津本陽著書
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          戦国武将の脳

■信長は扁桃核に残るような強烈な体験を増幅させ蓄積した

<本文から>
【津本】 やっぱり小さいときから、生きるか、死ぬかの修羅場を何度も見ていたんだと思いますよ。十三歳で元服して、三河の大浜というところへ出陣しているんですよ。そのときも非常に勇敢だったと書かれています。だから、人が首を斬られたり、槍で刺されたりとか、そんなのをいっぱい見ていたのだろうと思いますね。夜中に陣屋のなかへ敵の忍びが飛び込んできたりというようなこともあったんだろうと思いますね。普通の人間は、それを経験として蓄積しない場合もあるんですけれども、信長の場合はそれをものすごく頭のなかで増幅させて、自分なりの死生観というものをつくつていったのではないかと思います。 【板倉】 それはあまり学問をしなかったということとも関係ありますか。 【津本】 あると思いますね。 【板倉】 『論語』なんか読んでいたら、あのような型破りの人間になりませんよね。そういうことと関係なく、自分の世界をわあっとつくつていったんですね。自分の生まれ育った環境のなかで、そういうものが形成されていったんですね。その脳がおもしろいなと私は思うんです。自分の経験を増幅させて頭のなかに蓄積させたというのがおもしろいですね。  きっと子ども心にかなり強い恐怖心を待ったのでしょぅね。それで、いつまでも忘れない記憶として残ったのでしょう。これは情動記憶といって、喜怒哀楽に関係する記憶で、扁桃核と呼ばれるところに蓄積されます(28ページ図表1−3参照)。特に脳によく残る記憶といえます。扁桃核を実験的に切除するとこの情動記憶が残らないという研究があります (図表1−2参照)。  信長は、扁桃核に残るような強烈な体験をし、それが一生一貫して持ちつづけた死生観や哲学のようなものになったのでしょうね。  それと、あまり勉強せずに独創性を養っていたというのもおもしろい点ですね。 【津本】  勉強しないほうがオリジナリティーが出てくる。日本経済のためには、これからはあまり受験勉強とかしないほうがいいということがあるかもしれませんね。  
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■信長は母親の愛情が薄かったから「思いやりの脳」が十分発達しなかった

<本文から>  
【板倉】 おもしろいですね。母性願望というのは。母親の愛情が薄かったということと、破滅願望とにどのような関係があるかはよくわかりません。幼少時に母親の愛が希薄であったことが前頭葉の発達と関係があるかもしれません。前頭葉でも前の部分に当たる「前頭前野」と呼ばれる場所は「他人への思いやり」と関係が深いと思いま す。母親の愛が希薄でこの「思いやりの脳」が十分発達せず、他人への配慮も何もないまま破滅的な行動をとったのかもしれません(図表1参照)。  前頭前野のシナプスは五歳から十歳までに急激に増加します(149ページ図表4−2参照)。この時期に母親の愛情が希薄であったことは、この部分のシナプス形成が十分でなく、他人への配慮のない、−方的な性格を形成したと考えられます。この前頭前野は「自己抑制」とも関係の深い場所で、この部分の傷害があると、突然怒ったり泣いたりする、ということがよくあります。現代でいう「キレル脳」に相当します。激情的、残虐性という信長の特徴はいずれも「前頭前野」のはたらきの低下を示すものと考えると興味深いですね。
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■信長が天下をとれたのは、現地徴発をせず百姓から情報を得たから

