津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          乱世、夢幻の如し(下)

■三好政権を握り、過去の奴隷の身を思い返す

<本文から>
 長慶は安宅冬康を殺害したのち、悲嘆にうちひしがれる朝夕を送った。「足利季世記」にその間の事情が記されている。
「摂津守(冬康)すこしも罪なくて、慚死に逢いたもうとたしかに聞き給いければ、長慶聞き開き(聞きなおし)後悔丹腑をなやましけれども、返るべきならねば力なく、されどもそのことを深く悔いて煩い重く」
 長慶が身心に異常をきたしたのは、永禄四年(一五六一)の頃からであるといわれており、脳を患う病いであったのであろうが、彼が詠んだ和歌からは、むしろ常人より鋭敏な感覚がうかがわれる。
 彼が弟冬康を殺してのち、四十余日後の永禄七年六月二十二日、養嗣子孫六郎重存は、三好長逸、松永久通らの宿将と広橋大納言国光、竹内三位季治、清原宮内戯触祭ら公卿衆をふくむ四千余人の供を従え、上洛した。
 五十四歳の久秀は、信景山城の天守閣から、夏の陽射しに金具をきらめかせつつ遠ざかってゆく重存の行列を遠望し、洒を酌む。
 四方をあけはなした天守閣には、糀秤の山野をわたってくる青嵐が流れこむ。久秀は鬚の毛をそよがせつつ、物思いにふけっていた。はるかな過去にみじめな生涯を終えた母の俤が、脳裡に浮かぶ。
 −儂の父者は、いかなる人であったのかや−
 彼は自分がこの世に生を享け、陰惨な奴隷の身のうえから成りあがって、天下の権をうかがうまでになった因縁を、ふしぎなものに思う。
 彼はいまでも眠る暇もなくはたらかされ、血を吐くまでに疲れはて、はてもない労働にうちひしがれた過去のわが姿を、夢のうちで見る。
 藍川榔を壁のように顔に塗りたくり、色を売っていた若い頃のあさましい自分を、見ることもある。富裕な商人、大百姓らの男色の対象とされて成人した過去をもつ久秀は、従四位下弾正少弼となったいまも、心中に他人を信じない氷のように冷えきったものを沈めている。
 彼は蝉の羽のように薄い麻帷子の袖を風にそよがせ、大勢の側女どもに取り巻かれて、信景山の山腹に群れをなして飛びちがう和が眼をやり、満ちたりた気分を髄しんでいた。
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■将軍殺し

<本文から>
 三好勢は室町御所を包囲したのち、近習の進士晴舎を呼びだし、告げた。
 「公方さまに訴訟申しあげたき儀がござるによって、いちいちお聞き分けいただきとうござる」
 軍勢の頭だつ者どもが訴状を捧げ、御所へ押しいる。
 殺気だった三好の侍どもは、あとにつづき、制止を押しきって御所のうちに続々とはいり、前庭は具足姿の士卒で充満した。
 義輝の母慶寿院殿は、三好の者どもめ口上を真にうけ、義輝に騒動をしずめるため訴えを聞いてやってくれと、泣いて頼んだ。
 三好衆は幕府の侍たちと押し問答をくりかえすうち、頃合いを見計らい、鬨の声をあげ、殿中へ斬りこんだ。御所を取り巻く軍兵たちも、堀をわたり、塀を乗り越えて庭先へ乱入する。
 将軍家奉公衆は、一色淡路守以下、いまはこれまでと思いきって凄まじい反撃をみせた。彼らはたやすくは三好勢を御殿にいれず、奮戦する。
 義輝は塚原岬倍から、流儀の秘伝「一つの太刀」の伝授をうけていたほどの腕前であったので、名刀十幾振りを抜いて用意し、切れ味が鈍ると取りかえて斬りまくる。そのいきおいに、近づく敵もない有様であった。
 義輝は一息いれて最後の酒宴を催し、細川宮内少輔の舞いをめでたのち、硯をとりよせ、上勝女房の袖に辞世の歌を記した。
 五月雨は露か涙かほととぎす
  わが名をあげよ雲の上まで
 義輝はいよいよ最期のときがきたと、阿修羅のように荒れ狂う。彼に従う近習勢三十余人が斬り棄てた三好衆は、二百人に及んだという。
 義輝は、三好方の池田丹後守の子に薙刀で足を払われ、倒れたところを上から障子を押しかぶせられ、槍で突かれとどめを刺された。
 享年三十歳であった。
 将軍義輝が耕されたのち、義輝の母慶寿院も、燃えさかる二条御所のなかで自害してはてた。
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■三好三人衆との争い

