるからね。一人が一役をつとめ、それに全力を注ぎこむのがいいんだ。一人でどんな仕事でも頼まれるままに引きうけ、幾十もの会社に関係して、わが力量以上の仕事をするのは、本来道を誤っているんだ」
 服部は反論した。
「私は渋沢さんをよく知っているが、欲の深い人ではない。君が批判するのは彼の人柄を知らないからだ。一度渋沢さんに会いたまえ」
 服部は栄一に事情を告げ、野依と面談するようすすめ、快諾を得た。
 栄一は自分の心境を、つぎのように語った。
 「私が実業界に入ったのは、財産をこしらえようとか、栄達して世に名を知られようと考えたためではない。私ははじめ大蔵省にいたが、世情はまったく官尊民卑で、旧幕時代とくらべ、商業道徳はまったく変っていなかった。
 このような状態で諸外国と交誼をむすび、通商を交せば、商業道徳の低さを世界に喧伝するようなもので、是非一新しなければならない。私はこの目的のために実業界に転身した。富や栄達が欲しければ、官界から脱することもなかったであろう。株式会社の合本法を用い、明治六年に第一銀行を創立したのは、実業界改善のためである。
 ご存知の通り、仕事をするためには、信用とともに相当の資金がいる。だから有望な株を買い、しかるべき給料ももらい、たしかに財産はふえてくるが、致富は真の目的ではないのだ。あなたは一人一役というが、それも時と場合による。
 たとえば新開地で町づくりをすれば、はじめは諸商売を分業的におこなえるものではない。呉服、荒物、日用品などを一手に商う店屋が必要である。それはやむをえないことだ。日本の実業界は明治以降かたちづくられたものであるから、いってみれば新開地のようなものだ。
 それで商業、運輸、保険、工業の諸事業を育ててきたが、そうする必要がなくなる時機がやがてやってくれば、私は身を引くつもりだ。
 それから君は諸会社からの給料だけでは、今日の産を成すことはできないというが、たとえば十万円である有望な株を買うとする。
 それがいつのまにか二十万円か三十万円に値上りしている。財産をふやそうと思っているわけではないが、事業に関係していると相当の資金が必要になる。こうして自然に多少の財産ができたが、それは断じて目的ではない。とにかく私のいうことが真実か否か、それは今後の私の行動を見ておれば分ることだ」
 栄一はそのときすでに、財界からの引退を心にきめていたのである。
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