津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          戦国城塞傳

■安土城の異形

<本文から>
 私は、標高百九十九メートル、比高百五メートルの安土山上に、湖東平野を睥睨して立っていた、七層六階のこの世のものと思えないきらびやかで異形の天主を、まだ中世の心根が強く残る農民たちがどう見ていたかと想像する。
 多分、農民だけでなく、武士たちでさえも、この城を奇怪極まりない魔王の棲まうところと見ていたのではないか。
 安土城炎上とともに、天下を睥睨するがごとく中空にそびえていた魔王の棲む城は焼け落ち、諸人みな、何か憑きものが落ちたように心の平穏を取り戻したのではなかろうか。
 そんなことを想像させるほど、安土城は日本城郭史にあって類似のものが、先にはもちろん、あとにも存在しない特異な城であった。信長という人物が、その前後数百年にわたって比肩するものもいない革命児、非常識人であることと安土城の異形ぶりとはまさに重なっている。 
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■安土城の狙いは信長の力を宣伝させるため

<本文から>
 商人たちが安土で宿をとれば、城下の経済発展につながっていく。
 しかし信長はもうーつ別の狙いをもっていた。
 壮麗で異形の安土城を眺めみた商人たちが、信長の力をあらためて認識し、各地で信長の盛んなるさまを言いふらし、いまだ信長に屈服しない大名に心理的圧迫をかけることをであった。
 信長は卓越した人間心理の洞察者であり、同時にすぐれた宣伝マンでもあった。
 掟書の第九条には、安土をおとずれた他国者の保護についての規定がある。
 「他国ならびに他所の族、当所にまかり越し、有りつき候者、先々より居住の者同前、誰々家来たりといえども、異義あるべからず」
 他国者、他人の家来といえども、安土に来て住むからには、これまでの住人とまったく差別しないというのである。
 信長のように、諸国の商人、浪人などが城下へ入り込むことを許容する戦国大名 など皆無であった。城下に素姓の知れない者が集まるのは、防衛上の弱点になると考えたからである。
 信長は、意識の上では一国一城の主などはるかに通り越し、天下人そのものであった。それゆえに、防衛の城など必要なかったし、安土は天下人の城下である、多くの人がこの街に移り住めばよいと考えたのである。
 信長はきわめて大度であった。
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■わずかな手勢で徳川軍を破った真田

<本文から>
 徳川軍は佐久郡より海野平に出て千曲川を渡り、その右岸に沿って上田平へと北上してきた。旌旗をはためかせ、長蛇の陣を連ねた徳川勢が間近に迫ったとの注進をうけても、昌幸は平然と本丸で碁をうっていた。北条、徳川の二大勢力を敵にまわし、獅子に狙われた仔大のような小領主であるのに、自若として顔色も動かさない。
 やがて、戸石城を出た二百ばかりの信幸勢が、林立する旗指物とともに野末にあらわれた徳川勢の前面に出ると、散発的に鉄砲を撃ちかけた。徳川勢の足軽鉄砲衆が筒口をそろえて、豪雨のような斉射でこれに応じるか少人数の信幸塵下の男たちは、敏捷に駆け走って位置を変え、追われると上田城方向に走り逃げる。
 信幸と昌幸の間で、入念な作戟の打ち合わせができていた。
 信幸が呼子を吹き、全隊をまとめ、あわてふためき城内へと逃げ込む様子をわざと見せると、真田勢を小勢と侮る徳川勢はあとを追い、三方から上田城下になだれ込んだ。
 城下を全て焼き払おうとの意見もあったが、その策は無益だとして入れられず、徳川勢は我攻めで大手門を打ち破る。
 城兵の反撃はわずかで、大久保隊、平岩隊を先頭に勢いにまかせて城内になだれ込んだ寄せ手は、間なしに二の丸の門際に押し寄せる。
 数千の寄せ手がひしめきあいつつ、二の丸の門扉が打ち壊されると同時になだれ込もうと門前で身がまえていたそのときである、突然、櫓の上から大木が何本も転がり落ちてきた。門に取りついていた寄せ手五、六十人が押しつぶされ、地面を朱に染めた。
 同時に四方の櫓、塀の狭間から、落雷のような轟音とともに、鉄砲が撃ちかけられた。矢も間断なしに飛んでくる。徳川勢は右往左往し、いたずらに城兵の矢玉の餌食になるばかりで、見る間に死傷者の数を増やしていった。
 先陣を切って城内に入った平岩隊がまず崩れ、潰走しはじめると、あとの隊もわれ先にと城外へ逃れ出ようとした。勝負に熱中するふりをしていた昌幸が、「もはや、頃はよし」と突如盤面を突き崩し、立ち上がったのはこのときであった。
 かれは手早く甲宵をつけると、二の丸門を開き、押し太鼓を急霞のように打ち鳴らしつつ、喚声をあげ徳川勢に突きかかっていった。本丸の精兵もこれにつづく。真田勢は城内諸方に兵を埋伏させていたので、敗走する敵を無駄玉もなく撃ち倒すことができた。
 ようやく城外へ逃れ去った徳川勢も、町筋は狭く、しかも千鳥掛けに柵が結わえられていたので進退に窮し、次つぎに討ち取られていく。
 損害の軽微だった鳥居元忠隊は、国分寺付近まで逃れてきたところを信幸の手勢に急襲され、隊形を崩して敗走する。
 兵をまとめ引きあげようとしていた大久保隊が、鳥居隊の窮状を救おうと駆け戻るが、そこを昌幸本陣勢千余に攻めかかられ、鳥居、大久保両隊とも四分五裂となり、ようやくのことで神川を渡って対岸に退くことができた。
 この日の合戟で、徳川勢の戟死者は千三百余人の多数にのぼった。負傷者を含めると、全軍七千余人の半数が、わずか数時間の城攻めで戦闘力を失ったのである。真田勢の戦死者は二十一人。胸のすくような快勝であった。
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■前田利家は「文化」と「経済」に着目した統治に力を注いだ近世大名