<本文から>
 久秀は三人衆の申し出を一蹴した。三人衆は本願寺に対し面目を失い、久秀の専横を憎悪するようになった。彼らはこのときから久秀を排斥するようになった。
 三好長逸、三好政康、岩成友通の三人衆が久秀討伐を思いたったのは、覚慶が逃亡して間もない永禄八牢八月二日、丹波八木城主松永甚介が、丹波氷上郡で戦死した時であった。
 甚介は長駆して同郡黒井城を攻囲してけるとき、赤井直正の逆襲をうけた。
 戦巧者の甚介は、本陣旗本勢に円陣をつくらせ、急場を凌いで退却しようとこころみたが、雲霞の敵勢に陣形を寸断され、ついに討死にを遂げた。このため三好政権は支配下に置いていた丹波一国を喪失した。
 甚介の戦死によって、久秀の後盾となっていた松永一族の武力は半減した。そのうえ、長慶の後嗣である義継(義存から改名)の人望がはなはだ薄かったので、畿内の地侍たちの衆望をうしない、「ひとえに三好滅亡の端なり」との噂がひろまった。
 幕府権力の象徴として、神器とされる小袖、鎧櫃は義輝が試されたのちは朝廷で保管していたが、永禄八年十月末に久秀の奏請で松水氏へ渡された。
 久秀はもちまえの不敵な性格をあらわし、甚介亡きのちの緊迫した情勢を独力で切りぬけようとした。
「儂は劫を経た蛇じゃ。甚介の助けがのうても、たやすくは死なぬわえ。儂に敵する者は、誰によらず喰い殺してやる」
 三人衆と久秀の争いは、まもなくはじまった。
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■東大寺の大仏を焼く

<本文から>
 大仏建立は、聖武天皇畢生の祈願としてはじめられたものである。
 天平十六年(七四四)に近江の紫香楽宮で作事をはじめたが失敗した。このため平城京東端の現在地をえらび、天平十九年九月に作事がおこなわれた。
 竣工は、天平勝宝元年(七四九)十月二十四日のことである。当時の盧舎那仏は、「鍍金による金色」であったといわれる。
 東大寺西廻廊が燃えあがるなか、松永勢は荒れ狂い、三人衆の部下のうち中村新兵衛という槍の名手が奮戦して、頽勢をたてなおそうとしたが、ついに討死にを遂げた。
「いにしえの弁慶もカクヤト皆人の申し候えるなり」
 と「東大寺雑集録」に記されている。多聞院英信は嘆く。
「猛火天に満ち、さながら雷電のごとく一時に頓滅しおわんぬ。釈迦像も湯にならせんまいおわんぬ。…この刻に生き逢うこと、欺きのなかの欺きなり。罪業のほど悲しむべし、悲しむべし」
 この一挙によって、畿内には、大仏を焼いた仏敵三好、松永の悪名がひろまり、人心は彼らを離れた。
 大仏殿に放火したのは、松永、三人衆のいずれか判然としないが、久秀が焼いたといわれることになったのは、それまでの仕業が仏罰を怖れない放埒なものであったためである。
 その夜のうちに焼失したのは、大仏の仏頭、伽藍、穀屋坊、念仏堂、大菩提院、唐禅院、四聖坊、安楽坊などであった。
 鐘楼堂はいったん燃え上がったが、僧侶が懸命に消火をして、かろうじて焼け残った。
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■信長に降伏

