津本陽著書
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          龍馬5−流星篇

■龍馬と後藤象二郎

<本文から>
「そうですらあ。土州は薩長と手を組まんといかんがです」
 龍馬は、高知で狭い見聞しか持たずにいた象二郎をおどろかすような、日本の現状を雄弁に語りはじめた。
 郷土坂本権平の弟である龍馬は、高知におれば象二郎の目にもとまらぬ存在であったに だが、龍馬は天下の形勢を的確に把握していた。勝安房、大久保越中守、永井尚志、松平慶永(春嶽)ら、幕府側の重要人物、西郷吉之助、小松帯刀、吉井幸輔ら薩藩の革新勢力、長州藩を動かす諸隊の指導者高杉晋作、木戸孝允、
井上聞多らと密接な交流を保っている。太宰府に流寓する五卿にも謁していた。
 象二郎は息をのんで聞くばかりであった。
 彼は万次郎に聞いた。
「公儀の内情は、龍馬さんのいう通りながですか」
「まちがいないですろう」
 万次郎がうなずいた。
 武藤騒が、座敷に入ってきた。
 髻が鴨居につかえるほどの大男である。
「これはハンさん、ひさしかぶりですのう」
 龍馬が立ちあがり、親の両手を握った。
「龍やんと会えたがは、何年ぶりやろうか。ほんになつかしいのう」
 親はつよい眼差しを龍馬と交した。
 象二郎が親に声をかけた。
「ハンさん、いんま龍馬さんから大事な話を聞きよるがよ。お前んもいっしょに聞きや」
 龍馬は土佐藩が薩長との関係をつよめ、西南雄藩の代表として、幕府への対抗勢力になるべきであると語った。
「そうするがが、この先の入り乱れる世を乗りきるための、いっちえい道じゃと思うがです。あんまり幕府に近寄ったら、共倒れになりかねませんき。そうかというて、薩長のようにあっさり討幕に踏みきるがも考えものやし、いんまは、薩長と手をむすんで、薩長が過激な動きをするがをおさえる役目を果さんといかんがです。上手に舵を切ったら、土州は天下に重きをなす日がきますろう」
 その夜は、明けがたまで飲みあかした。龍馬は象二郎にすすめられた。
「いっぺん上海へいてきたらどうぜよ。ヨーロッパの力が、東洋へどればあ及んじょるか、よう分らあえ。路銀は俺が出すき、広之丞さんといっしょにいてきいや。それとのう、お前さんはこの際、社中同志といっしェに、土州藩へ帰参したらどうぜよ。俺が万事、手を打つきに」
 龍馬と後藤の会談は、成功した。
 慶応三年(一八六七)一月十四日、龍馬は木戸孝允あての書状に、その様子を記した。
「まえに、溝淵広之丞にお話し下さった、土佐藩との同盟問題につき、重役の後藤象二郎にいちいち相談したところ、よほど夜の明けてきたような気分になりました。
 重役どもはまたひそかに小弟にも面会し、充分に論じあいました。
 このごろは土佐藩も、従来の佐幕派がよほど勢力後退し、藩論一新の動きが見えるようです。
 くわしいことは、中島作太郎をそちらへつかわしますので、お聞きとり下さい。何事も先生のお力であると思っています。
 現在でも、土佐藩は幕府に積極的な応援をしない状況になっているそうです。
 今年の七、八月頃になれば、事の運びしだいでは昔の長薩土の関係になるかも知れないと、楽しんでいます」
「維新土佐勤王史」 によれば、龍馬は後藤の印象について、つぎのように語っている。
「坂本、その寓に帰るや、社中の者井は口々に、後藤の人物は如何にと聞く。坂本はこれに答うるよう、近頃土佐の上土中に珍らしき人物ぞ、と。
 その故はと聞かるると、坂本はために二力条を示したり。
 彼と我とは昨(日)までは刺さは突こうという敵同士なるに、あえて二言も既往の事に及ばず。ただ前途の大局のみを説くは、すこぶる要錆を得たり。これその一ツ。
 また洒座の談柄をば、いつも自己を中心とするよう、に惹きむけるところは、なかなか才気に富めり。これその二ツと。
 然れども一同半信半疑の体にて、全く首肯する者は、なき程にてありき」