<本文から>
 利家に見られる一人の人間のこうした変化は、そう珍しいことではないだろう。昔の手に負えないやんちゃ坊主が、何十年ぶりかに再会してみふと温厚な商店主や町の世話役などに変身していることは、誰しも経験していることである。
 私は利家の変化について言えば、むしろこれから述べることのほうに、驚きを感じざるをえない。
 一つは利家が晩年、儒者藤原惺窩の門に学び、この時期の武将には珍しく漢籍が読めたことであり、さらにもっと驚くべきことは、かれの槍檀のなかにいつも算盤が入れられていたということである。
 加藤清正が関が原の戦いのあと、かつて利家から、「以って六尺の孤を託すべし、以って百里の命を寄すべし」という『論語』(泰伯篇)の一節を聞かされたが、当時は無学でその意味がよくわからなかった、しかし今となってはよくわかる、と述懐したという話が伝わっている。利家自身、ある時期から書物を読みはじめ、一方、戦場にあっては常にお金のかかりをしっかり考えていたのである。
 私は、講演などでこれまでに何度となく北陸金沢の街を訪れる機会をもった。いまや街の大きさでいえば、東京、大阪、京都という江戸期の三都はおろか、仙台、福岡、広島などに比べても、人口は半分に満たないほどである。
 だが、それら外様雄藩と呼ばれた諸大名の城下町が、甚大な戦災の被害を受けたということがあるにしても、いずれも小型東京にすぎず、金沢の街としての風格は一頭地を抜いている。文化の奥深さが違う。
 地元の新聞社の人に聞くと「藩政以来という老舗がまだ数多くあります。ただ長い歴史のなかで、暖簾こそ昔のままで出ていますが、経営者はずいぶん代わっているようです」という話だが、それにしても加賀友禅、金沢漆器、金箔、木工、焼き物、和菓子など伝統工芸の老舗やそれを担う人たちの多さは、京都に次ぐ厚みをもつ。私の家にも陶器や漆器など、金沢で買ってきたものが少なくない。江戸時代、京都は日本最大の産業都市であったが、金沢もまたその意味で、相当の産業都市であった。
 利家より五代、綱紀の時代に加賀は「天下の書府」といわれ、江戸、京都と並ぶ学問の中心となり、当時の碩学である木下順庵、室鳩巣などが、加賀藩に仕えた。そうしたことも、金沢の街としての風格を形づくる大きな要因となったことは間違いない。金沢の裏町を歩くと、いまでも加賀宝生の謡が家々から聞こえてくるという。
 戦国の余韻が色濃く残る豊臣時代にあって、かつて「槍の又左」と呼ばれた荒くれ男は、軍事偏重の戦国大名の枠組みから抜け出し、「書」と「算盤」、即ち「文化」と「経済」に着目した領国統治に力を注ぐ近世大名へと大きく一歩を踏み出していたのである。
 利家の遺言状には「武道ばかりを本とすることあるまじく候」という一言が入れられている。かれが本拠とした金沢の街が、いまだに文化都市として、日本の諸都市の中で異彩を放っているのは、けだし当然かもしれない。
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■小田原城は当時として最大最強の城郭

