津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          男の流儀

■信長のアイデアを秀吉・家康が真似た

<本文から>
 信長は現世の神として、万民がよろこび暮らせる社会をつくるために、城割りと関所の撤廃をする。
 戦国期の大名領国は、地侍たちの領地が葡萄の実のように集まり、ひとつの房をかたちづくっていた。
 地侍の領地は、大名からもらいうけたものではなく、彼ら自身の所有するものであった。小さくとも在地領主である。
 地侍が大名の家来になるのは、合戦に際し手兵を従軍させるかわりに、領地を保護してもらう契約にもとづいていた。
 彼らはわが領地に土着し、関所を設けている。関所は地侍が通行人から関銭をとるほかに、領地を完全に支配収奪するため、外部との交流をおさえる重要な仕組みであった。
 信長は一国に一城のみを許し、関所を撤去して、楽市、楽座の制を導入すれば、地侍の収奪の地盤は崩れ、物資の大量供給、大量消費の道がひらけると見た。
 当時の諸国関所がいかに多かったかを示す一例として、桑名と日永のあいだの四里(十六キロメートル)の海道に、六十余りの関所があったことがあげられる。
 関所を撤去し、城砦を破壊すれば地侍の堅固な収奪の地盤は崩壊する。
 信長は、領地百姓の完全支配の道を失った地侍たちに、直臣として知行をやる。直臣としての彼らは、もはや在地領主ではなく、信長から知行をもらい、城下に居住して織田軍団の構成員となった。
 彼らのかつての領地は村役人が治め、奴隷として何らの人権をも認められていなかった下人たちも、あらたに開墾し、平百姓として独立する。
 信長は、支配する領国がふえるにつれ、全国統一の政治をおこなうため、諸国大名の所領の作高をしらべ、知行安堵状というものを彼らに与えた。
 安堵状には、大名の所領の郷村名、穀物収穫高の明細が書きこまれている。大名は安堵状により、領地であった国都を知行することができたが、それらの土地は信長から与えられたもので、自らの所有をはなれていた。
 これは、地侍から領地をとりあげるかわりに知行を与えたのとおなじ方法で、土地の所有権を奪ったもので、武田、上杉、毛利などの若大名が、考えもしなかったあたらしい創意であった。
 この知行制度は、戦国大名の領国を消滅させ、全国を統一するための前提条件で、このアイデアがあったため、信長のあとにつづく秀吉、家康は、純粋封建制度の確立ができたのである。
 信長は楽市、楽座の制を築いた。いかなる商品を製造し、あきなうときも、その商品の座(組合)に加入して座鏡(営業税)を払わねばならなかった制度を、楽市とさだめた城下町にかぎって廃止した。楽市で商売をする商人には、他所で借りた銭や米を棒引きにするとの好条件を与え、交易をさかんにする。
 彼はまた撰銭令を発布して、良貨と悪貨の交換率をさだめ、それまで貨幣の代わりに米によって商品売買の決済をしていた商慣習を禁止した。
 これにより、嵩のたかい米による決済で渋滞していた商品流通が循環よく運ばれるようになった。
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■明智光秀の謀叛の理由

<本文から>
 ほかにつぎのような挿話もある。信長は甲州征伐のとき、諏訪の法聾寺に泊まった。そのとき光秀がいった。「かようなめでたいことはない。われらも年ごろ骨折ったかいがあって、諏訪郡のうちはみな上さまの兵だ」
 信長はそれを聞き、「お前はどこで骨を折って功をたてたか」といいつつ、光秀の頑を欄干に押しつけ、なぐりつけたので恨まれたというのである。
 このような雑説は、ほかにいくつもあるが、すべてのちにつくられたことだと史家は推測している。
 信長と光秀の関係は、天正十年までは、さほど悪くはない。というよりも、光秀は柴田勝家につぐ重臣として用いられており、天正八年夏、信長は家老佐久間信盛を追放したとき、光秀を功臣の筆頭にあげている。
 光秀も天正九年六月に、自分の軍勢に発した軍律の末尾に、「自分は水底の石ころのような存在であったが、信長公にひろいあげられ、これまでに出世した。この御恩は忘れられない」と記している。
 光秀は、こののち一年間のあいだに、信長を殺そうとまで思いつめることになる。
 その最大の理由は、秀吉に追いあげられ追いぬかれようとしたことにあった。
 秀吉は中国攻めで多大の功績をあげていた。光秀は近畿地区の長官になったが、もはや発展ののぞみはなく、運命は停滞していた。
 このとき、四国征伐の作戦がはじまった。光秀は、四国を席巻していた長宗我部元親とは、以前から交渉を保っている。四国は光秀の担当部門といえる。だから四国征伐の命は自分に下ると予想していた。
 だが、四国攻めの大将は信長の息子三七(信孝)で、副将は丹波長秀にきまった。光秀は中国攻めの秀吉の将軍を命じられたのみである。そのうえ三七(信孝)は四国出陣に際し、丹後、丹波の地侍を動員する命令を発した。光秀は所領丹波をとりあげられるのである。
 彼は信長の急変した扱いを不満とし、思いきった賭けを挑んだ。そのうらにはおそらく秀吉のはたらきがある。
 かつて朝山日乗は、信長を熱したいちじくと罵り、かえって斬られた。熱したいちじくであれば自然に地に落ちるが、光秀は声威なおさかんな信長を殺したため、その行動に大義名分が得られず「主殺し」として、破滅した。
 彼の決断は、追いつめられた立場でのノイロ−ゼに類するものであったわけである。
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■宮本武蔵の「さんかいのかわり」の戦法