<本文から>
【津本】 その時分は下剋上の時代ですから、人の寝首をかくくらい当たり前です。主人であろうと、親兄弟であろうと殺して、地位を奪うというのが百年もつづいたのですから。戦争に次ぐ戦争の時代です。そこで信長は十七年間、残虐性の固まりでなければ倒せないような無茶苦茶な、血に飢えたような敵と戦ったわけですよ。ただ、なぜ天下の大半がとれたか。武田信玄、上杉謙信、みんな地の利が悪かったというけれども、そうでもないんですね。武田信玄は本願寺とも親戚だし、朝倉とも親戚だし。上杉謙信は二度も上洛をしています。謙信は、日本海側を小浜まで舟で行くという手もあるし、騎兵隊で近江路を突破するという手もあるし。 【板倉】  戦国武将きっての戦上手の上杉謙信が天下をとれず、信長が天下をとったというのには何か理由がありますか。 【津本】  それは信長の現地徴発に対する考え方によります。信長は、そのころ戦に出ても現地徴発を全くしなかったんです。何らかの作戦をおこなう前に、食糧を街道筋に野づみにするんですよ。それを兵士たちに使わせている。もし必要があって買わなければいけないときは、必ず時価の一割増しないし二割増しくらいで買えと命令しているんです。  京都の「一銭斬り」といって、一銭盗んだ者は斬るというのは、秀吉がつくつた軍法だというけれども、信長なんですね。本当に、自分自身が人の見ている前でバーンと斬るんですよ。だから、みんな震え上がった。  何でそこまでやったかというと、百姓は情報を持っているでしょう。どこにだれがいて、どこまで来ているとか。そういう情報を聞きながら進軍しなければいけないんですよ。ところが、信玄も謙信も焼き討ちさせたといわれています。焼き討ちは暴行略奪です。そうしないと兵隊が動かない。なぜ動かないか。農閑期、みんな戟争に出てきているでしょう。だから、何かみやげを持って帰らなければならない。
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■信長は独創的な回路が発達していた

<本文から>
【板倉】 身近にメモを置き、気がついたら書きとるということをやってみるといいでしょう。始めた当初は脳の回路の発達が十分でなくていいアイデアは出なくても、独創的な発想をくりかえしていると、「独創性脳回路」が発達し、だれも考えることのなかった独創的な発想が可能となります。くりかえすように脳は、鍛えた神経回路は発達するが、鍛えていない回路は衰退するという特徴を持っているからです。  それに、自分で考え出した独創的なことはできるだけ早い時期に他人に話して評価してもらうといいでしょう。そうすれば、どんどん独創的なよい発想ができるようになります。また、会社側は、そうした場をつくることが、社員の独創性を引き出すことになるのではないでしょうか。 【津本】 それはさっきの勉強しないほうがいいという話になるわけですね。 【板倉】 そうそう。他人の考えに振り回されず、自分自身の独創性を追求すべきです。自分のアイデアを上司に非難されても無視されてもひるむことはありません。自分独自の提案が否定されたときは落ちこみますが、またゆっくり精神を立ち直らせて、再度提案することです。要するに独創的なことをいつも考えて提案することが「独創脳」をつくることになるわけです。 【津本】 必要に迫られて、勝つ方法などを考え、トレーニングするということはよろしいですね。 【板倉】 それはいいと思いますね。そういうことで独創性を持っていたのではないかと思います。脳科学で本当に独創的なことを考える脳の仕組みは何かというのは、よくわかっていないところがありますが、先にいいましたように、独創的なことを考えているときにはたらいている脳は頭頂葉と前頭葉で、主に右の前頭葉であろうということまではある程度わかっているんですね。そのへんのところは、信長は大変発達していて、ほかの人になかったものがあったのだろうなという気はしますね。信長は小さいときから、あまり勉強はせず、いろんな体験をしていたから、人の考えないようなことをいくらでも考えることができたのでしょうね。
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■秀吉は楽観的な脳が発達した

