|
<本文から>
西郷は、月照をかくまう手段に腐心したが、斉彬在世の頃とは藩内の事情が一変していた。久光を主人とする新藩庁は幕府の嫌疑を受けるような行いは、いっさい慎もうとする、穏健主義である。
そのうえ、久光派は、斉彬の手足となって働いた西郷に好意を持っていない。むしろ悪感情を抱いているといってよい。西郷も久光を嫌っていた。彼は斉彬と比較して、久光の無能を軽侮さえしている。そのような西郷に、久光が好意を持つわけがなかった。
藩庁は月照を日向の法華岳寺に追放することに決した。十一月十五日その決定は西郷に伝えられた。当時の薩藩では、他藩の者を日向に送ることを「東目送り」といい、国境で死罪に処することを意味した。
西郷は夜更けに旅装束を整え旅宿に月照をおとない、いますぐ日向に出立しなければならないと告げた。月照は静かに答える。
「いまの私には、参るところはどこにもございません。西郷様がおられるゆえに、はるばるとここまで参りましたが、いたしかたもございません。日向へ追放され、幕府の捕吏に捕えられるぐらいならば、はかに思案もございます」
西郷も答えた。
「和尚様がそのような思召しであるなら、私にもまた考えがごわす」
西郷と月照は藩庁の船に乗り、月明の海上を、日向に向った。錦江湾を三里ほど東へ行ったところで、陸のほうに寺が見える。船がその辺りまで進んだところで、舶先に出て月照を招き、寺を指さす。
「あの寺は心岳寺。昔、豊臣秀吉の島津征伐に最後まで戦い、切腹させられた歳久公の切腹の場所でございもす」
月照は、おばろにかすむ寺院に手を合わす。その瞬間、西郷は背後から月照を抱きかかえ、そのまま海中へ飛び込んだ。
西郷はなぜ月照と入水したのであろうか。それは、彼の心が一途であったからである。彼は志士たちとの交際にも、単なる政治上の必要に迫られての範囲ではなく、心情を吐露し合っての信頼関係を結んでいたようである。
|
|