津本陽著書
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          最後の相場師

■「満つれば欠くる」という原則

<本文から>
 平蔵はその頃から無事安穏な道を歩めない性格であった。
 いま楽隠居の生活にいて、どうしても飽きたりない気持に押されるのは、彼の胸裡に眠っている野性の血が、騒ぎはじめたのである。
 勝負師の根性が、彼に語りかけてやまない。
「やれ、平蔵。思いきって、いままで積みかさねてきた人生の経験をいかして、相場の世界で、あばれてやれ」
 儂の見通しは当っている。絶対に失敗することはない。公共投資株は、政府の尻押しでかならず業況が好転する。
 いまから、ひそかに種玉を拾いあつめ、業績好転の時期に、一気に噴きあげさせるのや。一年か、二年がかりでやれば、失敗することなど、あるはずがない。世間の人が地味なセメント株など、値あがりするはずもないと食指をうごかさないときに、思いきって買いに出るのや。
 平蔵は、「満つれば欠くる」という原則を、思いうかべる。満ちた月は欠け、欠けた月はまた満ちてくる。株価もおなじことなのだ。
 会社の運営に致命的な欠陥があるとか、証券市場の人気を陥没させる、戦争のような突発的な事態がおこるとか、特異な事情のない限り、売りこまれた株価は、かならず業況の回復にともなって戻ってくる。
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■全財産を手放し、資本主義が崩壊するかを研究した3年間

<本文から>
  平蔵は、しばらくためらったのち、話しはじめた。
 「私は学問を身につけておりません。それまでは家内とともに遮二無二はたらいて、四人の子供を育ててきたんですが、金融恐慌で社会的な信用のもっともあつい銀行が、取付け騒ぎで軒なみに倒れましたやろ。それで、これはもしかしたら、資本主義の終末ではないかと、考えたんですな。マルクス、レーニンの説く、資本主義崩壊の兆であるのかもしれないと思いついたんです。いま私は経済の波に翻弄されながら、会社経営をやっているが、もし資本主義が壊滅すると、次の時代に生きねばならん子供たちは、私よりも不幸になる。私は会社の経営者として復帰するまえに、資本主義の崩壊が現実におこるかどうか、たしかめねばならないと思ったんです」
 「なるはど、あんたの気性としては、そうかもしれない。それで、研究をやったんですか」
 「そうですのや」
 平蔵は、会社と全財産を債権者の手に渡し、家族を連れて京都嵐山へ転居した。彼はまず、著名な経済学者の書物を読むが、答えを得ることができない。
 「私は思いたつと、とにかく行きつくところまで行かんと、とまらんのですな。日本資本主義の将来性について、自分なりの見通しをつけないことには、気になってしかたがないんですわ。その結果、大阪の中之島図書館へ三年間通うて、経済関係の書物や資料をあさりつくしましたんや」
 六人家族が、不況のさなかに徒食するのは、なみたいていの苦労ではない。
 京都の嵐山に住んだのは、知人を頼ってのことであったが、土地の人々の気風ほおだやかであった。住みついた借家の家賃を、三年間払わなかったが、大家は好人物で、一度も督促をしなかった。
 米屋の主人も、二年半の間、米代の請求をせず、平蔵の妻にいった。
 「奥さん、心配しなさんな。旦那はいまに世間に出て、頭をあげる人や」
 平蔵は電車賃を捻出することもできないまま、新京阪電鉄の知人に優待パスをねだった。パスは不景気で全部整理していたので、雑役人夫用の無料乗車券をくれた。
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■同和鉱株の相場