<本文から>
 二度の試合に武蔵は木太刀を用いたが、相手は真剣である。伝七郎は怪力の武蔵に頭蓋を打ち割られた。
 武蔵は吉岡一門からふたたび果し状を受けた。京都をはなれる支度をととのえていた武蔵は、やむなく応じた。
 三度めの試合の相手は清十郎の嫡男の又七郎、十七歳の少年であった。
 試合の場は洛外一乗寺村下り松である。
 吉岡一門は試合に名をかりて、武蔵を多数でとりかこみ、殺す計画をたてていた。数百人が加勢し、弓、鉄砲もそろえている。
 武蔵はこのとき、「さんかいのかわり」という戦法を用いた。
「さんかい」とは三回という意と、山海という意をふくんでいる。
 おなじ相手におなじ手段を三回くりかえしてはならない。また相手が山と出てくれば海、海と出てくれば山と、相手の拍子をはずす変化の応対をしなければならないというのである。
 武蔵は一乗寺村の決闘の場所へは、吉岡一門の者が到着するより、二、三時間もはやく到着し、地形をたしかめ、待ちかまえていた。
 やがて吉岡又七郎が百余人の門弟を連れ、現場に到着する。武蔵はいきなり飛び出して又七郎を漸り、勝利を得たのである。
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■雑賀衆らにみる紀州人が大成しないのは、前途の読みがはやすぎるため

<本文から>
 和歌山県人の気質についての特徴をひとつ挙げよ、といわれると、私はまず、物事の機を的確につかむ明敏の資質をとりあげたい。
 紀州は戦国末期、鉄砲伝来に際して新兵器紹介の主導的役割りを果した、雑賀衆をはじめとする地侍が割拠した土地であった。
 彼らは全国諸大名にさきがけ、鉄砲の使用に習熟し、その武力を天下におそれられた。
 紀州諸惣村の勢力が一本に結集しておれば、他に比を見ない強力な戦国大名が出現し、織田、豊臣にかわり畿内を制覇して、天下統一を果していたかもしれない。
 だが、機を見るにさとい地侍の集団が、たがいに鏑を削りあって出遅れ、ついには本願寺を盛りたて生きのこりの道を見出すべく石山本山にてたてこもるに至った。諸国の精兵をあつめての、織田勢の十二年間にわたる猛攻をたえ抜いた功業もむなしく、敗北に至ったのも、技に溺れての結末であったというべきであろう。
 紀州人が新機軸を把握する迅速な行動はとるのだが、大成するまでに至らないのは、前途の読みがはやすぎるためである。
 江戸時代、江戸にあった産業は、すべて和歌山でおこなわれていた。新商品の開発に先鞭をつける機敏な経営は、紀州商人独持のものであったが、その後の進展はかんばしくなかった。
 ひとりが新商品製造に成功すると、たちまち後続の業者が続出し、販路の競争から価格競争に至って、製品の品質をおとし、粗製濫造となる。
 あげくはせっかくの新商品を大成させることなく、他国に追い越され、追い抜かれることとなった。つまり、紀州人はちいさな舞台での活躍には向いていないということである。
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■徳川吉宗−倹約を奨励しても吝嗇をすすめない(風呂の薪のエピソード)

