津本陽著書
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          最後の武士道

■西郷が月照と入水したのは、彼の心が一途であったから

<本文から>
 西郷は、月照をかくまう手段に腐心したが、斉彬在世の頃とは藩内の事情が一変していた。久光を主人とする新藩庁は幕府の嫌疑を受けるような行いは、いっさい慎もうとする、穏健主義である。  そのうえ、久光派は、斉彬の手足となって働いた西郷に好意を持っていない。むしろ悪感情を抱いているといってよい。西郷も久光を嫌っていた。彼は斉彬と比較して、久光の無能を軽侮さえしている。そのような西郷に、久光が好意を持つわけがなかった。  藩庁は月照を日向の法華岳寺に追放することに決した。十一月十五日その決定は西郷に伝えられた。当時の薩藩では、他藩の者を日向に送ることを「東目送り」といい、国境で死罪に処することを意味した。  西郷は夜更けに旅装束を整え旅宿に月照をおとない、いますぐ日向に出立しなければならないと告げた。月照は静かに答える。  「いまの私には、参るところはどこにもございません。西郷様がおられるゆえに、はるばるとここまで参りましたが、いたしかたもございません。日向へ追放され、幕府の捕吏に捕えられるぐらいならば、はかに思案もございます」  西郷も答えた。  「和尚様がそのような思召しであるなら、私にもまた考えがごわす」  西郷と月照は藩庁の船に乗り、月明の海上を、日向に向った。錦江湾を三里ほど東へ行ったところで、陸のほうに寺が見える。船がその辺りまで進んだところで、舶先に出て月照を招き、寺を指さす。  「あの寺は心岳寺。昔、豊臣秀吉の島津征伐に最後まで戦い、切腹させられた歳久公の切腹の場所でございもす」  月照は、おばろにかすむ寺院に手を合わす。その瞬間、西郷は背後から月照を抱きかかえ、そのまま海中へ飛び込んだ。  西郷はなぜ月照と入水したのであろうか。それは、彼の心が一途であったからである。彼は志士たちとの交際にも、単なる政治上の必要に迫られての範囲ではなく、心情を吐露し合っての信頼関係を結んでいたようである。  
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■西郷は流罪先で雪蓬に影響を受けた

<本文から>  
「彼らが京都に到着すると、思いがけない事態が起こっていた。京都は尊皇過激派の天下となっており、彼らの頼る長州藩が、当たるべからざる勢いである。土州藩の勢力も伸び、薩摩は勤皇派を弾圧し、幕府とともに公武合体を策する敵として、憎悪の的となっていた。  西郷は文久二年(一八六二)八月、徳之島を訪ねてきた懐かしい愛加那と会うが、その直後、沖永良部島への遠島を命じられた。  この島で、西郷は川口雪蓬という流罪人の訪問を受ける。雪蓬は生国は京都とも広島ともいわれているが、陽明学を修め、書をよくした。  彼は島津久光の写字生をしていたが、生来の酒好きで、酒代に窮し久光秘蔵の書を売りとばしたのが発覚し、遠島に処されていた。彼は西郷のように囲い入りの処分を受けてはおらず、島内に小屋を建てて住み、自由に歩きまわり、子供に習字を教えて生計を立てている。  二人は初対面で、互いを認め合った。雪蓬は西郷の鷹揚な性格を好み、西郷は雪蓬の瓢々乎とした風格に惹かれた。  雪蓬は毎日のように牢を訪ねてきて、囲いをへだてて話し合う。二人は書を楽しみ、詩作に耽り、朱子学、陽明学を論じ合う仲間として、深い交際を重ねた。  西郷は雪蓬によって書風が変り、詩作することを初めて覚えた。雪蓬は、西郷の計り知れないような大度量に感嘆し、時節さえめぐってくれば、中央の大舞台で活躍するものと信じた。  雪蓬は、西郷と前後して赦免され、鹿児島に帰るが、やがて西郷邸で秘書兼家庭教師のような立場で住み込むことになる。  彼は明治二十三年(一八九〇)に七十三歳で死ぬまで西郷邸に寄食した。鹿児島浄光明寺にある「西郷隆盛之墓」の字を書いたのも、彼であるという。  西郷は彼の手引きで読書を始めた。『近思録』『通鑑綱目』『言志四録』『韓非子』『文選』などである。彼はやがて自ら学ぶのみではなく、島人の弟子二十人ばかりを集め、書物の素読、講釈を行った。  西郷の死生観は、やがて孟子によって養われる。
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■西郷は反幕の長州藩と手を組むことを考えていた