<本文から>
 この情報を得た松永久秀は、久通と相談をした。
 「甚介が生きておったなら、儂もほかに考えようもあろうが、織田信長と申す男は、伊賀のスッパどもの注進によれば、なかなかの出来星のようや。今川義元との一戦に勝って尾張を押え、美濃をも手中にした。北伊勢、南伊勢にも、もはやあやつに太刀打ちしうる大名はおらぬと聞く。
 信長はのう、尾張五十六万石、美濃五十四万石を押え、さらに伊勢五十七万石を手中にするつもりや。北伊勢にはこれという力のある大名がおらぬゆえ、じきに信長の手にはいるやろう。
 足利義昭も、ええところへ目えつけたものや。信長の上洛の邪魔をするのは、近江の六角承禎しかおらぬ。
 六角は北伊勢八郡の地侍を語らい、信長に楯つこうといたしておるのや。それがうまく運んだなら、六角の人数は三、四万にもなり、信長も上洛がむずかしゅうなる。
 ただ、それでも信長はやり遂げるかも知れぬわい。あやつには三河の徳川家康、小谷城の浅井父子が合力いたしおるさかい、五、六万の軍勢を催すことができるやろう。
 いま信長は六角より先に、伊勢北八郡に兵を出しておるそうな。その成りゆきを見守り、もし北伊勢の者どもが信長についたときは、儂らも信長につくといたそう」
 久通は眼をみはった。
「何と仰せられまする。信長ごときた降参いたすのでございますか」
 「そうよ、いまの儂には信長に手向うて勝てるだけの力はない。三人衆の阿呆どもは、六角と手をむすび、信長に刃向うつもりらしいが、やるだけ無駄というものよ。六角と三人衆に、北伊勢の侍どもが集うて、ようやく信長の四分の力が出せるというところか」
 「三人衆は六角と手をむすびまするか」
 「そうよ、六角も三人衆も、信長の力を軽く見ておるのや。儂はいまのうちに信長に人質を差し出し、誼みを通じておく。そうすりや、畿内で儂はいままでの通りに生き残れよう。三人衆は負けて、阿波へ逃げよる。信長は目はしのきく男のようや。五畿内はそうたやすくは治められんということを、納得しとるやろ。そうなれば、儂の立場は安泰や。三人衆がおらぬようになっただけ、儂に利があるということになろう」
「しかし、信長の家来になるのでござりましょう」
「うむ、いままでにも亡き長慶檀那の家来にて、随分と甘き汁を吸うてきたやろう。こんどもその通りにやるのや。親玉になれば、なにかと風当りもつよいし、やり損じもする。そのうちに死によるわい。痛いで死ぬか、殺されるか知らぬが、そのあとで儂債が天下に指図するのや」
 「もし死なねばどういたしまするか」
 久秀は冷たい笑みを口辺に浮かべた。
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■久秀は謀叛しても信長は助命すると見通す

<本文から>
 信長は久秀をはじめとする畿内の諸侍が、利にさといことは充分承知している。信長が不利になれば背き、有利になれば従うことをくりかえしてきた。信長が謀叛した久秀を処断することなく助命するのは、いうまでもなく地侍を周旋する実力があるためであった。
 久秀は信長に背いても彼を激怒させるような行動はとらない。織田軍団を攻撃せず、畿内の彼に敵対する勢力を討滅しようとするばかりである。
 久秀はいう。
 「信玄が出てきたとて、信長のかわりとなるまでや。儂を用いねば、別の親玉を担いで信玄を追い落すばかりや。食にもこと欠く地下人から這いあがった儂や。大名づれに操られでたまるかえ」
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■信長に再び降伏、赦免されるのが無気味

<本文から>
 大和信景山城、多聞山城に在城の松永久秀、久通父子は、信長があたるべからざる勢いで一向一揆の根絶やしに取りかかろうとしている動きを、逐一探知していた。久秀は信長上洛のまえに、佐久間信盛に使者を遣わし、信長へ降参の斡旋を懇請した。
 彼は、赦免の条件として、久通の居城多聞山城を信長に渡し、父子ともに信貴城一城に在城する旨を申し出る。
 信長は、佐久間信盛から久秀の申し出を聞くと、苦笑いを洩らした。
「あやつが心底は計りがたく、いつ叛くやも分らぬ痴れ者だわ。されども畿内を治むるにはこのうえもなく重宝なる、下情に通ぜしやつゆえ、しばらくは使うてみるもよからあず」
 久秀が帰服すれば、五畿内の地侍は信長になびくが、許さなければ事態はどのように展開してゆくか知れない不安がある。霜台の名は、五畿内の押えとして用いうると信長は見ている。不必要になれば抹殺すればよい。
 久秀は、信長が赦免するとの通報をうけ、安堵した。
「信長が儂を攻むると申すなら、石山本山、三好の一党を語ろうて、摂、河、泉で迎え撃ち、底なしの泥沼へ引きこんでやろうと思うたが、相手はやっぱり利口者や。その手には乗らなんだわい。
 いまはひとまず信長のまえにひれ伏し、やがて隙をうかごうて絞めあげてやるといたそうよ」
 彼は口先では強気を変えなかったが、内奥では信長を畏怖するようになっていた。
 旧主の三好長慶は戦術の天才であったが、大義名分に弱く、足利、細川の臣下としての階級に甘んじる弱点があった。そのため、九仞の功を一簣にかく結果に終り、戦国の世にあらたな天下人として出現できなかった。
 だが、信長には甘さは微塵もない。彼は自ら天下一統の大業を成し遂げるためには、旧来の階級権威をためらわず利用するが、それに依存することはまったくなかった。必要であれば旧秩序を緊膠のごとくなげうつであろう。
 久秀は幾度叛いても、降参すれば赦免してくれる信長が無気味であった。信長は彼の気性を愛しているため、赦免するのではない。久秀を敵にまわすよりも、帰服させるほうが得策であると利害の判断をしての措置にすぎない。
 冷静な信長の内懐へはいりこもうとしても無駄であると、久秀は読んでいた。
−あやつはこれまで見たこともなき奴や。一筋縄ではいかんわい。儂も用ずみになりや、消されてしまうやろ一
 久秀はわが将来をひとごとのように予測してみて、みぞおちに氷のようにくいこんでくる恐怖に鳥肌をたてた。
−あやつがはやり病いにかかるか、遠矢でも射かけられて死なぬかぎりは、儂が片づけられようかえ−
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■再びの謀叛

