津本陽著書
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          真田忍侠記(上)

■徳川軍を敗退させる

<本文から>
 徳川勢は総崩れとなり、狭陸な退路にあふれた人馬が雨のように飛んでくる矢玉に撃ち倒され、味方の馬蹄に踏みつぶされる。浅手の兵は血を流しつつ、味方をかきわけ突き倒し、われがちに逃げようともがきまわる。
 昌幸は大手門から本道へ押しだし、常田、高槻らの家老は南手へ迂回し、敗走する徳川勢に側面から襲いかかった。
 真田勢は二、三十人の伏兵を諸所に配置し、陣形を乱し土煙をあげて逃げる徳川勢が近づいてくると、弓鉄砲を撃ちかけ、喊声をあげ、槍先をそろえ突きかける。
 徳川勢は逃げ場を失い、誤って神川に馬をいれ溺死する者が多かった。恐怖にかりたてられ、逆上しているので、夕霧の流れはじめた川面を地面と見まちがえたためである。
 信幸は百人ほどの兵を率い、徳川勢をはげしく攻めたてた。猿飛佐助、霧隠才蔵は先頭に立ち、敵勢に突きいるまえに取火という道具を用い、悪臭のある火花を滝のようにそそぎかける。
 取火とは火焔放射器であった。長さ二尺、まわり一尺の銅筒の一端に蓋をして、その中央に二分(六・五_)ほど孔をあける。反対の端には握り柄がついている。
 筒のなかには硝石十匁、硫黄五匁五分、鉄粉二匁、鼠糞一匁の割合いでまぜあわせた粉末を、充填している。口火に点火すれば、先端の蓋の孔から火の粉が噴水のように吹きだす。
 霧のなかからあらわれ、異様な火器で攻める真田勢に徳川の人馬は怯え、応戦の気力もなく逃げ走る。
 大久保忠世の家人本多主水、平岩親吉の家人尾崎左門兄弟が、神川を渡ろうとする徳川勢の殿をかため奮戦し、尾崎兄弟はついに討死にを遂げた。
 徳州勢のうち、酒井与九郎という侍が、尾崎兄弟の討たれたのを見て、川を渡りかけていた馬首を返し、左門の首を掻こうとしている真田の兵を突き伏せ、首級をあげた。
 その日の合戦で、真田勢の首を取ったのは与九郎ただひとりであったので、「酒井崩れ口の高名」として、徳川全軍に聞えた。 
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■北条勢も追い返し真田の武名はとどろいた

<本文から>
 北条勢は沼田城を攻めあぐんだ。寒風吹きすさび、飛雪粉々たる悪天候のもと、四万余の大軍が小城ひとつを取りかこみ、つけいる隙も見出せない。
 湿気をきらう武器、馬具に、錆やかびが生じた。冷雨がしばしば降り、地面はぬかるみとなり、煙硝樽も湿った。
 厳冬にむかう戦場に、大軍が長期滞陣すれば兵站補給が困難である。北条氏直は副将の北条氏照らにすすめられ、麾下関東衆に退陣を命じた。
 山野を埋めた北条勢は、半月ほどの城攻めに何の戦果も得られないまま、包囲を解き、引きあげていった。
 真田の武名は、一時に天下にとどろきわたった。関東三百万石の太守、北条氏直の大兵力を迎えうち、徳川と同様に退けたのである。
 「徳川、北条に攻められ、追いかえせしという真田安房守とは、いかなる仁であろうかや。信濃上田の城主にて、たかが四万石ほどを領するいなか武者と聞くが、大それたる腕立てをして、よくぞ勝ちしものよのう」
 「まことにさようじゃ。関八州を統べる北条が、酒田の城を一気に抜けなんだとは、まこととは思えぬわ。真田の主従は鬼神のごとき者どもであろうよ」
 東信濃二帯の土豪は、先をあらそい上田城へ参向し、昌幸に誼を通じた。
 昌幸は今後、徳川、北条と対抗するためには、関白秀吉の援助を乞うべきであると考え、書状を送り、後楯となってもらいたいと懇請した。
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■昌幸は信幸を徳川家、幸村を豊臣家の傘下に入れて真田家の存続を図った