<本文から>
 平蔵は、厖大な持株が連日急落してゆくのを見守りつつ、「金のなる木が、いつのまにかおんぶおばけになってしもた」と胸のうちでくりかえしていた。
 おんぶおばけとは、イソドあたりに住むという妖怪である。平蔵はその名を孫の絵本で知った。
 路傍に痩せこけた老人が、歩く力もなく坐りこんでいて、道行く人に背負ってくれと頼む。気のやさしい人が頼みを聞いてやると、老人は連れていってほしい行先をいう。
 その方角へ歩いているうち、苧穀のように軽かった老人の体がしだいに重くなってくる。あまりの重さにたえかね、触り出そうとするが、老人の手足は鉄のような力で背負う人の体にしがみつき、離さない。
 老人の体重は急速に重さを増してゆき、力尽きた親切な人は体力をつかい果して倒れる。そのときおんぶおばけの本性をあらわした老人は倒れた人を食うのである。
「儂はあのとき、株式という魔物にすんでのところで食い殺されるところやった。しかし、こんどやるときは儂が勝ってやるぞ」
 平蔵は、脳裡にもりあがってくるはげしい感情にゆりうごかされる。
 彼は千代とともに、半年前から狭山のマンショソに帰っていた。菜園は千代が野菜や花卉をつくりたいといいだして、近所に五十坪ほど買ったものであった。
「野菜やお花を二人でつくって、社会事業に協力して瀞かに暮ろしまひょいな」
 千代の言募にしたがい、平蔵は同軒鉱株の投資作戦を終了させたのち、大阪府福祉基金に一億一千万円を寄付していた。
 「いまになって考えてみれば、ええ勉強になったともいえるが、やっぱりしんどかったなあ。なんであんな窮地へ簡単に追いこまれていったのか。儂の気がつよすぎたと皆はいうが、判断を誤っていたとはいまでも思ってはおらん」
 彼は煉獄のうちでさいなまれていたような日々を思い出す。
 昭和五十五年三月の同和鉱株の相場は、初旬から中旬にかけ、冴えない小浮動をくりかえしつつ、下降線をたどっていた。
 ロンドン金相場は一月の一オンス八百五十ドルから、三月十五日には五百二十三ドルまで下落していた。非鉄市況は軒なみ天井をうって下降に転じている。
 公定歩合は十九日から過去最高の九パーセントにひきあげられた。政府は成長率を減速し、物価引締めを強行して景気下降をむかえうつ姿勢を、あきらかにしたのである。
 株式市場は、平蔵の厖大な持株を消化する能力をすでに失っていた。同和鉱株の出来高は連日百万株にもみたない。
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■住友鉱株で大成功

<本文から>
 市場では上値千円説が、いつのまにか三千円説にかわっていたが、平蔵ほ周囲の熱狂にまきこまれなかった。
「株は生きものや、こんどはやりそこのうてはいかん。千円を超えたら売りや」
 彼は住友グループがいかに株式相場を動かす力をそなえているかを、身をもって知ったので、深追いは禁物だと自分をいましめていたのである。
 三十一日、住友鉱株は、五十一円高で千四十円をつけ、ついに待望の四桁相場を実現する。買物は激増するはかりで、出来高は五百九十二万株、六百八十万株弱の買物が残った。
 その後の株価は波乱商状を見せつつ、千円台を着実に固めて、信用買い残は急激に減少傾向を見せていた。株価が千円台にのせてのち十日ほどのあいだに、平蔵は千五百万株の信用建て玉を処分したのである。
 「残りはここ四、五日で売ってしまおうや」
 平蔵は機関店を督励して、撤収作戦を順調にすすめていた。
 彼がまとまった株数を連日売却しても、市場のいきおいはつよく株価は下げなかった。
 異常な地合いのつよさというほかはない。
 平蔵が信用買い玉を手仕舞い、買い残は減ったが、売り方二千五百万株のうち、二千万株以上は、前年十月に売ったものが残っていると見られていた。それらの株は、四月に入れば六か月の絶対期日をむかえ、いったん決済しなければならない。
 この二千万株の平均売りコストはせいぜい五百五十円前後であった。時価から見れば六百円幅もかつがれたままの大損の状態になっているのである。
 四月の期日到来で、二千万株の買いが入ってくるとなればどうなるか。総踏みあげ相場は現実にはなかろうが、強力鬼株価上げの支援材料となってくるのはあきらかであった。
 平蔵は、沢証券の店頭で、値上りの赤ランプがつきっぱなしのボード板を眺めつつ、売りの指令を出す毎日を送っていた。
 彼は知人たちから、しばしば聞かれた。
 「佐久間さんは、数ある上場株のうちから住友鉱をえらびとったのは、どういう理由からですか。金鉱に詳しいといっても、初期の段階では、現在のような状況はまったく分らなかったでしょうし、だいいち会社側も菱刈が大金鉱の実態をそなえているとは信じていなかったんでしょう。そのときによく決断に踏みきることができましたね」
 平蔵は答える。
「それは私の長い経験からくるところの勘がはたらいたのやと思うね。金山で苦労した経験が、金属鉱業事業団のボーリング結果を知った儂に、これは本物やぞとささやきかけてくれたんですわ。それに、私は住友鉱山という銘柄が好きやったんですわ」
 聞き手は何のことかわからず、ふしぎそうな表情を見せる。
「つまり、私は銘柄をえらぶときには、つきあう人間をえらぶのとおなじような方法でやるわけですな。客観的にこの人物はどういう条件をそなえておるとか、どのような才能をもっておるとか判断しても、つきあおうという気にならないことは、往々にしてありますやろ。やっぱり基本的には好き嫌いから出発してるんですよ。自分はこの人物が好きやと思うたら、信頼につながっていくことになりますわな。銘柄でもおんなじことで、その銘柄を好きにならんかったらあきまへんわな。好みというものには、自信と執着がついてまわるんですわ」
 四月八日、住友鉱株は、千百三十円のストップ高をつける。信用取引の売り方の買い戻しがはじまったのである。
 翌九日は五十円高の千百八十円、その日の高値千二百三十円が、当面の高値となった。
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■証券取引所開所以来の二百億円以上の資産