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■海援隊誕生

<本文から>
 いろは丸が大洲長浜からこの日長崎へ入ったのは、船を寵馬たちに半月五百両で貸すためであった。
 大洲藩は後藤象二郎からの依頼で、いろは丸を土佐藩に、大坂への一航海だけ貸すことになっていた。
 龍馬は急飛脚で、脱藩罪赦免の通報を正式にうけ、土佐藩海軍の応援をする集団の長となるため、長崎に戻ってきたのである。
 彼は、社中にかえってあらたに組織する集団の隊名を、懐中の手帖にしるして.いた。
「海援隊」
 龍馬は海援に、「うみよりたすけ」とふりがなをふっていた。
 龍馬は三月二十日、下関で中岡慎太郎に会ったとき、西郷吉之助が高知へ出向いたさいに、兄の坂本権平から預かってきた吉行の銘刀を、手渡されている。
 このとき、慎太郎はいった。
「俺らあや赦免になったぜよ。ほんで福岡藤次が長崎にきちょる。後藤といっしょに、お前んを待ちよるがじゃ」
「赦免になったら、なんぞえいことでもあるかのう。いまのままでおったら、社中は食うていけんが」
 慎太郎は眼をかがやかせて答えた。
「お前んと俺は、本藩の海と陸との別手組をこしらえるがじゃ。その隊長になるがぜよ」
「ほう、そりゃおもしろいのう」
「おっつけ、象二郎がお前んを長崎へ呼ぶろう。ほんで、海の別手組をこしらえよと、いうじゃろう。組でも隊でもえいけんど、名前を考えちょかんかったらいかんぜよ」
 龍馬は懐手をして、しはらく考えていたが、やがて顔をあげていった。
「よし、きまったぜよ」
「どげな名じゃ」
「海より援くじゃき、海援隊じゃ。慎やんは陸より援くじゃき、陸援隊としいや」
慎太郎は膝も打った。
「そりやあえい名じゃ。龍やんは、まっこと巧者な歌詠みはあのこたああるのう。よっしゃ、それにきめた」
 いろは丸が、長崎港に碇泊すると、波止場からバッチイラが漕ぎ寄せてきた。
 惣髪を元結でくくり、簡袖上着に白袴をつけた高松太郎、長岡謙吉、沢村惣之丞、中島作太郎、陸奥陽之助らが、揺れるバッチイラのうえに立ちあがり、手を振り、叫んでいる。
「おう、戻んてきたぜよ。ぎょうさん迎えてくれて、おおきに」
 龍馬が叫びかえした。
 龍馬は小曾根別宅で風呂に入ったあと、集まってきた同志らと、今後の相談をした。
「今夜、後藤と福岡、岩崎弥太らに会うて、相談をするがじゃが、、俺らはこれから、本藩の海軍の授けをするきに、隊名を決めたがよ」
「へえ、どんぎゃな名前ですろう」
 同志たちが、身を乗りだす。
 龍馬は筆を持ってこさせ、懐紙に大きく記した。
「海援隊、と読むがですか」
 高松太郎が聞く。
「おう、そうじや。おんしゃあ、頭がえいねや」
 笑声が湧きおこった。
「海より授ける隊じゃ」
袷上着に白地に縞の袴をつけ、白地ワイシャツに蝶ネクタイ、断髪を横に撫でつけている、和洋いりまじった服装の長岡謙吉が、おだやかな顔をうなずかせた。
「龍やん、えい名前じゃのう
「ほんまに、そげに思うかえ」
「ほんまよ。俺らあのはたらきを指し示す、格の高い名じゃ」
「たまあ、そりや、えらいもんじゃなあ」
同志たちが、歓声を晩春の緑濃い庭面にひびかせる。
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■いろは丸事件は本来は龍馬側が不利

<本文から>
 紀州藩との談判に勝ってのち、龍馬は海援隊士をともない、連日妓楼で祝盃をあげた。
 海援隊は長崎に流れてきた多数の尊撰浪士の支持をうけ、本藩士州にくわうるに薩、長の威光を背にして、あたるべからざるいきおいであった。
 長崎奉行所では、不穏の事態にそなえ、二百五十人の兵士を徴募し、砲隊、平士隊に分け、市中に分駐させ、治安維持につとめているが、海援隊に威圧されている。
 紀州藩勘定奉行茂田一次郎が、海援隊の強弁が虚偽であると知りつつ膝を屈したのは、やむをえないことであったのかも知れない。
 あくまで強硬に応対すれば、いかなる不測の事態がおこったかも知れない。
