津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          おおとりは空に

■利休の二百五十年追善茶湯

<本文から>
 また二十六日には稽古の間で、茶通箱、唐物点、天目、盆点の相伝事が、桑台子に夕顔皆具をもちいて手向けられた。
 さらに二十七日には、例年の利休忌の飾りで追悼の七事式が催され、花月、且座、廻り花、一二三、廻り炭、茶カブキ、花寄せ、員茶などがおこなわれた。玄々斎は多
くの門人たちにまじって、みずからも、花月、且座、一二三の座に列した。
 この日はよほど時間がかかったらしく、昼食と夕食、さらに点心が、参詣の門人にふるまわれた。
 こうして、天保十年九月八日に近衛忠照を招いてはじまった、玄々斎による利休風土二百五十年追善茶湯は、天保十一年二月二十八日の利休忌をもって、その幕をとじた。
 この間、七十九回の茶事が催されたが、一日に正午、夜咄と二回おこなわれたこともあり、約半年のあいだに、四百人以上の招客が兜門をくぐつたことになる。
 一方、さきの不審庵と同様、官休庵においても、天保十年十月一日から法要茶事がおこなわれた。十三歳の以心斎宗守を、木津宗詮が後見しての初会には、泰勝院真峰和尚、般若寺月舟和尚が客となった。
 官休庵では、五十年ごとの利休遠忌には、讃岐の高松侯より、長次郎の赤茶碗「木守」を借用するのをならわしとしているが、このおりにも、
 「高松侯より拝借
  木守御茶碗 黄烏紗しき併置」
 との記録がのこされている。
 また、利休の弟弟弟子である藪内剣仲を家祖とする薮内家でも、名席燕庵に大燈国師の四行物の尺牘を掛けて利休追善の茶事をおこなっている。
 こうした他家の追善茶事の客となるのも、玄々斎にとっては、大きな役目の一つであった。
 追善茶事が終ったあと、玄々斎は心中にいままでになかった強い集中力が生じているのを覚えた。脳中が冴えわたっていて、それまでは点前のときに片雪が影を落すようによぎったためらいや迷いが」消えていた。  
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■玄々斎の新しい手向け

<本文から>
 玄々斎は嘉永六年(一八五三)切晩春の朝、井伊家赤坂中屋敷へ出向いた。直弼は玄々斎を一露亭に招き、たずねた。
 「今日庵殿には、日頃工夫なされし仙遊之式というものをさらに工夫され、茶禅一味の本意をあらわしてござると聞き及んでおる。利休忌、宗旦忌の手向けにもおこなうとのことだがいかようなる式でござろうか」
 「これまでよりおこなわれておりまする出産之式を、いささか趣きを変えたものにござりまする」
 玄々斎は説明をはじめた。
 「客は三人にて、上客は香、二客は次香、三客は炭、東は濃茶、半東は止花をつとめまする。客は申しあわせしだい、いずれになるとも苦しゅうござりませぬ。主客五人とも礼服、足袋を用いまする」
 次の間の待合は、且座の通りに坐る。上の間には床に花入を用意し、掛物もあってもよい。
 棚は台子、三重棚、更好棚、旅箪笥などがよく、香炉をそえる。水屋に置く品々は、つぎの通りである。
一、花台 且座の通りである。ただし花は七種から九種。
二、炭斗 法の通りのものであるが、香合はない。
 三、炮烙
 四、水次
 五、香合 且座の通りである。銀葉を二枚入れる。
 六、茶碗
 七、建水 柄杓 蓋置
 八、菓子器盆上に折据を乗せる。然るべき品。
 九、水次
 玄々斎はいう。
「六畳の待合に列座いたせし三客を、迎えつけることはいたしませぬ。迎えつけなく、三客と東が座につきますれば、半東が花台を出し床に置き、座につき、東より上座に一礼をいたしまする」
玄々斎のいうところにいちいちうなずいていた直弼がいう。 
 「つぎの手順はいかがにや」
 「花を活けるは、廻り花のごとくいたしまする。次客より半東まで廻り、半東が活け仕舞ったとき、上客が水を乞い、半東が水をつぎ、花台を引くことは廻り花の通りにござりまする。つづいて炭斗を持ちだし、炭所望の通り釜を揚げ定座に、鎧をはずし羽帯で風炉をはき、羽を定座に置きたるうえ、勝手に入って炮烙を持ちだし、仮りの
座に置き、勝手口に控えまする」
 半東が風炉の前に座ると三客が一礼し、半東も一礼を返す。上客から順に風炉を拝見、一礼する。東と半東は、炭所望をした三客に会釈をしない。そのあとの手続きは、濃茶をたて順服するまで、且座の通りである。
 つづいて東は半東が茶碗を上客へ拝見に持ちだすと同時に点前をする。東は釜に水一杓を汲み入れたのち、客のほうへひと膝ひらき、上客に一礼する。
 この一礼は、あとの薄茶を花月にするとの知らせである。上客は礼をうけると懐から烏紗をとりだし、腰につけ、二客、三客もそれにならい、茶碗を点前へ戻す。席に帰る東が茶碗を取って総礼をする。
 「この礼がすむと、上客、二客、三客は同時に座を立ち、花月座につきまする。東は茶碗をすすいで前に置き、すぐに立って図の通り運び、主客のつぎに坐りまする」
 玄々斎は懐紙に略図を書いて見せた。
「半東は立って勝手に入り、折据をのせた菓子器を持って花月の通りに出て上客の前に置き、また図の通りに運び、仮座に就き、上客に一礼いたしまする。花月座では半東が亭主の心得をいたし、上客は次礼をして札と菓子をつづいて取次へまわしまする。菓子は取りまわし、食するは心任せにてよく、二客、三客、東まで同断にて、半東が札をとり前に置き、折据を左脇に仮置きして菓子をとりしのちに、一統が札をあけ、花の札を名乗りまする」
 玄々斎は上客に初花があたった次第、三服点、最後の座替りに至るまで、略図を書き詳しく説明した。
 直弼は玄々斎から仙遊之式の次第を記した書きつけを与えられ、よろこんで礼を述べた。
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■茶道が大衆化のために広間の茶の体系をさだめた