<本文から>
「腹八分の利食いは、やっぱり千人力や」
 平蔵は空前の大勝利に眼がくらむ思いであった。
 一挙に二百億円ちかい利益が、懐になだれこんできたのである。彼の銀行預金はふくれあがった。
「現ナマを持つと、どうも気が落ち着かん。休むも相場というが、一服しようと思うてても、なぜかまた次の勝負にかかりとうて仕様ない。お千代、儂は年老っとるからまだええのやで。もう十歳か二十歳若かったら、やみくもに前向いて走ってしもて、せっかく儲けた金も皆吐き出すまで狂うやろな。相場やって、浮き沈みの味を知ったら、中毒したみたいなものや。儂も気い鎮めな、あかんわ」
 平蔵はしはらく静観をきめこもうとするが、手にした利益は異様な重みで彼の心にのしかかってくる。
 八十四歳の老人が、住友鉱のひと相場で稼ぎ出した二百億円は、明治の証券取引所開所以来、いかなる仕手も達成したことのない規模の大戦果であった。
 二百億円といえば、日本証券界を牛耳る四大証券が、それぞれ数千人の社員を擁し、世界の大勢を論じ相場観をたて、内外機関家を動員し、何百万人という投資履とともに、血みどろになって戦い、半年かかってやっと手中にできる金額であると、新聞は報じていた。
 その金額を、一老相場師が頭と度胸で稼いだとあれば、兜町の連中は偉そうなことを言っても、何をしていたんだという論調も、指摘されてみれば当然であった。
 「人の行く裏に道あり花の山」という、相場の大原則を素朴に守ったことが、平蔵に巨富をもたらしたのである。
 週刊誌は報じる。
 「八十すぎの老人が、二百億円以上の資産をつくり出してしまうのだから、まさに定年退職者にとっての希望の星である」
 証券会社の関係者は、口ぐちに彼をはめたてる。
 「私も兜町で六十年生きてきましたが、あれほど先見性をもった頭脳のはたらきというのは、めずらしいですね。半年前にたてた世界経済から日本経済、各企業の動きの見通しが、ほとんど的中するんですから、超能力者と言ってもよいほどです」
 平蔵は記事を読み、妻に聞く。
 「お千代、儂が超能力者と思うか。兜町や北浜の連中が早耳に頼って目先の動きばっかり追うているうちに、儂はラジオと新聞のニュースだけを頼りに、住友鉱の先高を見込んで、言うてみたら先行投資いうやつをやっただけや。儂は投資家のなかでは正直で単純な部類に入る人間やが、こうと目標をきめたら気迷いせん。その度胸と体の丈夫さだけが、人よりすぐれてるだけで、はかには何の取柄もない人間やがな」
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