 勝安房か、外国の海務官に海難審判を依頼するまで、屈伏しない勇気が茂田にあれば、龍馬はおそらく窮地に陥ったであろう。
明光丸乗員山田伝左衛門の筆記には、つぎのように書かれている。
「彼は奇抜慄悍の士等、手組して到り、我は温順柔和の俗吏、彼これを奇貸とし奇譎脅迫至らざるなし。
 時に飛語して日く、明光丸を押奪せん」
現代の海事専門家は、海難審判をすれは、紀州有利、土州不利となるだろうと判断をしている。
 龍馬が万国公法を紀州側に見せつけ、彼ら航法の誤りを指摘したという説があるが、談
判の応接筆記にそのような場面はあらわれず、もともと万国公法に海事に関する法律の記述はない。
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■龍馬は大政奉還が叶わぬ時は土佐藩も討幕すべしと用意していた

<本文から>
 土佐藩の政情は不安定であった。容堂は後藤象二郎の大政奉還策を推進する意向をあらわしている。
 藩内では武力討幕を主張する乾退助と、佐幕派上士が対立していた。大政奉還を後藤にすすめた龍馬が、ライフル銃を運んできた理由を、かたくなな家老、中老たちに説明するのは、たやすいことではない。
 幕府が大政奉還に応じないとき、薩長はただちに武力行動を開始する。そのとき、土佐藩は遅滞なく討幕の兵をすすめなければ、薩長に先を越されるという事情を、理解させるのに手間がかかる。
 土佐藩は、慶応二年(一八六六)四月に、長崎キニッフル商会からライフル銃一千百挺を購入しており、それに加え、龍馬の運んできたライフル銃一千挺があれば、藩内洋式銃隊の充実に、大きな飛躍を見ることになる。
 龍馬は半船楼に潜み、事態の推移を注視していた。海風が吹きこんでくる料亭の一室で、岡内俊太郎の知らせる家中の動静を、龍馬は歯ぎしりする思いで聞いた。
「早う京都へいかんかったら、大政奉還をやりゆう象やん(後藤象二郎)らあに、力を貸せんじゃいか。芸州の兵も、一日も早う上京せんといかんといいよる。事はせくぜよ」
 龍馬はみぞおちに鈍い痛みのように残っている、おりょうへの思いと、ひさびさに会った田鶴へのなつかしみを反袈する余裕も消えうせ、岡内にするどい口調で迫った。
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■大政奉還しても慶喜は引退するつもりはなかった

<本文から>
何事かと出てみると、将軍は大広間の上段の間の敷居際まで身をのりだし、その下にひとりの侍が平伏して何事か陳述している。
 その両側にはすこし離れて老中、諸臣が列座して聞いている。
西周は、目付設楽備中守とともに筆硯を持ちだし、侍のいうことを記録しようとしたが、ひれ伏して申し述べているので、まったく聞きとれなかった。
 あとで、西はその侍が小松帯刀であったことを知った。慶喜が大政奉還を決するときに、居あわせていたのである。
西周は、夕方にまた召し出した。
慶喜は大広間の廊下に障子屏風をめぐらし、そのなかに坐っていて、西に国家三権の分立、イギリス議院の制度などをたずねたので、そのあらましを述べ、退座してのち、詳細を「西洋官制略考」と題してまとめ、翌日さしあげた。
慶喜は大政奉還により、まったく政権を朝廷に委ね、隠退するつもりはなかったと「昔夢会筆記」にしるしている。
「真の考えは、大政を返上してそれで自分が俗にいう肩を抜くとか、安を倫むとかいうことになっては済まない。大政を返上したうえは、実はあくまでも国家のために尽そうという精神であった。
 しかし返上した上からは、朝廷の御指図を受けて、国家の為に尽すというのだね、精神は。
 それで旗本などの始末をどうするとか、こうする上かいうことまでには、考えが及ばない。ただ返上した上からは、これまでの通りに一層皇国の為に尽さぬではならぬ。肩を抜いたようになっては済まぬというのが、真の精神であった。
 あとで家来をどうしようとか、こうしようとかいうことまでには、考えがまだ及ばなかった」
