津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          男の真剣勝負

■主人の給与は家臣のために使い果たす

<本文から>
 まもなく吉宗は財政再建策に着手した。その第一は、家中全員から知行のうち二十分の一を借り、財政回復後に返却する差上金借上げの策である。
 第二の措置は、坊主、手代その他の小役人の整理であった。吉宗は八十人の隠し目付をはたらかせ、江戸屋敷奥向き、国元の二分口役所、仕入方会所の役人の行状を調べあげさせた。その結果、怠慢、不正のふるまいのあった者が百余人に及んだ。彼らにお暇を申しつければ、冗費が倹約できる。
 第三は、領内用水工事の開発である。用水をたくわえれば、米の収穫は増大する。紀州藩には大畑才蔵という、土木工事に天才的手腕を発揮する技術者がいた。
 吉宗は彼を重用し、田地の開拓に着手した。才蔵はまず紀の川北岸に小田井という新渠を設ける工事に着手した。完成すれば千三百町歩の美田が出現する。
 吉宗はつぎに家中経費の節減にとりかかった。江戸勤番二千人の藩士に要する諸費用が年間九万両に及んでいるのである。
 吉宗は目付役に藩士の行状を詳細に探索させ、無駄な経費を濫用している者を調べあげた。
 彼は江戸屋敷の支配者である水野大炊が、吉宗の指示に従わず贅沢な暮らしむきであるのを知ると、中屋敷大広間に重立った藩士を列座させたうえで、訓戒を垂れた。 
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■朝鮮出兵での反感が関ヶ原敗因の遠因

<本文から>
  この頃、新山城の尼子勝久は毛利の攻撃を支えかね隠岐へ逃げ、出雲に尼子方の城は一城もなくなった。
 鹿之介は従者らとともに諸国を流浪し、海賊の頭目となったこともあった。因幡国の守護山名豊国を扶け、逆臣武田高信を討って武名をあげる手柄をたてたが、京都から同志の立原源太兵衛が上洛をすすめてきたので、早速おもむいた。
 京都には信長政権が基盤をかため、中国経略をおこなおうとしていた。
 鹿之介豊原とともに明智光秀を頼み、岐阜から上洛する信長に謁し、わが存念を申し述べた。
「中国攻めのときはお先手となり、道の案内を仰せつけられたい。われらにはたらきあれば、出雲を主人勝久に賜わりたし」
 信長はこころよく応じた。
 天正元年(一五七三)十二月、鹿之介、立原らは信長の援助を得て、丹波から因幡へ入る。因幡の山名豊国は旧恩があるので、吉川元春に人質を出していたにもかかわらず鹿之介に味方した。
 だが吉川元春、小早川隆景が攻め寄せてくると、たちまち毛利方に就いた。鹿之介は尼子の約数来三千人を擁し、執拗に抗戦をつづけたが、天正四年(一五七六)晩秋に一敗地にまもれ、京都へ敗退した。
 鹿之介が特有の粘着力のある作戦により、尼子の勢いをある程度まで回復しても、巨大な毛利の戦力のまえにはなすすべもなかった。だが鹿之介は屈しない。
 天正五年(一五七七)、いよいよ織田政権の中国経略がほじまった。尼子勝久、鹿之介は秀吉に従い十一月二十七日、播磨、備前、美作三国の境にある上月城を陥れ、守備を任された。
 だが秀吉が安土へ帰っているあいだに状勢が一変した。吉川元春、小早川隆景、宇喜田直家の四万九千人の大軍が押し寄せてきて、織田方に就いていた三木城の別所長治が毛利方に就いた。
 信長は決断を下した。上月城を放棄し、戦線を縮小するよう命じたのである。秀吉は重囲のうちにある上月城から鹿之介を脱出させようとしたが、不成功に終った。
 天正六年七月三日、上月城は開城し、尼子勝久は切腹した。鹿之介はなお生きのびて尼子再興をほかろうとして降伏したが、ついに殺された。行年三十四歳であった。
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■秀吉に欺き政治路線を信長公の復活の野望をもった