<本文から>
 北条早雲に始まる後北条氏の居城小田原城は、豊臣秀吉が大坂城を築くまでは天下無双、難攻不落の巨大な城郭であった。当時の日本は世界一の金銀の産出国であり、世界最強の軍事・経済大国であった。その点からすると、小田原はその時代における世界最強の軍事都市だったといってもよい。
 平成七年(一九九五)に小田原市が編纂した「小田原市史別編 城郭』に収載されている、最大時の総構図を見ると、本丸を中心に東西・南北を横・縦軸にほぼ菱形をなしており、東北は酒匂川近辺、西南は早川近く、北西は現在、城山と呼ばれる地区辺りまで総堀が広がっており、南東は相模灘に面している。
 私は小田原城というと新幹線の車窓からしか見たことがないのだが、近世城郭としてはそれなりの規模をもっているように見える。この江戸時代に譜代大名の大久保氏によって関八州の大手として改めて建て直された小田原城が、後北条氏盛時の本丸・二の丸跡でしかないことからすれば、往時の規模の壮大さがわかろうというものである。規模だけでなく、地形の高低を巧みに利用して、堀が縦横に張り巡らされていたと史料にはある。畿内の城のように石垣積みの部分は少なく、もちろん天守閣もなく、秀麗さでは劣るものの、巨大で難攻不落の城塞だった。
 私が豊臣秀吉を主人公にした小説『夢のまた夢』を書くにあたり調べたところによると、天正十八年(一五九〇)、秀吉が東海・北陸以西二十万余の大軍勢で押し寄せたときの小田原城は、周囲五里(二十キロメートル)余り、城内には商人町、職人町が取り込まれ、農地も少なからずあった。
 小田原城は、後述するように二代目氏綱の時代に関東経営の拠点として本格的な整備がはじまり、三代氏康のころになると相当な規模に広げられた。その後も度々拡張整備されていき、秀吉の小田原攻めを前にさらに増強され、当時としては最大最強の城郭になっていたと考えられる。
 北条の家臣として小田原龍城に参加した三浦浄心が著した『北条五代記』は、当時のさまを、「この城東西へ五十町(五・五キロメートル)、南北へ七十町(七・七キロメートル)、めぐり五里の大城なり。総構えに堀をほり、土居、石垣の上に井楼矢倉すきまもなし」と記している。
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■武田勝頼の運命を狂わせた難攻不落の高天神城陥落

<本文から>
 長篠の合戦については、信長の謀略によって勝頼が、騎馬軍団の疾駆できない狭隘な設楽原におびきだされたとの説がある。織田家の重臣佐久間信盛からの、内通して裏切るとの書状を信じたというのである。ありうる話ではある。
 仮にそうであったにしろ、勝頼の運命を狂わしたのは、やはり父信玄でさえ落とせなかった難攻不落の高天神城を陥落させたことにある。要するに武田軍団の強さと自らの采配への過剰なまでの自信が、身を滅ぼすことになったのである。
 勝頼を狂わせた高天神城が、再び徳川軍の手に落ちたのは、長篠の戦いから六年後の天正九年(一五八一)三月二十三日のことである。織田・徳川、北条に囲繞され、武田家の勢威はふるわず、この時期、駿河は徳川軍に蹂躙されるがままになっていた。武田軍得意の騎馬戦法も、織田・徳川軍がそなえる大量の鉄砲の前には過去のものとなっていた。
 高天神城将岡部丹波守以下二千五百余の将兵は、勝頼の後詰めのないなかを半年あまりも龍城、徹底抗戦をつづけた。かつての小笠原長忠と同じ運命に陥ったのである。
 だが、最後が異なる。家康はかれらの降伏をうけいれなかった。三月二十二日、生き残った千人余の将兵全員が撃ってでた。血路をひらき逃げおおせたのは、横田甚五郎らわずか二百余人だったといわれている。
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■ロンドン、パリをはるかに凌駕する巨大な町・名護屋城

