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<本文から>
明治から昭和にかけて、日本の財政が破綻の危機に立ち至ったとき、余人では果たすことのできない重圧を一身に負い、巧みな舵取りで国運を立ち直らせた男がいた。
陽気な丸顔で、ダルマ宰相と呼ばれた高橋是清である。
昭和二年(一九二七)三月、大蔵大臣の失言によって金融恐慌がおこり、全国に銀行パニックが波及したとき、是清はすでに七十四歳であった。
彼が非凡の人材であったことは、その経歴を見れば一目瞭然である。六十歳まで日銀総裁であった是清は、そののち七度、大蔵大臣に任ぜられ、総理大臣、農商務大臣、商工大臣、農林大臣を歴任した。
是清が政界から退いたのは大正十四年(一九二五)四月であった。商工大臣兼農林大臣を辞職し、政友会総裁の座から下りた彼は、表町(東京都港区赤坂七丁目)の自邸で隠棲の日を送っていた。
是清が政友会総裁を辞任した理由は、脚気と胃腸病による体力の衰えであるといわれる。彼は大正七年(一九一八)に原内閣の大蔵大臣になったときから、しばしば政界引退を口にしていたが、大正十年(一九二一)十月に原野政友会ぎらいの男に東京駅で刺され死亡したため、その意に反して総理大臣、政友会総裁を引き受けさせられた。だが是清に政治家の資質は乏しかった。原敬は政党運営に適した性格で、党員に会えばその名前と顔、履歴、勢力関係を記憶し、陳情にくる者には寸暇を割いて面談した。是清は原とは反対にめったに陳情者に会わず、たまに会っても相手の名前や顔をまったく覚えない。他人への興味がないためである。
当時、主税局長であった松本重威とは常に会い、要談をなす仲であるが、松本の封書がくると、「こんな名の人は知らないな」といって秘書官をおどろかせた。
是清は党総裁としての統制力に欠けるところがあり、総理大臣となっても複雑な貴族院の内情に頓着せず、虚心にのぞむばかりであったので、上程した法案は握りつぶされた。その結果、高橋内閣は成立後半年で総辞職に追いこまれた。
是清は物欲の薄い人であったので、資産は多いとはいえない。政党工作の資金にも事を欠き、政友会と縁の深い田中義一後継者に据えると、ようやく引退を果たしたのである。その後は盆栽、仏像讐など、隠居暮らしを楽しむ。孫をともない散歩に出かけ、時局についての講演を依頼されると応じる。
悠々自適の晩年を送るつもりであった是清は、金融恐慌がおこると表舞台へ引き出されることになった。 |
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