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<本文から> 徳川勢は総崩れとなり、狭陸な退路にあふれた人馬が雨のように飛んでくる矢玉に撃ち倒され、味方の馬蹄に踏みつぶされる。浅手の兵は血を流しつつ、味方をかきわけ突き倒し、われがちに逃げようともがきまわる。
昌幸は大手門から本道へ押しだし、常田、高槻らの家老は南手へ迂回し、敗走する徳川勢に側面から襲いかかった。
真田勢は二、三十人の伏兵を諸所に配置し、陣形を乱し土煙をあげて逃げる徳川勢が近づいてくると、弓鉄砲を撃ちかけ、喊声をあげ、槍先をそろえ突きかける。
徳川勢は逃げ場を失い、誤って神川に馬をいれ溺死する者が多かった。恐怖にかりたてられ、逆上しているので、夕霧の流れはじめた川面を地面と見まちがえたためである。
信幸は百人ほどの兵を率い、徳川勢をはげしく攻めたてた。猿飛佐助、霧隠才蔵は先頭に立ち、敵勢に突きいるまえに取火という道具を用い、悪臭のある火花を滝のようにそそぎかける。
取火とは火焔放射器であった。長さ二尺、まわり一尺の銅筒の一端に蓋をして、その中央に二分(六・五_)ほど孔をあける。反対の端には握り柄がついている。
筒のなかには硝石十匁、硫黄五匁五分、鉄粉二匁、鼠糞一匁の割合いでまぜあわせた粉末を、充填している。口火に点火すれば、先端の蓋の孔から火の粉が噴水のように吹きだす。
霧のなかからあらわれ、異様な火器で攻める真田勢に徳川の人馬は怯え、応戦の気力もなく逃げ走る。
大久保忠世の家人本多主水、平岩親吉の家人尾崎左門兄弟が、神川を渡ろうとする徳川勢の殿をかため奮戦し、尾崎兄弟はついに討死にを遂げた。
徳州勢のうち、酒井与九郎という侍が、尾崎兄弟の討たれたのを見て、川を渡りかけていた馬首を返し、左門の首を掻こうとしている真田の兵を突き伏せ、首級をあげた。
その日の合戦で、真田勢の首を取ったのは与九郎ただひとりであったので、「酒井崩れ口の高名」として、徳川全軍に聞えた。 |
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