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<本文から> 信長は現世の神として、万民がよろこび暮らせる社会をつくるために、城割りと関所の撤廃をする。
戦国期の大名領国は、地侍たちの領地が葡萄の実のように集まり、ひとつの房をかたちづくっていた。
地侍の領地は、大名からもらいうけたものではなく、彼ら自身の所有するものであった。小さくとも在地領主である。
地侍が大名の家来になるのは、合戦に際し手兵を従軍させるかわりに、領地を保護してもらう契約にもとづいていた。
彼らはわが領地に土着し、関所を設けている。関所は地侍が通行人から関銭をとるほかに、領地を完全に支配収奪するため、外部との交流をおさえる重要な仕組みであった。
信長は一国に一城のみを許し、関所を撤去して、楽市、楽座の制を導入すれば、地侍の収奪の地盤は崩れ、物資の大量供給、大量消費の道がひらけると見た。
当時の諸国関所がいかに多かったかを示す一例として、桑名と日永のあいだの四里(十六キロメートル)の海道に、六十余りの関所があったことがあげられる。
関所を撤去し、城砦を破壊すれば地侍の堅固な収奪の地盤は崩壊する。
信長は、領地百姓の完全支配の道を失った地侍たちに、直臣として知行をやる。直臣としての彼らは、もはや在地領主ではなく、信長から知行をもらい、城下に居住して織田軍団の構成員となった。
彼らのかつての領地は村役人が治め、奴隷として何らの人権をも認められていなかった下人たちも、あらたに開墾し、平百姓として独立する。
信長は、支配する領国がふえるにつれ、全国統一の政治をおこなうため、諸国大名の所領の作高をしらべ、知行安堵状というものを彼らに与えた。
安堵状には、大名の所領の郷村名、穀物収穫高の明細が書きこまれている。大名は安堵状により、領地であった国都を知行することができたが、それらの土地は信長から与えられたもので、自らの所有をはなれていた。
これは、地侍から領地をとりあげるかわりに知行を与えたのとおなじ方法で、土地の所有権を奪ったもので、武田、上杉、毛利などの若大名が、考えもしなかったあたらしい創意であった。
この知行制度は、戦国大名の領国を消滅させ、全国を統一するための前提条件で、このアイデアがあったため、信長のあとにつづく秀吉、家康は、純粋封建制度の確立ができたのである。
信長は楽市、楽座の制を築いた。いかなる商品を製造し、あきなうときも、その商品の座(組合)に加入して座鏡(営業税)を払わねばならなかった制度を、楽市とさだめた城下町にかぎって廃止した。楽市で商売をする商人には、他所で借りた銭や米を棒引きにするとの好条件を与え、交易をさかんにする。
彼はまた撰銭令を発布して、良貨と悪貨の交換率をさだめ、それまで貨幣の代わりに米によって商品売買の決済をしていた商慣習を禁止した。
これにより、嵩のたかい米による決済で渋滞していた商品流通が循環よく運ばれるようになった。 |
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