津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          龍馬1−青春篇

■伊与は龍馬に自信をつけさせるため、武芸鍛練をさせる

<本文から>
 彼女は扱いようでは手に負えなくなる乙女をなつかせ、籠馬をふるいたたせようとした。伊与は龍馬に武家としての三力条の信条を教えた。
 一、相手にやられたらやり返せ。
 二、自分から進んで手を出してはいけない。
 三、男は強く、優しくなければならない。
 伊与は龍馬に自信をつけさせるため、武芸鍛練をさせることにした。彼女は知人の土居楠五郎に龍馬の指導を頼んだ。楠五郎は龍馬を見ると」笑みを見せた。
「この秘蔵子は、役に立つ者になりよる。手と足が大きかろうが。それに胸板が厚いろう。稽古さえすりゃ、素人ばなれした本方になるろう。上手になるにゃ、気の細いところがえいがぜよ。気の細い者が稽古して、しだいにしだいに強うなっていきゆう。それがいっちえがぜよ」
 龍馬は楠五郎に会ったとき、身内に昂揚を覚えた。
 −あしは強うなれるかも知れん。堀内みたいな奴にも勝てるんじゃ。たまあるか。稽古せにゃあ−
 日根野道場は、坂本家から五、六丁ほど離れたところにある。龍馬は乙女がおどろくほ ど稽古にうちこみはじめた。
 道場主日根野弁治は小栗流の師家で、剣術、和術を教えた。入門してから半年のあいだ は、基本動作の反復をする。
 龍馬はものに憑かれたように、稽古をつづけた。楠五郎は、日根野師範とささやきあう。
 「こりや、ものになるじゃろ」
 「うむ、一心不乱じゃねゃ」
 龍馬は、わが心中にあきらかに宿る堀内の残像にむかい、竹刀をふるった。彼は自分を 侵そうとする者に対抗するカを養う道を知って、奔馬のように駆けだしていた。
 彼は道場がひらく辰の五つ(午前八時) には稽古着姿で門前に立つ。昼には家に帰り、夕方の申の七つ半(午後五時)からはじまる稽古に出る。戌の五つ(午後八時)に稽古を終え、足をひきずるようにして帰ると、乙女がおどろくほどの食欲をあらわし、逞しくなっていった。
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■人の価値は出自によって変わることはないと龍馬は考えていた

<本文から>
 人の価値が、その出自によって変わることはないと、龍馬は考えていた。上士の子弟というだけで、郷土に対し優越感を持つ者は、愚者であるにすぎない。
 土佐藩の上土のうち、最高の地位である家老は十一家。禄高は一万石から二千石である。彼らのうちから奉行職が選ばれる。中老も十一家である。禄高は千石から五百石。
 上士のうちで、平士と呼ばれるのは馬廻以下である。馬廻は八百家。禄高は六百石以下。小姓組は定員がなく、三百石以下。留守居組も定員がなく、二百五十石以下であった。奉行、目付、仕置役などの役につけば、役高と呼はれる手当が与えられる。
 郷土の領知は二百五十石から三十石である。坂本家は、文政年間(一八一八−三〇)に領知百六十一石といわれたが、その後増加して二百石に近づいていた。
 坂本家は城下の金持ちであるといわれるほど現金をたくわえていたので、利殖をはかることができたのである。
 郷土以下の下士は、貧窮の暮らしに甘んじるよりほかはなかった。徒士は切米十七石、三人扶持以下。徒士格は十二石、三人扶持以下。組外から足軽までは十石から三石、二人扶持という僅少な扶持で生活しなければならない。一人扶持は一日当たり玄米五合であれば、消費を削って外の生活費にあてようとすれは、粥をすするにも不自由することになる。
 中江兆民の家は切米四石、二人扶持の足軽であった。下士の多くは、小高坂附近に住んでいた。彼らは郭中の上士の遊惰の気風をさげすんだ。
 郭中の追手筋、本町、帯屋町に屋敷を構える大身の侍たちは、いずれも玄米数百石の収入があり、下士たちが生涯望み得ない豪著な生活を送っている。
 彼らは武芸、学問にはげむこともなく、広大な庭園に数奇をこらし、妾を養う。江戸勤番を免ぜられたいために仮病をつかい、家禄のうち五十石を減俸されても痛棒を覚えない者もいた。
 城下では、年秋になると鏡川南河原で相撲の催しがおこなわれる。盛組の青年は、土俵のまわりに桟敷、櫓を組み、峨を立て、幌幕をめぐらし、にぎやかに見物した。
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■龍馬は日本の為政者の無策が腹立たしかった

<本文から>
 三郎助は、アメリカ側の要求をうけいれるほかはなかった。
 奉行所では、奉行戸田伊豆守が黒船渡来を急報する使者を幕府へさしむけたのち、与力たちと徹宵協議をかさね、四日朝六つ半(午前七時)に、与力香山栄左衛門を、サスタェハナという主船へ再度交渉に出向かせたが、先方の態度は前日よりも強硬であった。
 「貴国において、わが国書を受けとらないときは、司令官は兵力をもって上陸し、国王に面会すべき任務を遂行しなければならない」
 三郎助はいう。
 「ペリーは、われらごとき小吏を相手にいたしませぬ。香山殿も先方のいうがままに押しきられました。江戸へ伺いをたて、返答をとるあいだ、四日の猶予を頼みたるところ、三日間は待つとの返事でござった。香山殿はサスクェハナより戻り、さっそく談判の様子を注進のため、江戸へ出府いたした」
 三郎助ほしはらく、いいよどんでいたが、思いきったように語りはじめた。
 「アメリカからは、われらに白旗二本を渡してござる。彼我開戦ののち、もし急用のことあらば、これを立てて参らば砲撃をやめ、船を退かせて和議をいたすとのことにござった」
 龍馬は衝撃をうけた。
  −なにをいいゆうぜよ。俺らあが黒船を見て、臆病風を吹かしたと思いよったか。大言飛はしよって、許さんぞ −
 象山は嘆息をもらす。
 「本邦に武備なきところをつかれしなれば、是非もござるまい。大船もなく、台場はひとして法に叶いしもののなければ、内海へ入りこみ、お膝もとへ一発撃ち放たれなば、申すばかりもなき大変とあいなろう」
 象山の言葉は、龍馬の心に迫った。ヨーロッパ、アメリカより武力に劣る日本が、彼らの要求を受けいれざるをえない実情が、はっきりと理解できる。
 −公儀はいままで、何をしちょったか−
 龍馬はアメリカの侮りを受けるに至った、日本の為政者の無策が腹立たしかった。
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■龍馬は江戸でしばらくは形勢を見る

<本文から>
龍馬は江戸に滞在した一年のあいだに、世間を見る眼が大きく変わっていた。彼は中国の史記を読み、秦の始皇帝の宰相となった李斯の挿話を覚えている。
 李斯ははじめ楚という国の、片いなかの小役人であった。彼は出世の希望のない生活から脱出しようと考えた。
「役所の便所に住みついた鼠は、汚物をくらい、人や犬の影を見ては逃げ走る。倉庫に住みついた鼠は、うずたかく積まれた穀物を食い、屋根の下で人や犬に会うこともなく暮らす。人間の運もまた、住む場所によってきまる」
 龍馬の身内に、この挿話が根づいていた。
 龍馬は財力も地位もないが、あり余る時間があった。彼は自分にいい聞かせた。
 −これから世間は変わってくる。しばらくは形勢を見ることじゃ。あわてちゃいかん。龍が雲を呼ぶにも。機をはからにゃいかんがじゃ−。
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