津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          小説渋沢栄一(上)

■腐敗した幕政に反抗する考えが芽生える

<本文から>
「そのほうの身代ならば、五百両や千両は何でもなかろう。ことに御用を足せば追い追いに身柄(身分)もよくなり、世間に対して面目をほどこすということになる。父に申し開かせるなどと、面倒なことはいたさずともよい。いったん帰ったうえで、またくるなどと緩慢なことは承知まかりならぬ。この場で承知したと申せ」
 同行した二人の商人は顔色を変え、代官のいう通りにしろと、しきりに袖を引く。さからえば、あとからどんな難題をもちかけられるか分らないからである。
 代官は栄一をさげすむように見て、からかうように口を曲げてたずねた。
「貴様はいくつになるのだ」
「へい、私は十七歳でござります」
「十七にもなっておるなら、もう女郎でも買う年頃だ。してみれば、これしきの御用に返答のできぬわけはない。ただちに承知しろ」
 栄一の叛骨が頭をもたげてきた。
 岡部の領主は、定められた年貢を取りたてているうえに、返済もしない金を御用金などといって取りたてる。それも人を軽蔑嘲弄して、貸付金を取りたてるように命じる道理は、どこから生じたものであるか。
 代官の言語動作は無知蒙昧の徒としか思えない。このような鈍物が人を軽蔑するのは、大名役人を世襲にするという、徳川の政治が原因で、もはや弊政の極みに至ったものだと、慨嘆した。
 考えてみれば、自分もこの先百姓をしていると、あの代官のような虫けら同様の思慮分別もないものに、軽侮をうけねばならない。まったく残念千万なことだ。
 栄一は胸中の不平をおさえつつ、代官にはっきりと申しいれた。
 「私は父から御用をうかがって参るよう、申しっけられたばかりでござります。はなはだ恐れいりまするが、いまここでただちにお請けはできませぬ。委細を承ったうえで、その趣を父に申し開かせ、お請けをいたすということなれば、そのときふたたび参じてお請けいたしまする」
 代官は激怒して散々罵声を浴びせるが、石のように動じない栄一に罰を与え、牢屋に放りこむまでは、さすがにできなかった。
 栄一は二里のいなか道を、二人の連れとともに帰るあいだ、考えこんだ。
 いまの世のなかでは、農工商の庶民は武家の支配に屈していなければ、生きていけない。庶民の生命は塵紙一枚の値打ちである。
 岡部の領主は、年貢を取りたてたうえに御用金を取りあげ、百姓町人を軽んじ、財貨を奪って自ら悪行を恥じるところがない。
 あの代官のような浅薄な人物が、いばって世渡りができるのは、幕府の政事がまちがっているためである。
 当時は百姓の小停に対する代官の応対は、どこでもそのようなもので、栄一の連れの商人たちはさげすまれても、それが世のならいであると、何とも思っていない。
 栄一は学問をして、ひと通りの道理をわき女えているだけに、腹が立ってしかたがなかった。あとで代官が栄一のことをおそろしい強情者だといったという噂が耳にはいったが、その頃から腐敗した幕政に反抗する考えが頭をもたげていた。
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■一橋家へ仕官するという、融通のきく判断力をそなえていた

