津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          龍馬4−薩長篇

■麟太郎から別れ薩摩藩に寄せる

<本文から>
すし詰めの客を乗せた廻船は、西風を帆にはらみ、海上を滑るように走ってゆく。龍馬たちは麟太郎をかこみ、艫屋形で別盃を交した。麟太郎は洒を飲めないので、茶を飲んでいる。
 籠馬はいった。
 「先生は向う意気がつよいけに、つい人を怒らせるようなことをいわれますけんど、幕府の風向きが変ったいまは、用心してものをいうて下さい」
 麟太郎は笑った。
「分ってるよ。俺だって命が惜しいからな。お前らの七とは、薩州家老の小松帯刀殿に表むきは頼んでいるが、はんとうに世話をしてくれるのは、西郷さ。
 薩摩人はお前らを大事に扱うさ。なにしろ、あいつらがいま、一人でも多く欲しがっている蒸気船運航をこころえた人材なんだから、粗末にするはずがねえ。それより、どこで暮らしていても、時勢に遅れないようにこころがけることだ。
 いいか、うまく生きのびれば、また会えることもあるんだ。そのときを楽しみにしていようじゃないか」
 天保山から安治川口へ船が入ってゆくと、麟太郎は龍馬たち、ひとりひとりの手をカいっぱい握りしめた。
 専称寺で征長総督の使者を待つという麟太郎についてゆこうとすると、追いはらわれた。
「お前らの行先は、土佐堀屋敷だ。俺は明日には江戸へむけ出立するんだから、こんなところにぐずついていねえほうがいい」
 龍馬たちは、縁先に立って見送る麟太郎をふりかえりながら、専称寺の門を出た。
 龍馬は沢村、千屋らをふりかえっていう。
「俺は、薩藩屋敷じゃ、顔がきくきに、黙ってついてきいや」
 龍馬はいつもの通り、絹の上衣に黒羽二重の羽織をかさね、仙台平の折目立った袴をつけ、高下駄を鳴らして歩いていた。
▲UP

■命を安く売らないため危険が及べば逃げることが第一だと決めていた

<本文から>
西南雄藩の諸侯がいかに武備をととのえようとも、幕府と一いう巨大な存在には、到底抵抗できないと思いこんでいた籠馬は、西郷たちの言動を見聞きするうちに、眠から鱗の落ち者ような思いであった。
 薩摩藩に養われ、航海術を生かしてはたらくうちに、大きな波のうねりに乗る機会をつかめるだろうと、籠馬は見込みをつけている。
 彼を大久保越中守、松平春嶽、横井小桶らに近づけてくれた恩師勝麟太郎は失脚したが、その意志を生かすのが龍馬たちの責務であった。
 −俺は同志を食わせていかにゃあいかん。なんとしても動乱のなかを生き抜いて、日本の一大海局をこしらえあげるまでは、死ねん−
 龍馬は、命を安く売らないため、危険が身に及べば逃げることが第一だと決めていた。
▲UP

■西郷は龍馬の才能に気がつく

<本文から>
西郷は、龍馬が技術者ではなく、技術者を使いこなす頭領としての才能を持っていることに、いちはやく気づいた。
 龍馬が連れてきた五人の同志は、航海術に熟練しているが、彼らだけでは何事もできなかった。龍馬のもとに結束してはじめて、追いつめられた野獣のように切羽つまった状況を切り抜けていけるのである。
 広島の征長総督府にいた西郷は、大坂へ戻ってきた龍馬たちを、しばらく遊ばせておくよう、大坂留守居役木場伝内に指示した。
 勝が龍馬を身辺から離さなかったのは、龍馬に政事について斡旋する才能がそなわっていたからである。
龍馬は土佐藩郷土の弟という、とるにたらない身分である。武家社会では、どこへいっても通用するだけの信の置けない立場にいる人物であった。
 その龍馬が、勝を通じ、幕府の開明派として知られた大久保越中守に、惚れこまれている。越前老公松平春嶽も、龍馬であれは時ならず伺候しても、目通りを許すほど信任している。
春嶽の懐刀として知られた横井小楠は、いまは熊本に逼塞しているが、いつ時代の表舞台に出てくるか知れない、池中の蛟竜のような存在として、天下の識者に知られているが、彼もまた、龍馬を愛している。
小楠の後継者として、越前藩の財源をめざましく増大させた三岡八郎(由利公正)も、龍馬の無二の友であった。
龍馬には、時代の闇を切りひらいてゆく才腕のある切れ者たちに、信頼される資質がある。西郷吉之助も、龍馬と話をするといつのまにか、弟に接するような、なごやかな気分になった。
−龍馬には、政治の才がある。彼を蒸気船の運転に使うのは、鷹に水を潜らせるようなものじゃ。
龍馬の同志は、龍馬と引きはなしては使えぬ。まもなく征長の再戦がはじまるじゃろう。
 吉之助は、十月二十六日に大坂を出て、十一月十二日に広島に看き、長州支藩岩国藩主吉川監物に会
い、征長総督参謀として、長州藩に戦うことなく降伏することをすすめた。
総督の尾張藩老侯徳川慶勝が、大坂を出立するまえに、交渉をまとめる大役を、吉之助に命じていた。
吉之助は幕府が長州藩を討伐することを、望んでいない。尾張慶勝も同様である。
幕府のために巨額の軍費を消耗し、長州藩を潰滅させたのちは、幕威があがり、諸藩に対する統制がきびしくなるばかりである。
 西南雄藩のうち、長州藩が潰滅したのちは、幕府がつぎに征伐を望んでいるのは、薩摩藩であると、勝安房がいった。唇亡びて歯寒しという状況になるといった勝の一言によって、長州を徹底して撃破しょうと思っていた吉之助の考えが急転した。
▲UP