<本文から>
 三井・鴻池など金貸しからの莫大な借財を返済するため、吉宗は冗費倹約、産業奨励、新田開発などの施策をつぎつぎと打ちだし、三年後には財政をたてなおした。
 彼の治世になって、藩内の士風は一変してきた。彼より先代の藩主たちは、家来たちにとっては雲梯をへだてた高貴の存在で、その容姿を遠く仰ぎ見るのみで、生きた人間の感じさえ抱けなかった。
 主君も家来の身上については興味を抱くことすらなく、役職は聡明、魯鈍の如何にかかわらず、世襲のものとされてきた。
 吉宗は父や兄とはまったく異なった能力をそなえていた。
 彼は己れの耳目になる家来を多数擁していて、縦横無尽といっていいほどに、藩内の下情に通じていた。
 彼は侍臣のへつらいを聞きわけるするどい感覚をそなえていて、上司にさからっても、自ら正道と信ずるところを押し通す家来を重用した。
 これは現代の会社社長には、なしうる芸当ではない。
 いまなら、企業の社員が社長の意思に楯つけば、たちまち僻地へ左遷させられてしまうだろう。
 彼は物事をすべて理性的に判断した。
 倹約を奨励しても吝嗇をすすめることはない。
 吉宗が江戸屋敷の家来たちに、倹約の案をつのったことがあったが、お風呂番より、お湯殿の薪の入用がおびただしいため、その量を減らすべしとの意見が出た。
 吉宗はしばらく考え、自分の考えをのべた。
「風呂に沸かして冷まし、また沸かすことをくりかえすため、薪が多く入用する。それよりも、朝より暮れまで風呂の湯を沸かしづめにしておけば、追い焚きの薪はさほどいらぬものだ」
 家来たちは吉宗の言葉に、きびしいお締りのうちにも、落ちこぼれはあるものとよろこんだが、吉宗の士異意は体の養生にあった。
 入浴は体を清潔にし、疲労を回復する。いかに節倹を旨としても、必要なものは消費すべきであると、彼は考えていた。
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■孔明は潔癖にすぎ、多くの人材を育てることができなかった

<本文から>
「山上に布陣はつつしめ」
 だが、馬謖は孔明の指示を無視し、河辺を棄て山上に全軍をあげた。
 街亭に進出した張?は、馬讃の陣が山上にあったので、包囲して兵糧攻めにした。馬謖はなすすべもなく、ただ一度の遭遇戦をかわしただけで退却した。
 斜谷道をすすんだ趙雲らも魏将曹真に迎撃され、退却した。孔明はやむをえず全軍に撤退を命じた。
 大兵力による短期決戦を意図した、孔明の最初の北伐は、食糧不足によっても達成不可能となっていた。
 孔明が陽動作戦をおこない、本隊を遠く迂回させた戦略について、蜀軍部内では反撥の声が高かった。
 魏延という蜀軍の猛将は、孔明を「怯」と見た。
 彼は漢中で作戦協議の席で、自分に精兵五千、輜重五千を与えてくれれば、秦嶺沿いに東進し、十日以内に長安を直撃すると主張した。
 魏が反撃体制をととのえるのに二十日はかかるから、そのあいだに孔明が本隊を率い、斜谷道を進出すれば、関中の平定はたやすいというのである。
 だが、孔明は許さなかった。
 孔明は元来は法の忠実な運用者、「循吏」であり、武将ではない。
 彼は武将の理想の姿として、将器について、つぎのように論じている。
「相手のわるいところをめざとく見つけ、そこから起こる禍を察知する能力があるので、部下が服従するのは、十夫の将。早朝から深夜まではたらき、指示が適切であるのは百夫の将。勇敢で戦うのが巧みなのは千夫の将。気性がはげしく、兵の仕事や生活のつらさを知っているのは万夫の将。賢人や才幹のある者を抜擢し、至誠があり、寛大で、政治をよく知っているのは十万の将。人々への愛情が充分で、信義があり、隣国も服し、世界のあらゆることを知っており、世界をわが家のように見なすことのできる者は、天下を率いる将である」
 孔明にとって、将の理想のすがたは、武将というよりも政治家であったわけである。
 彼には後進を養成する才が不足していたようである。理想とするところがあまりに高いので、部下の能力不足、いくらかの失敗をも許せなかった。
 また、孔明は清濁あわせ呑む雅量も乏しかった。有能な者には不徳がともない、勇猛なる者は、野蛮に傾きがちである。
 孔明は潔癖にすぎ、多くの人材を育てることができなかった。
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