 慶喜は大政返上によって、あらたなかたちでの最高権力者となり、国政の危局を乗りこえてゆこうと考えていた。
 薩長の指導者らが望んでいるような、政局から引退してしまうような考えは、まったく滞っていなかった。幕府が消滅するなどとは思わず、これまで重薮に過ぎた幕府の責任がやや軽くなり、行動しやすくなると考えていたのである。
 西周は、このあとでイギリス公使への書翰を英文に訳するよう命じられた。その内容は「今度政権を朝廷に返還するが、旧来の幕府の地位に変化はない」 という意味のものであった。
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■龍馬の民主政治の理想

<本文から>
政治は人民の望むところに従いおこなうべきで、王政も乱れたときは許すべきではない。藩政も同様であるとする。
当時としては、きわめて大胆きわまりない民主政治の主張である。
「諸藩の実状は、みだりに当世の流行に追随して、にわかに和訳の洋書を読みあさり、洋行した者に西欧の事情をたずね、西欧の風習をすべての面で取りいれようとする。あるいは王政復古の真意を理解せず、史簿を読みあさって、昔の政治を復活させ、民衆を治めようとする。
家来たちが右往左往するなか、凡庸きわまりない藩主は治政の指針を失い、頼るところがわからなくなり、国家の盛衰興廃に理のあることが分らない。無能の家来どもも、どのように時勢の急変に対処してゆけばよいのか分らないまま迷っている」
龍馬、謙苦らは、時弊をするどく指摘し、社会の上層部に人材がいないことを慨嘆する。
「藩主たちは、生れてのち挿頭の花、掌上の珠と愛されつつ成長したため、小児のように世間にうとく大事に遭遇してもなすところを知らない。
 何のはたらきをもあらわさないまま、祖先の封土をうけつぎ、身に錦繍をまとい、冬の寒気も知らず、人民が餞寒に悩んでいる実状を目にしたこともない。
 美しい妻妾にとりかこまれ、弦歌の声ばかりを楽しみ、すべてのことが望むがままになり、いまのような乱世になっても暮らしむきを変えず、不老不死を鬼神神仙に願うに至る」
 当時、藩公は生れながらの特権に恵まれた貴人であると、現状を肯定するのが世間の常識であったが、藩を不要と見る龍馬たちに説かれてみれば、なるほどと矛盾に気づくのである。
「藩臣もまた高禄を食む家に生れた者は同様である。この藩主にして、この藩臣あり。そのため無能の士が要職に就き、おろかで欲深い官吏があとを絶たないことになる。
 こんな有様で、国家富強の道をどうして辿れようか。見るがいい。いま天下の大事にのぞみ、よくその任を全うできる藩が、どれだけあるか」
 今後、藩政を改革するには、
「第一、藩主はまず藩臣に命じ、旧規を廃し新律をたてるため、藩内に異論を立てさせないよう、誓約の儀式をおこなわせる」
 誓約をおこなわせるのは、大藩では数万、小藩でも百人ほどの家臣である。彼らと藩主とのあいだに、好悪の念の厚薄はかならずある。
 そのためあらかじめ誓約をおこなっておけば、藩主があとで約を違えたいと思ってもできなくなる。そのため、君臣のあいだに誓約を交すのである。
「第二、右のように藩主がまず臣下に誓約したうえで、家格の制、世禄の法を廃し、すベての階級を撒して同じ立場に置く。
 そのうえで藩士の大集会をひらき、その藩の大小に応じ選挙人の数をさだめ、彼らの望む人物をえらはせる。世俗の入札のしかたを用い、衆人が徳望する人をえらぶのである」
 龍馬たちは、ここまで徹底した民主主義理論を考えていた。彼らはそれをあえて進めようとしない。大政奉還を推しすすめた後藤象二郎、その献策を許した山内容堂にしても、朝政に参与するのは、公卿、諸侯を中心とすると思いこんでいたためである。
「第三、ひとたびこの公選の法を用いたならは、その札数に差が出てくる。藩主はこの初回選挙を通過した人物のうちから、さらに定数の人員をえらぶのである。(複式選挙)」
