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<本文から> 「そのほうの身代ならば、五百両や千両は何でもなかろう。ことに御用を足せば追い追いに身柄(身分)もよくなり、世間に対して面目をほどこすということになる。父に申し開かせるなどと、面倒なことはいたさずともよい。いったん帰ったうえで、またくるなどと緩慢なことは承知まかりならぬ。この場で承知したと申せ」
同行した二人の商人は顔色を変え、代官のいう通りにしろと、しきりに袖を引く。さからえば、あとからどんな難題をもちかけられるか分らないからである。
代官は栄一をさげすむように見て、からかうように口を曲げてたずねた。
「貴様はいくつになるのだ」
「へい、私は十七歳でござります」
「十七にもなっておるなら、もう女郎でも買う年頃だ。してみれば、これしきの御用に返答のできぬわけはない。ただちに承知しろ」
栄一の叛骨が頭をもたげてきた。
岡部の領主は、定められた年貢を取りたてているうえに、返済もしない金を御用金などといって取りたてる。それも人を軽蔑嘲弄して、貸付金を取りたてるように命じる道理は、どこから生じたものであるか。
代官の言語動作は無知蒙昧の徒としか思えない。このような鈍物が人を軽蔑するのは、大名役人を世襲にするという、徳川の政治が原因で、もはや弊政の極みに至ったものだと、慨嘆した。
考えてみれば、自分もこの先百姓をしていると、あの代官のような虫けら同様の思慮分別もないものに、軽侮をうけねばならない。まったく残念千万なことだ。
栄一は胸中の不平をおさえつつ、代官にはっきりと申しいれた。
「私は父から御用をうかがって参るよう、申しっけられたばかりでござります。はなはだ恐れいりまするが、いまここでただちにお請けはできませぬ。委細を承ったうえで、その趣を父に申し開かせ、お請けをいたすということなれば、そのときふたたび参じてお請けいたしまする」
代官は激怒して散々罵声を浴びせるが、石のように動じない栄一に罰を与え、牢屋に放りこむまでは、さすがにできなかった。
栄一は二里のいなか道を、二人の連れとともに帰るあいだ、考えこんだ。
いまの世のなかでは、農工商の庶民は武家の支配に屈していなければ、生きていけない。庶民の生命は塵紙一枚の値打ちである。
岡部の領主は、年貢を取りたてたうえに御用金を取りあげ、百姓町人を軽んじ、財貨を奪って自ら悪行を恥じるところがない。
あの代官のような浅薄な人物が、いばって世渡りができるのは、幕府の政事がまちがっているためである。
当時は百姓の小停に対する代官の応対は、どこでもそのようなもので、栄一の連れの商人たちはさげすまれても、それが世のならいであると、何とも思っていない。
栄一は学問をして、ひと通りの道理をわき女えているだけに、腹が立ってしかたがなかった。あとで代官が栄一のことをおそろしい強情者だといったという噂が耳にはいったが、その頃から腐敗した幕政に反抗する考えが頭をもたげていた。 |
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