<本文から>
 久秀は笑って聞きながす。
 「子細はあるが、申せしとて詮なきことよ」
 友閑はあきらめない。
 「いまならば間にあうのや。本音をいうてみよ」
 久秀は冷たい眼差しで友閑を見すえた。
 「儂はわが胆力にて浮世の荒波を乗り越えて参ったわ。世渡りは情で罷り通れるようななまやさしきものにてはなし。儂が信長に叛きしは、もはやあやつの命運尽きたりと見てのことや。六十八の齢かさねしこの久秀の眼力が狂いしときは、自害してはてるのみよ。男はわが一生の締めくくりを、わが手でつけるものであろうがや。そのときが来たまでのこと。成否は論外というべきや。たとえ信長に負けたとて、儂はいままでやりたい放題にやってき て、もはや思い残すこともないわ。
 友閑殿よ、おのしとはながきあいだの朋友にてあったが、このたびばかりは何といわれても山を下りんわえ。儂はここにおるさかいのう。帰って信長に申せ。あやつはもはや戻りませぬとな」
 久秀が突然謀叛したとき、彼の身辺に侍する郎党までが仰天した。織田政権は上杉、雑賀、本願寺、毛利の四勢力に押されてはいるが、打倒されるほどの窮境にたち至ってはいない。
「お殿さまにはいかようの儀にて、ただいま謀叛を起さんと思いたたれてござりまするか」
 久秀は激怒して答えた。
「儂がゆえなくかようの大事をいたすと思うてか。近日信長に誅伐されるべき子細あればこそ、先んじて兵を起したのじゃ」
 久秀が本願寺、上杉、毛利と交渉している裏面を信長に察知されたというのである。両様の返答のどちらが真実であったかは分らない。おそらくどちらの事情も介在して、謀叛に踏みきったのであろう。
 信長は播州と北陸に強敵を控えているときであり、久秀を敵にまわしても兵を派遣する余裕さえなかったが、説得に応じなければ時機を見て成敗をしなければならない。
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■久秀の潔い最期

<本文から>
 十日未明から筒井勢の猛攻がはじまった。
 開の声をあげ、山上に迫る寄せ手に松永勢は白兵戦を挑み、荒れ狂う。
 筒井勢は甚大な損耗に堪え、城内にはいった味方が行動を起すのを待つ。
 やがて城内煙碑倉が天地を敵艦させる藍aともに爆発し、同時に城内からいっせいに火の手があがった。
 形勢は一挙に逆転し、城兵は浮き足だった。
「味方に謀叛人が出たぞ。背より討たるるぞ」
 恐怖した松永勢は四分五裂となった。
 久秀は退いて本丸にはいる。
「いよいよ最期のときが参ったか。この世に生れきて、よき夢を見させて貰いしものよ。また変った夢を見させて貰おうかえ。死んでのちの行先は三千大千世界や。この世は一時の夢よ。人は裸で生れ、裸で死ぬ。さて、儂が珍重いたせし諸道具を焼き棄てるべし」
 彼は和漢の七珍万宝すべてを火中に投じた。玉潤、顔輝、舜挙、趙昌、馬遠、雪舟の絵。義之、子昂、虚堂、道風、行成、貫之、公任、俊成、定家の墨跡。名香、茶入れ、茶碗、釜、水差などの逸品も数知れず焼く。
「これはかねて信長に再三所望されしものなれば、あやつには渡さぬ」
久秀は平蜘蛛という天下に名高い茶釜を床に投げつけ、粉々に打ち砕く。
 彼は火炎のなかで右衛門佐久通以下一族十一人、郎党二百三十余人とともに切腹し、六十八歳の生涯を閉じた。
 梟雄といわれた久秀の最期は、五畿内に名を馳せた戦国武将にふさわしい、いさぎよいものであった。
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