■薩長同盟の危機を救う

<本文から>
 龍馬と中岡ほ、懸命に桂をなだめたく
「西郷殿は、いったん約を交してのち、それを破るようなことはいたしませんきに。これには、きっと久光公のお申しつけがあるがに違いありません。
 久光公には、こちらから連合を申し出ることはない。尊藩から頼みにこさせよと申しつけておられるがでしょう。西郷殿は、久光公の逆鱗にふれて、二度島流しにされ、あやうく死にかけたことがあるき、これ以上、君命に背くことはできんがですろう。
 こたびの不始末ほ、われわれ二人がなんとしても償うて、君の面目の立つよう、誓ってはたらきますきに」
 桂は聞いた。
「君がたは、いかなることをして、面目を立ててくれるつもりかのう」
 龍馬がすかさず答えた。
「長州の四境に幕軍が間なしに参りますき。外国から薩摩藩の名義で、蒸気船、銃砲を買いいれ、尊藩へ持ちこむというのはどうですろう」
 桂は、思わず龍馬の顔を見直した。
 土佐脱藩の浪人にすぎない龍馬に、大敵を迎え撃つ長州藩にとって、よだれの垂れるような好餅を、ほんとうにもたらしてくれる力があるのか。
「それは座興で申されるのではないじゃろのう」
 真剣な目つきになった桂に、龍馬は酪酎してふだんよりも細くなった近眼をむけ、ゆっくりと答えた。
「座興なもんですか。かならずやりますきに信用してつかさい。俺の同志らあは、長崎の亀山いうところに、社中というもんをつくっち上ります。
 社中の同志は、神戸海軍塾にいた者んばあで、薩摩藩が後楯となり、月何両かの手当も貰うちょります。グラバーと小曾根英四郎という長崎の大商人が、手引きをしてくれて、なんでも買いよります。
 社中が薩摩の名義で買うたもんを、薩摩の船で尊藩まで運びます。もし、幕府に咎められたときは、社中の者んが一存でやったことにして、罪をかぶるか、しばらく上海あたりへ逃げるか、どうとでもするつもりですらあ」
 桂小五郎は、このとき龍馬という男が、中岡慎太郎のような、堅物の尊王浪士でほなく懐のふかい男かも知れないと思いあたった。
 西郷は、こんど胡蝶丸で上坂するとき、下関に立ち寄るのは無理であるとあらかじめ承知していて、桂が激怒したときは、社中という得体の知れない組織を使い、薩藩名義で武器、軍艦の購入を斡旋してやるという案を、まえもって龍馬と立てていたのかも知れない。
しかしそれは、桂にとって食いつかざるをえない好餉であった。
 桂は怒りを納めていった。
▲UP