<本文から>
【板倉】 秀吉についていえば、人をひきつける資質と脳の構造が、ものすごく関係していますね。でも、一番は楽観的な脳かなと思います。秀吉の楽観性というか、明るさ。危機に遭遇しても、極めて楽観的で、前向きに考えて、それを実行していった力といいますか、そこが秀吉の脳のなかでは卓越したところだなと思います。  ちょっと専門的になりますが、先ほど申しました楽観的な脳というのがあって、「信長に学ぶ」でもお話しした扁桃核といいます(28ページ図表1−3参照)。耳の横、側頭葉というところなんですけれども、ここは恋愛をしたりする脳ともいわれています。おもしろいですね。恋愛をする脳と楽観的な脳とが同じようなところにある。恋愛というのは、必ずしも楽観ばっかりではなくて、私の経験では悲惨な話がいっぱいあります。悲しい話ですけれども……。しかし、そこが楽観的なことを考えているときの脳と同じところにある。さらに帯状回という場所があるんですけれども、そういうところもはたらくと大変楽観的になります。  そのへんがよくはたらくのが秀吉の脳の一番の特徴です。それを鍛えるには、いつも楽観的に脳をはたらかせることです。脳ははたらいた場所が発達し、はたらかない場所が衰える、という性質を持っています。物事をいつも悲観的に考えていると、楽観的に脳が発達しません。逆にいつも楽観的な考え方をしているとこの脳が発達し、ますます楽観的になるということです。物事を悲観的に考えるか、楽観的に考えるかは、何か持って生まれた性格のように見えますが、私は、日常生活のなかで習慣として獲得していくものと考えます。
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■秀吉は共鳴する脳を育て人心を掌握した

<本文から>
【板倉】 秀吉がなぜ他人をあれほど引きつけたかは、秀吉の他人への共鳴・共感があったからだと思います。一夜にして城を築きあげるためにもちろん法外な報酬を用意したとしても、「この人のために」と人に思わせる力がないとできないことです。この点で秀吉の脳を考えてみると、他人の脳に共感する脳を持っていたといえます。他人が悩んでいるときに、本当に他人の気持ちになることができるのが「共感の脳」です。共感の脳を持つには他人と同じ脳の状態になる必要があります。共鳴状態をつくるのです。自分は腹が痛くなくても、腹の痛い人と同じ脳をつくり出すのが「共感の脳」です。他人を引きつけたり、説得するにはこのような「共感脳」を育てる必要があります。人望を得る秘訣といっていいかもしれません。 【津本】 「共感脳」を裏づけるような科学的事実はあるのですか。 【板倉】 最近このことが科学的に証明されました。「ミラーニューロン」と呼ばれるものです。ミラーは鏡でニューロンとは脳細胞のことです。他人の行動や感情を自分の脳に映し出す脳細胞という意味です。他人が苦しんでいるときに活性化しているニューロンと同じように、自分のニューロンが活性化しているというものです。他人の感情と同じような脳の状態をつくつているわけです。常に他人の感情を理解してその人になりきる訓練をすれば、ミラーニューロンは育ちます。たとえば、お母さんが笑ったときに赤ちゃんも同じように笑うというのは、赤ちゃんのニューロンにお母さんのニューロンが鏡のように映った結果でしょう。 【津本】 どうすれば、そうした共感脳を育てることができるのですか。 【板倉】 小さいときのまだ脳の可塑性が十分ある時期に「共感する脳」を育てることが大切です。他人の苦しみや痛みを自分のものとして感じることができれば、「共感脳」は徐々に育ちます。他人を思う感受性です。五歳から十歳までの感受性がその後の「共感脳」作成に関与します。  とはいえ、成人になってからでもこの「共感脳」をつくることは不可能ではありません。いつも他人の痛みを感じる鋭い感性が脳を少しずつ「共感脳」へと近づけます。
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■秀吉は決断力に富んでいた

