津本陽著書
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          龍馬3−海軍篇

■麟太郎のおかげで脱藩が許される

<本文から>
俺の塾生となったうえは、大手を振って世間を歩きまわらねばならん。いいから任せておけ。老公の口から、こっちの望む返事をいわせてみせるさ。お前さんは、宿でひと風呂
浴びて、洒を飲みながら待っているがいい」
 龍馬は麟太郎に従い、順動丸乗員の泊まる宿屋へいった。
 麟太郎は宿の座敷におちつくと、風呂にはいった。容堂の泊まっている本陣へ、使いを出向かせる様子もない。
 風呂からあがったとき、容堂の側小姓山地忠七が、麟太郎を迎えにきた。
 「手前主人には、勝麟太郎殿上陸なされし由、聞き及び、ぜひ一夕の歓をともに尽くしいと申しおりまする。幕府軍艦組の小野友五郎殿、加藤安太郎殿もおられまするゆえ、いろいろお話し下されませ」
「それはかたじけない。さっそく伺候いたしましょう」
麟太郎は高松太郎と望月亀弥太を手招きした。
「お前たち二人は、俺の小姓としてついてくるがいい」
麟太郎が高松、望月を連れ、容堂を訪問して戻ったのは、夜更けであった。
 西風は昼間とおなじように吹きつのっていたが、雨があがり、月が出ていた。麟太郎は宿につくと、大あくびをして座敷へ入った。
「明日は品川まで走らなきゃならないよ。皆、早く寝ろ」
龍馬は、したたかに酔い、着なれない紋服の肩をおとしている太郎と亀弥太に聞いた。
「ご隠居には、お前んらあも目通りしたか」
「おう、次の間の敷居際に膳を置いてもろうて、洒を飲んだぜよ」
太郎がいうと、亀弥太は笑っていった。
「ご隠居は、俺らあに声をかけてくれたがよ。そのほうどもは土州の者か。それなら大盃を受けよというて、五合ばあ入る大盃が、前にまわってきた」
「それを飲んだか」
 亀弥太は太郎と顔を見あわせ、うなずきあった。
「二人とも、腰すえて飲んだき、ちくと足をとられるばあ酔うたぜよ」
「そがなことは、土佐じゃ考えられんことじゃねや」
「まっこと夢のようながじゃ」
それなら大盃
笠原唯八、侍講吉田文次、細川潤次郎たちが陪席していた。
小野友五郎、加藤安太郎ら、大勝丸を運転する幕府軍艦操練所の幹部たちも、出席している。
 龍馬はたずねた。
「先生は、どがなご様子じゃったかよ」
「ふだんとかわらん、転合ばっかりいうて、皆を笑わせ。よっ一た。ご隠居が京坂の形勢をお尋ねなさったときは、たしかなうけ答えをしゆう。なんせ、頭が切れるきのう。ひとを笑わせてはっかりいながら、お前さんと惣之丞さんの赦免を願い出て、ご隠居に承知させたぜよ」
「なんちや、それはほんまか」
「嘘はいわん。先生はご隠居を呑んでかかっちゅう」
 麟太郎は容堂に懇請したという。
「方今、ご家来のうちに過激の志をもって、亡命いたす者が多うござりますが、拙者の門下にも、坂本寵馬、沢村惣之丞が参っておりまする。かの者どもには悪意はなく、憂国の志あるのみなれば、願わくは寛典をもってその罪を許されよ。やむなきときは、かの者どもを拙者がお預かり申しあげまする。お許しをいただくならは、望外のしあわせと存じまする」
 龍馬は、麟太郎が自分と惣之丞の脱藩の罪の赦免を、容堂に願い出たと聞き、おどろくばかりであった。
「ご隠居は、名前も知らん俺らあの赦免をいきなり頼まれても、びっくりするだけじゃろ」
 容堂が赦免しないときは、門人として保護すると明言した麟太郎の、幕府高官としての権威を、龍馬はあらためて認識した。
  −俺は日本一の人物の弟子になった。まっこと運のえいことじゃ−
 沢村惣之丞は、龍馬が誘い、まもなく河鰭公述への勤仕をやめ、航海塾に入ることになっていた。
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■幻の蝦夷の開拓

<本文から>
 龍馬は語調をつよめた。
「先生、蝦夷の開拓を一日も早うやるべきです。うちの塾生をはじめ、開拓をやってもえいという同志が、何百人も京坂の間におるがです。この者らあは、水戸の天狗党にも加わらず、長州にも走らず、神戸操練所の観光丸、異能丸で蝦夷渡海する日を待ちよります。京都で乱がおこったら、皆犬死にですらあ。神戸の塾生らあは、勉強が手につかず、諸藩脱走の志士と交わり、ともに生死を誓いおうちゅうがです。先生、一日も早う皆を渡海させたいと思いよりますき、智恵を貸してやってつかあさい」
 麟太郎は龍馬の願いを聞きいれた。
「俺が江戸へ帰ったら大越(大久保越中守〉に話をつけてやろう。観光、異能のうち一艦を蝦夷地へ乗りまわす入費は、三、四千両だろう。それほどの金を集めるには、江戸へ出てほうばう頼み歩かなきゃならねえ。水泉公(老中水野和泉守)に、いつだったかその話をしてみたら、乗り気だったぜ。俺が段取りをつけたら、手紙を送ってやるから、江戸へくるがいいさ。そのとき朝廷からのお達しをもらってくることだな。幕府の腰抜けどもは、御所の意向をやたらと重んじるからね」
 五月十六日、霧雨の降りしきるなか、将軍家茂は九つ半牢後一時)過ぎ、翔鶴丸に乗り、天保山沖を離れた。
 家茂に従う艦船がホイッスルを曇り空にひびかせ、一列になって遠ざかってゆく。
 龍馬は艦船のあおりをうけ揺らぐバッティラのうえに立ち、手を振って見送る。
 「先生、身辺にはくれぐれも気をつけてつかあさい。先生がおらんなったら、まっことしまいじゃき」
 龍馬はその夜、京都へむかった。
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