<本文から>
 昌幸は、はじめて縁談に応じ本多忠勝の娘おねい十九歳を家康養女として信幸の妻に迎えることにした。
 昌幸は縁談をととのえるまえ、信幸に意向をたしかめた。
 「おのしの存念はいかがじゃ。この縁組に不足はないか」
  信幸は答えた。
 「不足といたすところはござりませぬが、もし先に至って豊、徳両家のあいだに、不慮の大事の出来いたせしときは、いかがいたしまするかや」
 昌幸は笑みをうかべ、こともなげにいった。
 「そのときは、おのしが心まかせよ」
 昌幸は二人の息子を、豊臣、徳川の南勢カに分けて預けたのは、将来をおもんばかってのはからいであった。真田家は信濃の強豪として、武勇さかんな家柄であるが、天下を一統する大政権の傘下に属さねば、存続は望めない。
 今後、豊臣家が繁栄をつづけるか否かは、予断をゆるさないことであった。秀吉の子は、三歳の鶴松ただひとりである。秀吉は鶴松が生れるまで、ながく子に恵まれなかったので、信長四男の羽柴秀勝、宇喜多秀家、柿の長男羽柴秀次、北政所の甥羽柴秀俊の四人を養子とした。このうち秀勝が早逝したので、豊臣家後嗣は秀家、秀次、秀俊の三人のうちからえらぶつもりでいた。ところが思いがけず、晩年に至って嫡男にめぐまれたのである。昌幸は、秀吉嫡男鶴松が、夭折することなく成人したとしても、秀吉亡きあとに波瀾がおこるであろうと予想していた。
 信長没後、織田政権をひき継ぐ器量をそなえていたのは家康であった。だが家康は秀吉にだしぬかれ、ながらく臣従してきた。
 秀吉には持病がいくつかあり、体調は思わしくなく、容貌は老いやつれている。彼が石田三成、増田長盛、長束正家、大谷言継ら奉行衆を手足につかい、どれほど中央集権の基盤をかため、嫡男への政権世襲をはかっても、世を去れば家康がつぎの勢力として拾頭するのは、眼に見えていた。
 昌幸はこの見通しのもとに、信幸を徳川家、幸村を豊臣家の傘下に入れた。そうすれば、天下の形勢がどのように変転しても、真田家は存続する。
 信幸、幸村のいずれが残るとも、家門は断絶いたさぬゆえ、冥途へ参りても先祖に責められることはあるまい。儀は太閤ととりわけて気が合うというでもないが、三河守ほど嫌わしゅう思うてはおらぬゆえ、豊臣方に就かざあ−
 昌幸は、武田信玄在世の頃、風林火山の旗を見ただけで萎縮した徳川家康が、野戦の勇将ともてはやされているのを見れば、いまいましいばかりである。
−儂が三万の人数を動かせるほどの身代ならば、あやつごときは手玉にとってやろうが、かなしいかな、無い袖は振れぬわい−
▲UP

■関ケ原に向かう秀忠軍の足止めをくらわせた

<本文から>
 数をたのんだ秀忠勢の諸隊が、百人ほどの城兵を包囲し、全滅させようと攻めかけると、敵はいつのまにか霧のなかへ消えうせていた。
 「どこからあらわれようとも、遅れるでないぞ。ふたたび仕懸けて参らば皆殺しじゃ」
 諸隊の物頭たちが、弓、鉄砲勢に折敷かせ、槍衆に密集隊形をとらせ待ちかまえていると、敵はあらわれず、大鉄砲を乱射する物音がとどろきわたり、頭上から抱烙火矢の散弾が降ってくる。
 「これはたまらぬ。引け、引け」
 手負い死人がふえるなか、退却をはじめると、霧のなかから銃弾が飛んできて、人馬が倒された。
 夜になると、地の利をこころえた真田勢が猿のように敏捷に行動し、陣中に付け火をしかけ、馬を暴走させる。諸隊の士卒は、煙硝櫃に火を放たれるのをもっとも怖れていた。煙硝櫃、弾丸箪笥に引火すれば、大爆発をおこし甚大な被害をうける。
 戦況が膠着状態のまま十日の夕刻をむかえた。秀忠はついに小諸城へ退き、軍評定をひらいた。
 本多正信が、胸中の焦慮にせきたてられるように意見を申し述べる。
 「大殿さまには、朔日に江戸をご出陣遊ばされしとのことにござりますれば、このうえは一刻の猶予もなりがたく、ただちにご西上ありて然るべし」
 家康西上の書状をたずさえた使者は、八月二十九日に江戸を出ていたが、途中の川が氾濫し、小諸に到着したのが九日深更であった。
 家康が尾張、美濃へむかっていると聞かされた諸将は、上田城攻撃を断念した。秀忠は本多正信らの策をうけいれた。 
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■信幸の懇願で昌幸は死罪を免れ高野山に蟄居