<本文から>
 緑の絨緞をしいたような広々とした名護屋城本丸跡の台地に立ち、北の方角を眺めると、茫々たる玄界灘が眼下に広がっている。晴れ渡った日には、はるか水平線上に、コインを置いたように起伏のない壱岐の島影が見えるという。
 佐賀県東松浦郡鎮西町大字名護屋(現・唐津市)。いまでこそ福岡から車で一時間半あまりと、交通不便をさほど感じさせないが、四百年余り前のこの地は、まさに僻遠と形容するしかない寒漁村にすぎなかった。
 しかし時の権力者の号令一下、わずか半年余りでかれの居城に匹敵する、巨大な城郭がこの標高八十九メートルの台上に築かれた。総坪数は五万坪を超え、往時の規模の壮大さは、いまも残る石垣などからも推測できる。
 城は五層七階の天守閣を備えた本丸を中心に、二の丸、三の丸、弾正丸、山里丸など多数の曲輪が渦巻き型につらなっており、周辺には徳川家康、前田利家はじめ、遠く越後の上杉景勝、奥州の伊達政宗など全国津々浦々から呼び寄せられた諸大名の陣屋百三十余が立ちならんでいた。
 最大の政敵である家康の陣屋が二か所にわけられるなど、配置には微妙な政治的配慮がなされていた。
 この狭隆な海岸線に、武将たちの部下だけではなく、多数の商人職人が移り住み、またたく間に人口二十数万人、当時のロンドン、パリをはるかに凌駕する巨大な町が生まれた。名護屋の町の壮観な様は、狩野光信が描くところの六曲一隻の「肥前名護屋城図屏風」からも窺い知ることができる。
 しかし築城からわずか七年、権力者が亡くなると、武将たちは汐が引くように去っていき、一場の夢のごとくこの地は再び、玄界灘から吹き寄せる風浪にさらされる
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■つくべき主人を選びたがえた遠藤喜右衛門の死

<本文から>
 長政が龍城をつづけた小谷城は、長政の祖父亮政の代に築かれた山城であることは既述のとおりだが、久政、長政の代を通じて徐々に拡大され、さらに信長との対決を機に、さらに城域が拡張されるとともに、堅固な構えに整備されていった。
 今日、小谷城は、越後春日山城、出雲月山富田城、近江観音山城、能登七尾城とともに、戦国の五大山城と呼ばれているが、のぼってみれば、確かにそう呼ばれるだけの規模の雄大さを誇っている。
 もっとも、壮大な石垣が組まれるようなことはなく、戦国初期の山城の多くがそうであるように、急峻な地形と、空濠、土塁によって守備されていた。
 今日、麓にたつ浅井家ゆかりの小谷寺近くの大手道から小谷城址はのぼることができるのだが、一番手前に城下町や北国脇往還を監視する出丸があり、さらに進むと、金吾丸があり、さらに番所へと出る。ここが近世の城でいう大手門にあたり、警戒厳重をきわめたという。これより先が小谷城の中枢部となる。
 城跡を見ると一目瞭然なのだが、小谷城は番所から、御馬屋、大広間、本丸、中丸、京極丸、小丸、そして最奥の山王丸と尾根沿いにほぼ一直線に伸びているのがきわめて特徴的である。いわゆる連郭式と呼ばれる築城形式である。
 山王丸の先を西に進むと、大嶽にいたる。浅井救援に出向いた朝倉勢は、小谷山より一段高いここに砦を築き、立て寵もったことで知られる。
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■久秀と信長の差異は大義の有無

