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<本文から> 龍馬は、女中と通じているという噂のある新甫を嫌い、彼が往診に出かけた留守に乙女に会いにゆく。龍馬は、三歳の甥の赦太郎を膝に抱き、乙女と話しあった。
「近頃の形勢は、大分荒れてきよった。浪人が事を起こしゆう。脱藩せにゃ、世間を動かせんきのう」
浪士たちは藩の規制から離れ、攘夷行動をおこす。異人を襲うのは、幕府を外交問題で窮地に陥らせ、政治改革に踏みきらせるためであった。
乙女が聞いた。
「脱藩すりや、わが身にも家の人らあにも、災難をこうむるぞね」
「そらそうじゃが、いまのままじゃ一生食いかねるような身上で、内職ばっかりしゆう者ぞ。ちくと頭がまわりや、いまの世間でひとはたらきしたいと思うても、ふしぎはない。幕府が通商じゃ、開国じゃと異国の奴らあに押されて、足もともふらついちょるき、尊王攘夷の声があがりゆう」
「公儀に睨まれたら、うちの殿さんも首すくめゆうぜよ」
龍馬が含み笑いをした。
「なんというても、幕府は四百万石、旗本八万騎じゃ。どこの大名でも喧嘩して勝てるとは思うちゃあせん。しかし、幕府だけじゃこれからの絵を描いてゆくのは無理じゃと、誰にも分かっちゅう。ほんじゃき、勅諚を賜って、葛府と合力して政事に参与したいという大名も、出てくる。しかし、表向きじゃあ動けんき、脱藩浪人らあがまず世間を騒がして、幕府を弱らせよるがじゃ」
「ほんじゃあ、鹿持先生みたいに、本心から壊夷をせにゃいかんと、思うちゅう人はおらんがかね」
龍馬は乙女の眼をのぞきこむ。
「そら、いっぱいおるぜよ。撰夷、撲夷というてはやらせにゃ、幕府を弱らせるほどの動きができん。しかし、人の上に立って旗を振るほどの者は、日本国にいま撰夷ができるほどの力がどこにもないことを、知っちゅう。世を動かす方便でいいゆうだけじゃ。顎(半平太)でもそれくらいは心待ちょる」
諸藩の若侍たちが、あいついで脱藩し、過激な尊壌活動に身を投げいれるのは、時代の転換が近いと推測しているためであった。
身分の重圧に押しひしがれ、将来にわずかな希望も持てない生活を送っていた下級藩士は、頭上を覆っていた暗い空に、陽光が糸のようにさしこんできたのを、敏感に察している。 |
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