<本文から>
 「大殿さまに、折りいってのお頼みごとがござりまするに」
「何事かや」
  家康は笑みをふくんで聞く。
 「実を申さば、いまだ信濃上田の城にたてこもりたる、真田安房守父子のことにござりまする」
 家康の眼差しが、険しくなった。
 「なんと、昌幸がことならば、死罪を申しつくるに決っておるだわ。鋸挽きか、火炙りにでもしてやりたきところだがのん」
 「されば、忠勝が婿の伊豆守(信幸)が嘆きは、ひとかたならず。わが身に替えても、父と弟の一命をお救い給わりたしと、ひたすら願うておりまする」
 家康は憤怒に顔を染め、座を立とうとした。
「兵部(直政)は、いつから気が触れしぞ。さようの儀は、聞く耳持たぬ」
 直政は奥へ入ろうとする家康の袂をつかみ、大音に言上する。
「大殿、よくよくご思案召されよ。この儀あい叶わざるときは、伊豆守(信幸)は切腹つかまつりまする。さあらば、かわゆき婿を失いし中書(忠勝)もまた、体を潰すに相違ござりませぬ。中書が身上を果し候えば、われらばかりにて、何の顔あって世に立ちまわれましょうや。いまの世に、中書とそれがしとおらぬようになれば、おそらくは天下も危うくなりまするだわ。なにとぞ、ご赦免の旨を申し聞かせられとうござる。さように思し召し下され」
 家康は、強引な直政の要請を、ことわることもなく、黙って奥殿へ入った。
 直政は退出して忠勝、信幸のもとへ出向き、家康に懇願し、しりぞけられなかったことを告げた。
「大殿さまには、一言も、ならぬとは仰せられなんだゆえ、安房守(昌幸)、左衛門佐(幸村)の命は、伊豆守(信幸)が忠義に免じお許し下されると、あい定まりしだわ。このうえは、早速お礼に参上いたすがよからあず」
 忠勝、信幸は翌日家康に謁し、お礼を言上した。
「このたびは、安房守父子ご赦免下され、ご寛恕のほどかたじけなく、お情は生涯忘却つかまつりませぬ」
「うむ、すべては安房守が忠孝の実儀なるによることだわ。こののちも、あいはげむがよい」
 家康は、昌幸父子の助命を認めざるをえない。
 彼は、昌幸が今後あくまでも敵対すれば、動揺する世情がふたたび混乱にむかうとの懸念を、直政からひそかに耳うちされ、了解したのである。
 直政は家康にいった。
 「いったんは、伊豆守が孝心を賞でて、安房守父子を赦免いたし、どこぞの配所へ流す路次にて、半蔵組の者どもを使い、仕物(謀殺)にかけてもよしと存じまするに」
 「それもよき手だわ」
 家康は、うなずいた。
 十一月上旬、真田昌幸は家康の降伏勧告の使者を上田城に迎えた。降伏の条件は、城をあけわたし、高野山へ蟄居するのである。
 「なんと申す。弓矢とる身が、徳川家と一矢も交えざるまま、高野に逼塞して坊主になれとかや。ここは、先祖が墓のある地なれば、たやすくは動けぬずら」
 昌幸は、使者の申し出をうけつけなかった。使者は、いった。
 「御辺と左衛門佐殿が、高野山へ入らるるかわりに、伊豆守(信幸)殿には、かねてご支配の酒田三万石に上田三万八千石、さらに加増三万石にて、九万五千石を与えられまするぞ」
 昌幸は腕を組み、しばらく瞑目していたが、やがて答えた。
 「信幸加増の儀は重畳じゃ。われらはお指図のごとく、高野山へのぼるでござろうよ」
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