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<本文から>
「あのような徒輩は、高野で、生涯を終えさせるがよいのだわ」
やがて、昌幸は病いに冒された。
幸村は、兄信之に送った手紙に、寒村での不遇の生活を訴えている。
「父上は長年にわたる御山住まいで、よろずご不自由である。近頃は、お身の按配もよくない。私もまた、このような生活で気力衰えてきている」
昌幸は、慶長十六年(一六一一) 四月二十七日付で、信之につぎのような書状を送った。
「お前が春先から病気をしていたと聞き、たいへん心配していたが、回復したとの知らせを聞いて、安心した。私も去年から病気で、今年もわずらっている。
蟄居を命ぜられ、十余年が経ったが、そのあいだ考えつづけてきたことを、お前に一度会い、面談したいものである」
昌幸が、信之に会って語りたかったのは、どのようなことであったのか。
彼は、上田にいる旧臣の大熊伯耆守には、つぎのような書状を送った。
「儂は去年とかわらず、病気がおさまらないので、散々の態である。そこで、悍馬一疋を所望する。そのほうは急いで馬を求め、こちらへよこすようにはからえ。病中のなぐさめとするのである」
昌幸が信之に語ろうとしたのは、徳川と豊臣のあいだに、かならずおこるであろう動乱の予測であった。
秀頼は十九歳となった。彼を支える母の淀殿が、豊臣家を徳川政権に臣従する一諸侯とすることを承知せず、秀頼をはげまし徳川家に敵対する時は近かろう。
秀頼が敵対の態度をあらわさずとも、家康はわが生前に彼を挑発し、東西決戦に導いて、豊臣家を滅亡させ、後顧の憂いを断とうとするにちがいない。
そのときこそ、昌幸は決起して関東の大軍に立ちむかわねばならない。彼は、動乱の予測を信之に語ろうとして、果さなかった。
昌幸は、梅雨の細雨が降りしきる慶長十六年六月四日、九度山の屋敷で生を終えた。享年六十四歳であった。
彼は幸村を枕辺へ呼び、最後の言葉をのこした。
「儂は、あと三年生きたかったが、いまはその望みもねえら。豊臣と徳川は、まもなく手切れとなるだらず。そのとき、おのしは大坂城へ入って、秀頼公をお護りいたし、関東方を蹴散らせ。あいわかったか」
「しかと承ってごわす。東西手切れのときは、かならず大坂方に合力いたしまする」
昌幸が世を去るとき、佐助と才蔵は傍に侍していた。
幸村は昌幸の遺骸を埋葬したのち、佐助たちを呼んだ。
「父上はご遺言で東西の手切れが三年のうちにおこるから、秀頼公に合力して大坂城へ入れと仰せられたが、お前たちゃ儂に命をくれるかや」
「分りきったことでごわしょう。大殿さまがご遠行ののちは、左衛門佐さまのお下知しだいに、命を捨てるつもりでおりやす。家康は、この十一年のあいだに、思いあがっておるゆえ、油断してごわす。それゆえ野戦となりや、思うように掻んまわして、あやつの首級を取れるやも知れねえと、存じやす」
幸村は、笑みをみせた。 |
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