 政治にあずかる人物を公選する制度は、西洋文明諸国では子供でも知っていることであるが、わが諸藩ではその制度をまったく知らない。そのため、藩士たちに了解させることは実に困難である。
 彼らは選挙に際し、えらばれる人の才能を論ぜず、日頃の交際の親疎によって、あるいは有力者の意向によって取捨しようとする。
 このため藩主は、初回の選挙を通過した者のうちから、さらに有能者をえらびだすのである。
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■龍馬暗殺

<本文から>
龍馬は二階奥八畳の北側の床を背に、火鉢を中に、南面して中岡と対座していた。龍馬の右手に行灯があり、龍馬たちは峰吉が持ってきた返書を光に近づけ読みおわり、薩摩屋の様子などを聞いた。
 そこへ下横目の岡本健三郎が入ってきたので、峰吉は龍馬のほうへ寄り、岡本は中岡の傍に坐った。しばらく話しあううち、龍馬は峰吉を見ていった。
「おお、腹がへった。峰、軍鶏を買うてきとうせ」
 中岡も応じた。
「俺も減ったき、いっしょに食うぜよ。お前んも食うていかんかえ」
 岡本を誘ったが、
「俺はまだ食いとうない。ちくと出ていく所があるき、峰吉といっしょに出かけるぜよ」
 中岡は岡本をからかった。
「また例の亀田へいくがじゃろ」
亀田とは、河原町四条下ル売薬商太兵衛のことである。娘のお高が美人で、諸藩の若侍たちが用もないのに薬を買いにゆく者が多かったが、岡本がついにお高の心を射とめたのである。
 岡本と峰吉が出ていこうとすると、表八畳にいた藤吾が声をかけ、「御用ならわてがいきまっせ」といったが、峰吉はことわり表に出て、四条の辻で岡本と別れ、四条小橋の鳥新で軍鶏を買おうとした。
 軍鶏を渡すのに小半刻(三十分)ほど待って、軍鶏の竹皮包みを提げ、近江屋へ引きかえしたのは、午後九時過ぎであった。
 峰吾が帰ってみると、門口が四、五寸はどひらき、土間に見なれない下駄がある。来客かと思い、家内に入ろうとして、入口の壁に沿い、抜身を手にして立っている大男に気がついた。
峰吉はびっくりして一間余も飛びのく。大男も身構える様子である。表の明りにすかして見れば、土佐藩邸の役人島田庄作であった。
「島田はんか」
 というと、
「峰吉か、静かにしい。坂本がやられたぞ。賊はまだ二階におる。下りてきたら斬ろうと待ちよるがじゃ」
「なにいうてはりますのや。中岡はんもいやはる。わては頼まれて軍鶏を買うてきたところどっせ」        うな
答える峰吉の耳に、藤吉らしい唸り声が聞えた。息をひそめ様子をうかがうと、ほかに物音が聞えない。階段を登ってゆくと、峰吉の足袋に粘りつくのは血のようである。二階に上ってみれば龍馬は次の間の六畳の欄干のそばに、うつぶせに倒れていた。峰吉は腰が抜け、畳に坐りこんだが、気をとりなおし、行灯を手に中岡を探した。畳は血にひたされているが、中岡はどこにもいない。
 無事に逃げたのかと思ったとき、隣家井筒産の産板で苦痛の坤き声がした。眼をこらし
て見ると、屋根に倒れているのは中岡慎太郎であった。
「悪い奴らはおらへん。皆あがってきてくれ。中岡はんが大怪我や」
 島田庄作、近江屋新助、その弟妹が上ってきた。真の納屋にかくれた新助の妻も、子供を抱いてくる。
 皆で力をあわせ、隣家の屋根から中岡を八畳にかつぎこんだ。龍馬は前額に脳蒙が白く流れ出るほどの創を負い、右の肩先から背筋にかけ、大袈裟に斬られ、すでに絶命していた。
 中岡は駆けつけてきた谷守部、毛利恭助、陸援隊士らに、遭難の模様を語ったというが、藤吉は十六日夕刻、中岡は十七日夕刻に落命した。
 これから国政の檜舞台に立ち、日本海運の興隆に縦横のはたらきをあらわすべき出発点に立った龍馬が、通り魔のような刺客に斬られ、にわかに冥界へ去った。
 龍馬を斬った下手人は、見廻組今井信郎らであったという説が、もっとも事実に近いといわれている。
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