<本文から>
 信長が自分の存在をおもしろがっていることを久秀は知っていた。と同時に、興を感じているうちはいいが、飽きればあっさりとうち棄てにされることも見抜いていた。うち棄てられる前に、こちらが裏切るしかない。
 裏切りという行為には、ある種の麻薬性もあるにちがいない。天正五年(一五七七)八月、久秀は上杉謙信が加賀一向一揆と和睦し、上洛するとの情報を得た。かれは直前に信長から逼塞を許され、石山本願寺攻めのため天王寺表に在陣していたが、八月十七日、突如兵を退き、再び信長に反旗を翻して信貴山城にたてこもる。
 だが、朗報はとどかなかった。北陸は降雪の季節に入っており、上杉軍は兵を越後に退き、久秀の読みは外れた。信長は久秀と親しい松井友閑を使者として遣わし降伏を勧めるが、久秀は首を振らない。
 自分の役回りは終わり、信長は今度こそ処断するにちがいない。悪漢は悪漢らしく、久秀は自らの最期を見きわめたのである。
 織田信忠率いる四万の大兵団が、信貴山山麓を埋めたのは十月二日朝のことであった。予想を超える大兵力であった。
 獣の足もたてられぬほどの堅守を誇った信景山城だが、圧倒的な人数の織田軍の猛攻にくわえ、数日をへずして城内から内応の動きがあらわとなり、落城は時間の問題となった。
 覚悟を決めた久秀は本丸に火をかけ、雪舟の絵、義之の書など和漢の七珍万宝を火中に投じるとともに、信長が懇望した天下に名高い茶釜「平蜘昧」を床に投げつけ、粉々に打ち砕いた。
 天正五年十月十日、爆発炎上する信貴山城天守において、久秀は嫡子右衛門佐久通はじめ一族郎党二百三十余人とともに切腹し、ピカレスク小説を地で行く六十人年の生涯を閉じた。
 翻って考えてみるに、久秀と信長の差異はどこにあったのだろうか。
 久秀は東大寺大仏殿を炎上させたが、信長は比叡山延暦寺を焼亡させている。久秀は将軍と主君を暗殺したというが、信長は越前や伊勢長島において幾万という一向宗徒を殺害している。悪逆非道の呼称は、信長についてもおかしくない。
 しかしそうならなかったのは、信長の行動には常に「天下布武」という大義があったのに対して、久秀にあったのは多くの畿内武士と同様、己の利得のみであったからである。ともに比類無い非道の行為をいくつとなく行ったにもかかわらず、久秀に汚名のみ残ったのは、乱世といえどもひとえに久秀の行動に大義が不在だったからである。
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■謙信の義戦を支えた巨大な財力

<本文から>
 謙信は義戦と称して信濃、関東、さらには越中、能登としきりに兵を動かした。しかし越中、能登を除けば実効的支配を行い、租税や賦役を課したところはない。
 配下の部将たちはそのことに不満をもたなかったのだろうか。謙信という将帥の人間性に心服していたとしても、命を的にして働くのである、何らかの恩賞がなければ、部将たちも懸命に働いてくれないのではないか。
 一方で、謙信は天文二十二年(一五五三)と永禄二年(一五五九)の二度にわたり、数千の兵を率いて上洛し、天皇家、将軍家、あるいは京都や奈良の有力社寺に莫大な献金を行っている。その資金はどこから出たのであろうか。
 謎を解く一つの鍵は、金山である。金山といえば佐渡の相川が知られるが、この開発は江戸時代に入ってからのことである。しかし謙信時代にも、上杉家は日本最大の産金量を誇る越後の高根金山、上田銀山、佐渡の西三河金山などを有しており、金銀以外でも、麻の原料となる青苧、あるいはそれを加工した越後上布の移出により多大な利益をあげていた。
 財政のことに関連していえば、蒲原津(現在の新潟市)、寺泊、柏崎、直江津など越後の主たる港がすべて謙信の料所(直轄領)となっていることも注目していい。謙信は勇将として知られているが、経済面でも優れた治政の才を発揮したのである。また謙信の時代は農業生産力が急速にあがった時代でもあった。謙信自身も盛んに入植を奨励し、開墾につとめている。
 天正六年(一五七八)三月十一日、謙信は、織田軍との決戦を目前にしながら、
 「四十九年一睡夢、一期栄華一盃酒」
の辞世の項をのこして死ぬ。この時点でのかれの版図は、北は出羽庄内から南は加賀にまでおよび、石高は三百万石に達していた。青苧の運上、金銀の産出などをふくめると、天下政権をうちたてた信長も刮目するであろう巨大な財力であった。
 この富が、まさに謙信の義戟を支えていたのである。
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