<本文から>
 西郷は勝の意見を聞いて、眼を開かれる思いがした。  共和政治、これしかないと西郷は思った。  幕府は腐敗しきっている。雄藩連合による共和政治のみが、日本を救うのだ。  西郷は、斉彬によって薩摩を幕藩体制のなかでとらえる限を開かれ、勝には日本の運命を、世界を見わたす広い視野のうちに捉えることを教えられた。  西郷は勝と会ったのち、長州の問題に早く決着をつけねばならないと考え始めていた。その理由は、長州に徹底的な打撃を与えた外国艦隊が大坂湾へ入り込み、通商を強要してくる動きが窺われたからである。日本は外国に対抗するために、一日も早く強力な共和政権を確立しておかねばならない。  長州征討総督の人選は、二転、三転して延引を重ねていたが、十月五日、ようやく前尾張藩主徳川慶勝に決定した。西郷は総督の参謀長となった。  十一月一日、征討軍の進撃を前に、長州藩主父子は、蛤御門の責任者の処分を征長総督に一任し、五人の参謀ほ藩で処刑する。また長州藩にいる五卿は他の地方へ移すという三事の実行を条件として謝罪の態度を明らかにした。総督はそれを認め、征長軍の進撃を中止した。  ところが、このとき長州藩内部に難問題が起こった。長州諸隊が抗戦を主張し、藩に対し叛乱を起こしたのだ。諸隊は十月二十一日解散を命じられたが従わず、いっそう団結を固め、闘志を燃やす。  彼らはいう。  「強き百万といえども恐れず、弱き民は一人といえども恐れ侯こと武道の本意と致し侯」  諸隊の叛乱の勢いは、長州藩降伏後も強まるばかりであった。  その様を見た征長総督府の内部では、叛乱鎮圧を主張する声が出たが、西郷はこれを抑え、征長軍解散を実現した。飯乱鎮圧は、藩内の問題としたのである。  西郷は戦を起こさず長州藩主を降伏させ、叛乱軍を放置しておいたのは、討幕派の火種を消したくなかったからである。後日、天下に事を成すのは薩摩と長州だと、西郷は考えていた。諸国雄藩のうち、長州は反幕の姿勢をほっきりと打ちだしている唯一の存在である。いつかは、長州と手を組むときがくると、西郷は考えていた。
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■慶喜首班の連合政府が目前であった

<本文から>
 会議は山内容堂の反対によって、紛糾した。御所の内外は薩長の兵で充満しており、朝議さえ表すれば、直ちに慶喜に決議内容に従うことを要求し、拒めば直ちにクーデターを実行する手筈は整っている。  容堂も家来の後藤も、執拗に議題に反対したが、西郷が「短刀妄あればすむ」といった言葉を聞き、態度を変えた。朝議は慶喜に辞官、納地を命ずることを決定した。  翌十日、徳川慶勝、松平春嶽は二条城内で慶喜に会い、徳川家領の献上についての内命を伝えた。慶喜は、老中どもの意見を聞き、旗本らの人心を鎮めたうえで、必ずお受けすると答えた。  西郷と大久保は、慶喜の答えは領地返上が明確でないため、断じて容認できないと強硬に反対したが、朝廷は慶喜のいうところを受け入れた。  容堂らの巻き返しは十二日に至って全貌を現した。彼はいう。  「すでに王政一新の基本はあらまし定まったのだから、すみやかに戒厳をゆるめ、諸侯会同を許し議事制度を興すべきである。また慶喜に官一等を下り、朝廷の経費を献上させるのなら、諸侯もそれに倣うべきである。また、慶喜への処分については松平春嶽に一任されたい」   戒厳を解き、諸侯会議を催せば、慶喜首班の連合政府ができるのは、火を見るより明らかである。また容堂は慶喜の納地を、朝廷の経費を分担させる意味に解釈した。したがって諸藩にも同様に負担させるというのである。朝廷の経費というが、実質的には連合政府の経費となるものであり、慶喜の物質的な実態に変化はない。  慶喜は、自らの勝利を信じつつ、十二月十三日、大坂城に降った。容堂、春獄らの考える形での辞官、納地の形態を朝廷に受け入れさせようとする努力は成功した。  その決定は慶喜に伝えられ、慶喜の請書は三十日に朝廷に届けられた。彼の新政府における首長としての地位は不動のものになるであろう。西郷らの討幕運動は挫折を目前に迎えていた。  だが、思いがけない事件が、事態を急転回させた。十二月二十五早朝、江戸市中警備の庄内藩兵が、三田の薩摩屋敷を焼打ちし、その急報が大坂城に達した二十八日、城中一万の将兵ほ薩摩を討つべしと激高した。
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