■薩長同盟の成立

<本文から>
同日、龍馬が池内蔵太、新宮馬之助とともに、薩摩藩京都藩邸に到着したのは、木戸が別宴にのぞむまえであった。
 木戸は当時の様子を、自叙している。
「薩邸を辞去しょうとする前日、坂本龍馬が上京し、余をたずねてきて、薩長盟約は交されたかと聞いた。
 余は答えた。何も盟約はしていない。龍馬は憤懣を顔にみなぎらせていった。
 余らが薩長両藩のために身をなげうち、尽力するのは、決して両藩のためではない。
 ただ天下の形勢を考察すれば、安んじて寝ていられないので、このように奔走しているのである。
 然るに兄らはこの多事多端のときに際し、足を百里の外にのばし、両藩要路の人々がたがいに会同し、なすこともなく十余日を過ごし、むな.しくあい別れようとする。
 その意は実に解しがたい。区々たる痴情にひかれての、意地の張りあいを脱却して、なぜ胆心を吐露し、天下のためにおおいに将来を協議せんのですか」
 龍馬の憤激は当然であると、木戸は思ったが、彼はわが胸中に石のようにこりかたまっている意地をうちあけた。
「余は答えた。足下の言うところはもとより正しい。しかし今日のことには、一朝一夕にはできあがらない原因がある。
 長州ははじめ天下の危機を傍観できず、寡君(わが主君)は奮然として意を決し、おおいに天下のために尽力しょうとした。もとより危難も承知のうえのことであった。余らもまた心をあわせ主君のもとに団結し、万一のときには命を投げだす覚悟であった。だが、幕府は前後反復するばかり。
 わが長州藩はひとり条理をふみ天下に孤立し、今日の災厄を招くに至った。
 そのことに何の不足もない。臣子として当然だからである。
 しかして今日の薩州の地位は、おのずから長州とは違ってきた。
 薩州は公然天子に朝し、公然幕府に会し、公然諸侯にまじわりているではないか。おのずから天下に対し、公然と尽してしかるべきである。
 わが長州のごときは、天下皆敵で、征伐の軍勢の旋旗は、四境に迫っている。
 藩内の武士、民衆も死ぬ覚悟でこれに当ろうとしている。活路はもちろんない。長州の立場は、危険の極というべきである。
 しかして長州がいま口をひらき、薩州と軍事盟約をともにしようとすれば、彼をわが危険の地へ誘うことになる。
 いわずして援助を乞うことになる。これまた長州人の望まないところで、余はこれを恥辱と見る。
 薩州が皇室に尽くすならは、長州が滅亡しても、また天下の幸である。余は連合のために決して口をひらかない」
 龍馬は、木戸の本心を知って、了解した。
「さすがにお前さんは侍ぜよ。そげなことなら、どげな窮地に立っちょっても、お前さんのほうから口をひらいて連合を頼みこむことはできんろう。分った。ここは俺に任しとうせ」
 龍馬はただちに西郷に会い、木戸をひきとめ、薩藩側から連合を申し出るよう、火の出るような舌鋒で要請した。
 西郷は、龍馬の仲介を待ち望んでいたので、たちまち小松帯刀以下の要人を説得し、木戸をひきとめ、連合の具体案を薩摩側からきりだすことにした。
 のちに毛利敬親が往時を述懐した「忠正公勤王事績」(中原邦平著)に、つぎのように述べられている。
「桂(木戸)は始めて小松、西郷などと会見致したとぎに、これまで薩州と長州との関係は、かようかようであったが、長州の意思はこの通りであるというて、従来のゆきがかりを詳しく演説すると、西郷ほはじめから終りまで謹聴して、いかにもごもっともでございますというたそうであります。
 かつて品川(弥二郎)子爵から聞いたことがありますが、おれを薩人にすると、木戸の演説にほ十分つっこむ所がある。
 それをいかにもごもっともでございますというて、しやがんだまま、何もいわなかったのは、さすが西郷の大きい所であると、(敬親公は)話されましだ」
一月二十一日、薩長連合は龍馬の斡旋により成立した。
 木戸は手記にしるす。
「ここにおいて、龍馬は余の考えを動かせないと知ると、そのうえ責めなかった。そして薩州がにわかに余の出発を留めた。
 西郷は余に将来の構想について相談し、六力条の盟約を薩長のあいだに交した。龍馬はその席に証人としていた。
 余は翌夜京都を発し、浪華に下り、数日滞在するうちに、約束した六力条はいずれも前途重大の事柄で、余が聞きちがえておれば大変である。
 そのため一書をしたため、龍馬のもとへ送り、裏書を求めた。
 龍馬はその紙背に六力条の違誤なきことを誓う朱書をして、返してきた」
 木戸ほ寵馬の尽力により、使命を達成することができた。
▲UP

メニューへ


トップページへ