<本文から>
 「なるほど、そうであろう。ついてはこのさい足下らは志を変え、節を屈して、一橋の家来になってはどうだ。この一橋家は、諸藩とはずいぶん違う。いわゆる御賄料で暮らしをたてている、いわばお寄人同様なお身柄だ。重立った役人も、皆幕府からの付人で、かくいう拙者も小身ながら幕臣である。
 近頃、一橋家へ付けられたようなわけだから、人を召抱えるの、浪士を雇うのということは、ずいぶんむつかしい話だけれども、もし足下らが当家へ仕官しようと思うのであれば、平生の志がおもしろいから、拙者は十分に心配してみようと思うがどうだ。
 もちろん、さしあたっていい位地を望んでも、それは決してできぬ。当分は下士軽輩でしんぼうする考えでいなければならぬ。
 足下らが、今日いたずらに国家のためだといって三叩をなげうったところで、真に国家のためになるわけでもなかろう。足下らもかねて聞いているであろうが、この一橋の君公は有為の君であるから、たとえ幕府が悪いといっても、一橋はまたおのずから少し差別がある。下士として仕えるにも、前途有為の君公に仕えるならば、たとえ節を屈しても、いささか志を慰めるところがあろうではないか。その気があるなら、拙者はあくまでも尽力して周旋しよう」
 栄一たちは平岡円四郎の厚情を謝し、宿に戻って相談のうえ、あらためて返答に参上するといい、いったんひきあげた。
 従兄の喜作は、一橋家へ仕官するのを望まなかった。
 喜作は、これまで幕府を潰す計画に奔走していた者が、いまになって幕府三脚のうちの一橋家に仕えるのは、わが心に恥じるところでないといえるかと、仕官に反対した。
 栄一は喜作よりも融通のきく判断力をそなえている。
 「なるほど喜作さんのいうことは、その通りにちがいねえが、ほかになにかいい工夫があるだろうか。首をくくって死んでも、人はほめてくれねえぞ。我々は高山彦九郎(一七四七〜九三) や蒲生君平(一七六八〜一八一三) のように、気節に見るべきところはあっても、何の功績もなく一生を終えるのはいやだ。
 いさぎよい人だと褒められるだけで、世のなかに対して何の利益ももたらさなけりや、たとい志あるんだといわれても、何にもならぬ。
 このまま、茶久で居坐っていれば、幕吏に縛られ、牢屋ゆきだ。うまく逃げたところで、この先どうして食ってゆけるか。いよいよ行きづまれば、人の物を奪うような悪徒、泥棒にでもなるよりほかに仕方なくなるだろう」
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■幕府が崩壊すれば破滅も覚悟していた

<本文から>
 「おれは思いがけないしあわせをうけることになったが、お前はこののち運を天に任せて、慶喜公にお目見できる地位を求めるようになさい。しかし幕府はもう長くは保たないだろうから、おたがいに亡国の臣となるのを覚悟していなければならぬ。それにしても、ただ末路に不体裁な事がないようにしたい。
 おれは海外にいて、お前はお国にいて、遠く離れることになったが、おたがいに末路に関しては恥しからぬ挙動をして、死ぬべきときに死恥を残さぬようにしたいものだ」
 栄一たちはそのとき、前途がひらかれているとは思っていなかった。幕府が崩壊すれば、幕臣たちも破滅するだろうと覚悟をきめていた。
 洋行しても幕府が潰れたときは、日本に帰国することさえ叶わなくなるのではないかと、栄一はひそかに考えていた。そのときは、どうとでもなれと覚悟をきめたのは、幕臣として当然であった。
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■主義に殉じて死ぬような狭い視野を持っていなかった

<本文から>
 正月二十一日、香港でフランス郵船アンベラトリスという巨船に乗りかえた一行は、サイゴン、シンガポール、セイロンと寄港してゆく。
 気候はサイゴンに入港した正月二十五日頃には日本の土用のような暑気であった。サイゴンはフランスが十年ほど前に占領した植民地で、一万人の宣丁隊が駐屯していた。
 製造所、学校、病院、造船所が建設されていて、東洋におけるフランスの拠点としての面目を整えつつあった。
 シンガポールはイギリスの根接地で、民部公子一行はヨーロッパという大ホテルに泊った。サイゴンよりも市街が完備しており、横浜を出てのち、寄港地に上陸するたびに栄一は白人の武力、財力を見せつけられた。日本では幕府が長州との戦いに疲弊しているが、狭隆な国内で西南雄藩に圧迫されているあいだに、欧米諸国が本格的な攻撃をしかけてくれば、どうなったであろうか。
 中国をはじめ、東洋の諸国のように欧米の武力のまえに屈服することなく存在しているのが、ふしぎに思えた。
 栄一は、蒸気船の舷側から銀貨を投げてやると、大勢の現地人の子供が先を争って矢のように海中に潜り、銀貨を拾ってくるのを見て、内心に不安がこみあげてくるのを押さえられなかった。
 攘夷活動をはじめて以来、栄一は破滅の危険が身に迫ると、たちまち立場を変え、生きのびてきた。彼の身内には、ふしぎな平衡感覚がある。
 彼は主義に殉じて死ぬような狭い視野を、持っていなかった。思想の狂熱に駆りたてられ、成算のない闘争に身を投じることができないのは、現実に対する判断力がすぐれているためであった。
彼には、わが能力をできるかぎり発揮してからでなくては、死にたくないという願望があつた。そのため、従兄の喜作とともに一橋家の家臣となり、さらに幕臣に転じ、下僚の身分からしだいに頭角をあらわしてきた。
 しかし、思いがけない運命に導かれ、海外に出てみると、白人の支配する広大な国々があり、現地人は牛馬のように彼らの膝下にひれ伏していた。
栄一は、日本が白人から独立国として認められているのは、幕府と三百諸侯の施政が、全土にあまねく及んでおり、高い文化をそなえているためであろうと思った。
 だが、今後のなりゆきによっては、いま幕府に接近しているフランスと、薩摩藩に密着する姿勢をあらわしているイギリス、また北方からしきりに南下の姿勢をあらわしているロシアが、隙をうかがい突然攻め寄せてきて、日本を占領する危険がある。
 おれも海外の様子を実見するまでは、これほど西欧諸国が世界の各地に手をひろげ、力を養っているとは知らなんだ。井底の痴蛙とはよくいったものだ。白人には気が許せぬ。あの連中に打ち負かされないためには、その文明をわがものとしなければならない。切支丹伴天連の手品のようだと、あの連中の越列機篤児におどろかされたなら、一日も早くその技をわがものにしなくてはならぬのだ。俺は日本の人々が知らないフランス国の文明を見聞して帰りそれを国内に知らせねばならぬ。そうすることが、日本を破滅の淵から救いだすはたらきの一助になるのだ−
 一行のうちに、栄一のように西欧文明の威力を感じとった者はいたが、その数はすくなかった。
 おおかたの者は、暑熱も苦にせず寄港するたびに眺望の変る異国の見物を楽しんでいた。水戸藩から随行した、七人の壊夷派の小姓(底従)も、しだいに洋風の暮らしむきになれてきていた。
▲UP