<本文から>
 早雲の妹北川氏は延徳二年(一四九〇)に病死していたが、早雲はその後も変らず今川氏親に臣従していた。
 早雲は清水湊から十膿の大船に五百余人を乗りこませ、夜明けまえに出航して午の刻(正午)には伊豆に到着した。伊豆半島南寄りの松崎、仁科、田子、安良里の湊に分散上陸したが、一帯の住民は海賊切襲来と見て山中へ逃れた。
 早雲は夜中に北へむかい、翌日堀越御所を急襲した。
「いずれの賊が押し寄せしぞ」
 御所では先君足利政知の一周忌供養がおこなわれていた。茶々丸は不意をうたれたがうろたえず太刀をとり応戦する。
 早雲は御所の諸方に火を放たせたので大混乱となった。茶々丸は僅かな近侍の者とともに応戦しつつ間近な大森山へ逃げこみ、追われて山下の寺に入り、自害をよそおって逃れ、堀之内の根津城へ落ちのびた。
「小手先のまやかしには乗らぬわい」
早雲は根津城を包囲する。
 茶々丸は遁走して三浦半島の土豪三浦時高を頼った。
 早雲は兵をしばらく伊豆にとどめておき、韮山城へ帰ると、利をもって撫民政策をとり、従う者にはこころよく金穀を与える。
 早雲は山中へ逃避している者、天城山南方の住人らを早急に手なずけるため、国中の要所に制札を立て、北条勢が空家に侵入し、諸道具に手をつけないこと、何の価値もない物でも奪わないことを指示する。
 伊豆国中の士民には、つぎの触れ状を出す。
「伊豆の国中の侍、百姓皆もって味方に候すべし。本知行相違あるべからず。もし出でざるにおいては作毛をことごとく散らし、在家を放火すべし」
 当時伊豆には伝染病が流行し、民家には病人が多数寝こんでいた。早雲は兵士に命じ彼らに食物を与え、薬を飲ませ看病させたので、恢復した者は彼の人徳をおおいに宣伝した。
「早雲さまは、仏が現世にあらわれしようなる、まことに情深きお方じゃ」
噂を聞いた遠近の者は韮山へ挨拶に出向く。早雲は彼らの身分、財産のすべてを安堵保証してやる。山内上杉氏に従い上州へ出陣していた侍衆も、留守中に早雲が伊豆を制圧したと聞き急ぎ帰国してみると、稀れにみる器量人であるとの噂が高かったので、安心して服属を申し出た。
 早雲の巧みな人心収攫の効果があり、一カ月のうちに伊豆一国は完全に波の箭分となった。
 彼は土豪、村長を集め、告げた。
「国主は親、民は子と存ずる。さればわれらは公事(税)を田粗のみといたす。田粗は四公六民でよい」
 住民たちは歓喜した。
 当時の大名は収穫の五割を取りあげるのが通例である。なかには六割から、七割を取る暴君もいた。しかも田租のはかにさまざまな雑公事も召しあげる。
 六十歳の早雲は、帰服しない者は容赦なく討ち滅ばす。
 伊豆深根城主関戸吉信は、早雲に反抗したので二千の兵をさしむけられ、敗北した。早雲は日頃の温情主義を一柳して吉信父子以下、城中にいた女子供から法師に至るまでをすべてを殺し、千余の首級を梟した。
 早雲が伊豆一国を奪った行為を関東管領山内上杉顕定、将軍足利義材はともに黙過すろしかなかった。将軍、管領は早雲を攻める戦力を持っていなかったのである。
 このときから下野上の風潮が全国にひろがり、戦国時代の幕がひらくことになる。
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■天下で実現しようとした3つの目的

<本文から>
 次郎長の生涯は、子分石松の死の仇討ち、荒神山の血闘など、すさまじい争闘の記録に覆われている。
 荒神山の出入りでは、次郎長一行は五百人に及んだといわれる。二腹の大船に鉄砲四十挺、長槍百七十本、米俵九俵を積み、慶応二年(一八六六)五月十九日に寺津を出て伊勢へむかったのである。
 次郎長たちは炎天下に煮しめたような浴衣姿であったが、船中には甲胃銃槍が整然と並べられ、十万石の大名の武備をうわまわるほどであったという。
 慶応四年四月、田安中納言慶頼の三子亀之助は、慶喜のあとを継ぎ徳川宗家十六代当主となり、新政府から駿河国府中城主に任ぜられた。領地高七十万石である。
 八月末になって旧幕府軍艦開陽、回天、播竜、威臨の四隻が清水に入港した。四隻は榎本武揚に率いられ奥羽列藩同盟応援のため品川沖を出航し、北へ向ったが、銚子沖で台風に遭い、吹き流されたのである。
 威臨丸をのぞく三隻は応急修理をほどこし、清水港を出てゆく。九月十八日、新政府軍艦富士山、乾坤、摂津の三艦が清水港にあらわれ、港内に残留していた威臨丸を砲撃した。
 官軍は威臨丸にいた春山弁三副艦長以下十数人の脱走兵を殺し、屍骸を海に投棄して、艦体を曳航して去った。
 次郎長は波間にただよう旧幕臣七人の腐欄屍体を、後難をおそれ誰も引きとらないのを見て、舟を出して引きあげ、巴川口の向島へ埋葬した。
 その噂は清水で大評判となり、東京の太政官にまで聞えた。太政官から駿府徳川藩へ次郎長の行状を調べ、次第によっては首をうって差しだせと下命があった。
 このとき藩若年寄格、山岡鉄舟が、次郎長の詮議に出向いた。次郎長は平然と応対した。
「あっしが清水の山本長五郎でござんす」
「府中藩山岡鉄太郎、そのほうを召捕りに参った」
「なるほど、お召捕りでござんすかい。あっしゃ別にお縄を頂戴するようなまねはしておりやせんが」
 太政官からは次郎長が波間にただよう旧幕軍兵士の遺体を埋葬した際、官軍の仕打ちを悪しぎまに罵ったことを答めてきたのである。
「手前たちの殺した人間の屍骸を、そのまま海へ放りだしてゆくとは、官軍もひどいもんだといいやしたがね。それだけで俺っちを召捕るような無道な役人にや、ついていけねえ。そのつもりでかかってきやがれ」
 次郎長は懐から手拭いをとりだし鉢巻きをして、狭から細引をとりだし、たすきにかけ、刀を持って立ちあがった。山岡はその勇気を褒め、あえて召捕らず、その後肝胆あい照らす仲となったという。
 次郎長は明治二十六年六月十二日、清水で没した。
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■天下で実現しようとした3つの目的

