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<本文から> 長慶は安宅冬康を殺害したのち、悲嘆にうちひしがれる朝夕を送った。「足利季世記」にその間の事情が記されている。
「摂津守(冬康)すこしも罪なくて、慚死に逢いたもうとたしかに聞き給いければ、長慶聞き開き(聞きなおし)後悔丹腑をなやましけれども、返るべきならねば力なく、されどもそのことを深く悔いて煩い重く」
長慶が身心に異常をきたしたのは、永禄四年(一五六一)の頃からであるといわれており、脳を患う病いであったのであろうが、彼が詠んだ和歌からは、むしろ常人より鋭敏な感覚がうかがわれる。
彼が弟冬康を殺してのち、四十余日後の永禄七年六月二十二日、養嗣子孫六郎重存は、三好長逸、松永久通らの宿将と広橋大納言国光、竹内三位季治、清原宮内戯触祭ら公卿衆をふくむ四千余人の供を従え、上洛した。
五十四歳の久秀は、信景山城の天守閣から、夏の陽射しに金具をきらめかせつつ遠ざかってゆく重存の行列を遠望し、洒を酌む。
四方をあけはなした天守閣には、糀秤の山野をわたってくる青嵐が流れこむ。久秀は鬚の毛をそよがせつつ、物思いにふけっていた。はるかな過去にみじめな生涯を終えた母の俤が、脳裡に浮かぶ。
−儂の父者は、いかなる人であったのかや−
彼は自分がこの世に生を享け、陰惨な奴隷の身のうえから成りあがって、天下の権をうかがうまでになった因縁を、ふしぎなものに思う。
彼はいまでも眠る暇もなくはたらかされ、血を吐くまでに疲れはて、はてもない労働にうちひしがれた過去のわが姿を、夢のうちで見る。
藍川榔を壁のように顔に塗りたくり、色を売っていた若い頃のあさましい自分を、見ることもある。富裕な商人、大百姓らの男色の対象とされて成人した過去をもつ久秀は、従四位下弾正少弼となったいまも、心中に他人を信じない氷のように冷えきったものを沈めている。
彼は蝉の羽のように薄い麻帷子の袖を風にそよがせ、大勢の側女どもに取り巻かれて、信景山の山腹に群れをなして飛びちがう和が眼をやり、満ちたりた気分を髄しんでいた。 |
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