<本文から>
【津本】 焚き出しをして、夜でもかがり火を昼のように燃やして、替えわらじから、握り飯から、傷薬から、そういったものを全部置いて、兵隊みんな裸一丁で走った。武器とか、武装具とかは舟で運ばせるか、現地で買うんですよ。たとえば姫路へ行くなら、姫路城の周辺の百姓は落ち武者狩りなんかで武器をいっぱい持っているんですよ。そんなのを時価の三倍くらいで出せといったら、みんな出してくる。そういう電撃作戦をやった。 【板倉】 このときの秀吉は決断力に富んでいたと思います。高松城を攻めることを止めて、一目散に、都へ帰ろうと決断する。この大決断を支えた脳がどこなのかということにも興味があります。また、決断力のある人とない人の脳の違いは何かなどと考えると大変おもしろいと思います。  決断力の速さは「線条体」と呼ばれるところと関係があるという論文があります。ここは体のバランスをとったり筋肉の緊張をコントロールする場所です。運動と関係のある脳です。いわば運動と関係する場所が決断の速さと関係が深いというのは大変おもしろいところです。また決断をする脳は頭頂葉と前頭葉ともいわれています。頭頂葉で情報を分析して前頭葉で行動の決定をしているようです(57ページ図表2−1参照)。 【津本】 決断力があって瞬時に決断できる脳をつくるにはどうすればいいのですか。 【板倉】 これは日常の訓練以外にありません。くりかえすように脳は、何度も何度も同じことをすれば、それに関係した神経回路が発達するという原則があります。早く決断する訓練が必要です。  仕事の場面でも、熟考をしても決断にはあまり時間をかけるべきではありません。いつもデッドラインを決めて自分を追い込んでおくことです。また卑近な例では、レストランでメニューを見て食事を決定するときいつまでもぐずぐず考えているようでは、速い決断力は育ちません。早く決定して、その後に後悔しないという訓練を日常生活のなかでします。
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■戦国武将は空間認識能力が高く、情報の収集能力も高かった

<本文から>
【板倉】 頭のよさということでは、石田三成もよかったはずですね。 【津本】 三成もよかったんですけれども、大軍を動かした経験がなかった。 【板倉】 先にお話しいただいた明智光秀と同様、野戦をしたことがないわけですね。 【津本】 そのときいいましたが、角川春樹さんが『天と地と』の撮影でカナダヘ行ったとき、千人くらいエキストラを雇ったそうです。そこで千人くらい動かしてみて、大軍を率いる戦国武将たちは、特異な感覚を持っていたに違いないともいっていましたね。 【板倉】 思うように動かせなかったということですか。千人くらいでも指揮するのは大変だと。 【津本】 そうです。関ケ原では徳川方よりも西軍は二万以上多いでしょう。向こうは十万近いでしょう。そんなのを山や谷のでこぼこしたところで動かすんですからね。 【板倉】 広いところで大勢の軍勢を見て判断するには特別な能力が要るでしょう。ただ単に視力がよいというだけではいい判断はできません。空間認知力と呼ばれる能力が必要です。これは頭頂葉と呼ばれる脳の傾点にある場所のはたらきです。ここで私たちは自分の前に広がる空間を認識します。  おもしろいことに右の脳が左右の視野全体の認識をしますが、左の脳は右の空間の認識だけをします。左の脳に障害があっても空間の認識に問題は起こりません。右の脳が左右の視野の認識をしますから。しかし、右の脳に障害が起こると左の空間の認識ができなくなります。「半側空間無視」と呼ばれるものです(図表4−3参照)。  それにしても戦国武将は視力はもちろんよかったでしょうが、頭頂菓の空間認識力はすばらしいものがあったと思います。現代人が失ってしまったものの一つです。  戦国武将はこのような空間認識能力が高かったということ以外にも、情報の収集能力も高かったのでしょうね。
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■秀吉は楽観的な脳が発達した

<本文から>
【板倉】 家康のスケールの大きさは何なのかというところを、脳的にみますと、忍耐と冷静さをしっかり持っていたということでしょう。感情の大脳辺縁系を抑える大脳皮質が発達し、しかもくりかえすように忍耐力のもととなる前頭前野の底部が並外れて発達していたことが、スケールの大きさにつながっていると思います。  理性の大脳皮質が感情の大脳辺縁系を完壁にコントロールできるということは、大局的な見方ができるかどうかを左右します。広い範囲の大脳をはたらかせて、十分な情報を収集して必要な行動をとる、という姿勢が人間のスケールの大きさだと思います。  脳の後方部分である後頭葉、側頭葉や頭頂葉で情報収集して分析し、前頭葉にこの情報を移して正しい判断をとる、ということを脳はおこなっています(57ページ図表2−1参照)。おそらく家康は、こうした広い範囲の脳をうまく使っていたのでしょう。  そのように広い範囲の脳をフルに使うためには、第二章の先見力の鍛え方とも通ずることですが、十分な情報を集め、それを的確に分析することです。それも限られた時間でおこなうのです。そしてそのときには、できる限りの感覚を駆使して情報の収集と分析にあたるべきです。そこに人間のスケールの大きさが出てきます。  現代でいえばテレビの情報だけではダメで、新聞や週刊誌そしてインターネットや友人との情報交換などあらゆる手段を使うことです。そして、人のいうことを鵜呑みにしないで、自分の頭で考えることです。
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■信玄の人材登用における限界