■栄一の述べたバンク、合本組織

<本文から>
 栄一は大久保と勘定組頭平岡準蔵にさっそく建言した。
「ヨーロッパでは小資本を集めて大資本となし、これによって商工業をいとなんでおります。当藩でもその前例に学び、経営をいたせば、将来の繁栄を招くことになるでしょう」
 当時、政府では太政官紙幣を発行し、全国に通用させるため各藩の申し込みに応じ、これを年賦で貸付けていた。静岡藩の紙幣借入れ高は五十三万両ほどであった。
 栄一はこの件につき建言した。
「私の見るところでは、これまでの藩制は到底長続きしないと存じます。ヨーロッパのように郡県制になる形勢である。そうなれば各藩が拝借する借財は返納することになるでしょう。
 その場合、借受け金をただ流用していては返済の道に窮し、藩の滅亡の原因となるやも知れませぬ。そうならぬように、この借受け金については特別会計として興業殖産の方面に用いるようにして、それによって得た利益を返納金にあてるようにいたすべきです」
 大久保、平岡は栄一の述べたバンク、合本組織についてははじめて聞くことであり、感心した。
 大久保はいう。
「そのような小資本を集めて大資本となすためには、しかるべき手順をふまねばなるまい」
「さようでございます。いってみれば商法会所というようなものをつくり、藩の借用金と藩内豪商の資金を集め、合本組織として殖産事業をはじめねばなりません」
「よかろう、儂も平岡も至極賛成だ。できるだけ合本組織の立ちあげに力をつくすゆえ、まず明細を目論見書をそえ、差しだすがよい」
 その頃、栄一が下宿していた静岡呉服町五丁目の川村家の主婦であったとよ女が、昭和四年、八十歳に近い老齢で語ったつぎのような談話がある。
「その当時渋沢様には御名を篤太夫様とおっしゃられました。徳川様(民部公子)とフランスヘ御研究にいかれて帰ってこられたとき、江川町の西部へ市内の大きな人たちを寄せて商事会社を設けられて、それを常平倉(はじめは商法会所と呼んだ)と呼ばれておりました。
 そして渋沢様には拙宅の二階におられて徳川様(慶喜)へいらっしやいました。洋行なされたときの御研究を冬中に出されよとの趣で、三日間に高さ二、三尺もある調べ物をととのえて出されました。そのとき私の夫は徳太郎といって二十二歳でしたが、渋沢様に頼まれまして算盤の御手伝いをしましたが、町内では相当自信を持っていたのが、渋沢様はお速くてとても追いつくことができないと、その御手際に感心しておりました」
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