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<本文から> 彼は十七歳で長崎物産方を命ぜられてのち、英国商人トーマス・グラバーの邸に寄席し、上海、香港へも渡航して海外の情勢を見聞する体験をかさねた。彼が近頃、藩から命じられているのは、密偵の役である。
鹿児島城下で五人の藩士を斬ったとき、罪に問われなかったのは、藩の首脳者たちが、速水の堪能な蘭学の知識と剣の才能を認めていたためである。いまでは、速水は薩摩に欠くことのできない巧妙な情報活動をおこなえる密偵であった。三月以来、彼は筑波山に挙兵した藤田小四郎の義軍に参加し、内状を探索していた。
鹿児島に戻ってきたのは、探索の結果を藩庁に報告するためである。いまから大坂藩邸に出向いて西郷の指示をうける次の使命は、生糸交易による軍資金稼ぎであった。西郷のもとには、速水に協力する男が先に到着しているという。
薩摩藩では、軍資金を得るために、密貿易から贋金づくりまで、あらゆる手段を駆使していた。贋金は二分金と天保古文銭である。
二分金は銀台に金メッキをして製造する。天保銭は材質をおとすわけではなかったが、製作費が三十四文にしかつかないので、密造すれば莫大な利が得られるのである。
速水は西郷と、横浜での生糸買付けの計画について相談することになっていた。買いいれた生糸は横浜の売込商を通じ、外国商館へ売却する。
本来ならば商人に委託すればよい単純な商行為であったが、幕府が横浜鎖港を朝廷に誓約しためを理由に、六月から生糸の外国人に対する交易を全面禁止したため、禁制を冒せば命にかかわることになった。
交易が停ったので、関東、甲州一帯の生糸問屋には商品があふれている。それを安値で買いあつめ、外国商館へ売りこめば、たちどころに数倍の利益を手にすることができる。元手が豊富で、危険を冒す覚悟であれば、十万両の利益を短期に得ることも難事ではなかった。
速水に命じられたのは、薩摩藩の名において生糸を貫いあげ、幕府の封鎖線を突破して横浜の外国商館へ売りこむ仕事であった。
外国人との交易における駆けひきは、グラバーの許にいた速水にはたやすい業であったが、幕府の禁制を冒すのには、覚悟がいる。
死ねばそれまでだ。生きていたところで、さほどおもしろい暮らしが送れるわけでもない。俺が死ねば、母上は気を落されようが、人はどうせ一度は死ぬ。俺はいまの密偵の役が性に合っている。先のことを何も思いわずらわず、目前の危うい勝負に命を賭けるのが、俺の生甲斐だ。体の疲れるような緊張のこころよさに、死ぬまで浸っていたいのだ」
速水は天をついて湧きのぼる桜島の噴煙に眼をやる。
彼は自分が島津斉彬のおとしだねであるという藩内の噂は、すでに知っていたが、心を動かされることはなかった。父親としてなつかしくうかんでくるのは、亡くなった得右衛門の顔であった。
噂がまことであれば、りんは母親ではない。そのようなことが考えられるものか。もし俺が順聖院様の血をうけているなら、いまのような危険な密偵役を与えられるわけはないと、彼は笑いすてたのである。 |
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