<本文から>
【板倉】 信玄は、人材活用術の面では、あまり身分の高い人でなくても引き立て、とり上げたということがかなりあったそうですね。 【津本】 実力本位でとり上げていますね。でも武田では、普通の侍の地下人に対する差別というか、区別が非常に強かったようです。それが信長と比べたときの信玄の限界でしょう。そうした意識は、信虎のころ強かったようです。信玄もある程度は踏襲せざるをえなかったでしょうね。 【板倉】 そういう意味では信長のように徹底して身分にこだわらず、百姓出身の秀吉を大将にするようなところまではいかない。信長ほどの独創性は持っていなかったんでしょうか。 【津本】 秀吉は、信長の配下のなかで一番初めのころに大名になったんですからね。あんなことは武田ではないですね。ないけれども、旧来の秩序を守りながら、人材活用をやったというわけです。  武田四名臣の一人にかぞえられる高坂昌信などは、豪農の子どもで重役になっていますから。ただ高坂は、信玄の男色の相手としても有名です。信玄も恋文を書いたんですよ。ほかの人物には手を出していないから信じてくれとかね。武田勝頼のときも、高坂はまだ生きていました。
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■非常に強い不安感をとり除いてくれるために強い宗教心を持つようになる

<本文から>
【板倉】 そのように死を恐れない行動がとれるのは、やはり勇敢さだと思います。だれもが恐れる「死」というものを恐れず戦えるということは、よほど勇敢な脳を持っているのでしょう。やはり「前頭前野」の活動性の脳と関係あるようです。やる気の脳、意欲の脳と関係が深いのでしょう。ただ「やる気」や「活動性」といった単純なものではなく、なにかもっとさらに高いレベルのもののようにも思えます。それを支えるのは宗教的な信念のようなものでしょうかね。 【津本】 謙信は、自分を毘沙門天の生まれ変わりと信じているから、怖いもの知らずだったのでしょう。毘沙門天は、甲胃をつけ、左手に宝塔を捧げ、右手に鉾を持って、憤怒の形相で須弥山の北方世界を守護する武神です。父母から深い宗教心を受け継いでいた謙信は、春日山山麓の林泉寺の僧堂で禅定に入った十三歳のときに、突然、毘沙門天を見て以来、その意思に従っている限りは物事に失敗することはない、百戦百勝も可能だと信じるようになったのです。  春日山城の城内に毘沙門堂を建て、そこに参寵して思念をこらして戦術を決めており、配下の諸将と協議することはほとんどなかったといいます。  そうした強い信仰心を引き起こさせる脳というのはあるのでしょうか。 【板倉】 最近、「前部帯状回」と宗教心に関係があるという論文が出ました。ここは辺縁系と呼ばれる脳の部位で 不安感や自己制御と関係のあるところです(図表6−1参照)。ここのはたらきが宗教心と関係が深いといいます。不安感と宗教心が同じ脳の場所にあるというのはなんとなく納得するところです。非常に強い不安感があって、宗教がその不安感をとり除いてくれるために強い宗教心を持つようになるということはよく理解できますね。謙信も何らかの強い不安感があってそれを抑えるために宗教にのめりこんでいったのかもしれません。謙信の場合の信仰心はどこから来るのでしょうね。
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