<本文から>
 浪士たちが池田屋から避難する道は、四方にひらかれていた。だが彼らは逃げることなく新選組と斬りあい、勇を殺そうとほやりたって立ちむかってきたのである。
 土方らが小川亭の探索に手間どって、池田屋へ駆けつけてくるあいだ、どれほどの時間が経過したのかはさだかではないが、短かくても十五、六分から二十分は勇らが寡勢で敵と渡りあったようである。刀をふるっての戦いは三分斬りあっても息もつけない状態になる。
 勇たちは目方が四キログラムから六キログラムの鎖惟子をつけていた。
 浪士たちは単衣に袴の軽装である。彼らが身軽く動き、あらゆる方角から斬りつけてくるのに、勇と沖田、永倉、藤堂は渾身の力をふるって対抗した。
 鎖惟子をつけても、首と両手首は無防備である。力まかせに突かれると鎖は切れる。殴りつけられれば骨が折れる。
 十七歳の近藤周平は、勇の養子になっただけに剣の技傭は抜群といわれていたが、肉弾あい持つ乱闘に恐れをなし、戸外に避難していた。
 近藤と三人の隊士は狭い屋内で、それぞれ四、五人の敵と渡りあった。志士の人数ほどれはどであるか見当もつかない闇中である。
 人間は必死の場に立てば闇中でも眼が見え、敵味方がはっきりと見分けられるという。
 四人で数十人の敵と斬りあえたのは、障害物が多く狭隆な屋内であったのと、鎖惟子で上体を保護していたのが利点となったためと思われるが、尋常の技備と体力の持主ではたちまち斬られたにちがいない。
 土方たちが池田屋に駆けつけてきたとき、沖田は刀の茫子を折り、自らも喀血か、暑気による脳貧血か、打撲傷かの何らかの理由で戦えなくなっていた。
 藤堂平助は鉢金を打ちおとされ、額際にふかく一太刀斬りこまれて倒れた。
 藤堂をかばい奮闘した永倉は、左手の親指のつけねに斬りこまれ、刀を折って辛うじてわが身を守るのみとなった。
 永倉新八が、全滅の危機に瀕したそのときの体験を、後年に述懐している。
「近藤先生の斬りあっているところは見えなかったが、ときどき物凄い気合いが聞えた。えっ、おうっという甲高い声が、姿は見えないがわれわれの腹の底へもぴんぴん響いて、百万の味方にもまさった」
 戦闘ののち、勇と永倉、沖田、藤堂の刀はどのような状態になっていたか。
 永倉の刀は播州手柄山氏繁、刃渡り二尺四寸で刃こぼれ無数、茫子が折れていた。
 沖田の刀は加賀金沢在長兵衛藤原清光、刃渡り二尺四寸で、茫子折れ刃こぼれ無数。
 藤堂の刀は上総守兼重、上作であったが物打ち刃こぼれ十一カ所、ハバキ元大刃こぼれ四カ所であった。
 勇の刀には刃こぼれひとつなかったといわれる。
 彼は敵と刀を打ちあわすことなく戦える力を終始保っていたのである。敵の打ちこんでくる刀をわが刀身で受け、弾けば、当然刃こぼれが生じる。
 刀の刃は人体を斬るとき、皮膚から筋肉、骨格へと硬度のことなる部分へ通過するうち、わずかな抵抗のちがいで動揺し、骨にあたるとき〇・五ミリほどの刃こぼれができやすい。
 刃を動揺させないためには、習練によって練りあげた手首と足腰の強靭さがなければならない。
 私は現代剣道界の権威といわれる達人に、勇の愛刀虎徹が池田屋の乱闘に際して刃こぼれひとつなかったというが、そのようなことができるのであろうかとお尋ねしたことがある。返答はつぎの通りであった。
「暗がりで大勢にかかられては、永倉たちのように刃がぼろぼろになるのがふつうではないでしょうか。考えられるのは、左右の切り落し技を使うことですが、実戦は不可能でしょう」.
 切り落しとは敵の打ちこむ刀を受けることなく、打ちあわずに体を左右にひらいて避けつつ斬る技である。
 この池田屋の戦いぶりを見ると、近藤勇は新選組の荒武者どもを率いてゆく器量のある、傑出した剣の遣い手であったことが分る。
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