<本文から>
 天保十年(一八三九)、利休二百五十回忌追善茶会に先立ち、玄々斎は今日魔の大増築をおこなった。
 八畳に六畳の次の間がつづく「咄々斎」、十二畳敷の「抛筌斎」などの広間が建てられたのは、時勢の変化にそなえた策であった。「又隠」「今日庵」などの小間による侘び茶をもっぱらとしてきた方針が、しだいに陳腐になってゆく趨勢を、玄々斎はいちはやく察していた。
 玄々斎は認得斎以来の出仕先である、松山久松家、加窒別田家のほかに、田安家、尾張徳川家、近衛家、九条家にあらたに出仕するようになった。
 そのような発展を見せたのは、広間の侘び茶をとりいれたためである。幕末になると、武家茶道、禁中、公家の茶道が混然として、あらたな普遍の形式を求めるようになっていた。
 千家の佗び茶は、本来二畳台目の「不審庵」、一畳台目の「今日庵」、それに半板をいれた「官休庵」などの小間の茶湯である。
 以心伝心、不立文字、つまり師匠の占前を見てその真髄を察する稽古により、道統を伝えてきた。
 だが、そのような秘伝相承をおもんじていては、多数の門人を教えることはできない。
 茶道人口は、しだいに増大してくる。
 このような情勢に対応するため、広間においておこなう茶湯の方式が考案されねばならなくなった。
 千家には、利休の残月亭、宗旦の寒要事のように、広間の茶の伝統があった。それを小間の茶とともに両立させようとはかる動きは、今日庵八代の一燈宗室の頃からおこった。
 江戸中期以降、茶書の版行がおびただしくふえ、茶道人口が急激にふえてきた。
 一燈は不審魔の如心斎と相談した。
 「これまでのような、小間の侘び茶では門人の数が限られる。なんとしても広間の茶をひろめねばならぬ」
 茶道が大衆化すると、本義が理解されないまま、遊芸のように軽々しくなってくる。茶道の堕落を防ぐためにも、広間の茶の体系をさだめる必要がある。
 一燈と如心斎は、大徳寺玉林院に数年間参禅して、延享三年(一七四六)に広間の茶法「七事式」を創設した。
 花月、且座、茶かぶき、廻り炭、廻り花、一二三、員茶の茶法が定められた。
 当時の茶人たちは、七事式をたやすく受けいれなかった。
「昔からこんな稽古をしないでもよかったが、いまになって、なぜせねばならないのか」
「利休居士以来の、古風を取り失ってもよいというのか」
 如心斎宗左の門人川上不白は、寛延三年(一七五〇)に教学の伝授をうけた。彼は七事式の創案に協力したが、その後江戸に出て、大名家、藩士、町人に多くの支持者を得た。
 三千豪が大々名に出仕して、安定した生活を送りながら、外部への発展がない状況と対照する動きをあらわしたのは、広間の茶をひろめたためであった。
 如心斎、一燈、不白の変革の効果は、あまりはなばなしくはなかったが、玄々斎が一挙に広間の茶によって、ブームともいうべき発展を招いた。
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■玄々斎は利休につぐといわれるほどのめざましい業績を茶道界に残す

<本文から>
 玄々斎は、直弼のきびしく寂莫とした生涯が、彼の茶湯の解釈にも通じていると思った。
 直弼は、禅茶の境地をひたすら追い求めた。彼は『南方録』などおびただしい茶書を熟読し、師の片桐宗猿に「茶湯尋書」を送って、疑義をただしてゆく。
 彼の茶湯への情熱は、利休に通じていた。
 −儂は掃部頭殿とは違う。今日庵を浮世の波に沈ませぬよう、さまざま工夫をせねばならなかった。しかし、掃部頭殿のような、一途な禅茶の道も歩いてみたかったと思わぬでもない。いや、儂はもっと世俗のことに気を遣うゆえ、あのようには参るまい。いまの世に茶湯を流行させるのが、儂の務めだ−
 玄々斎は、乳母の膝で眠ってしまった五歳になる駒吉の頭を撫でる。駒吉の体には、玄々斎の血が伝わっている。
−この孫が、儂にかわってはたらいてくれる。今日庵はいつまでも栄えるだろう−
 玄々斎のてのひらに、駒吉の温みが伝わってきた。
 彼は先祖の宗旦の言葉を思いだす。
 「茶室は雨露の洩らざるほど、食事は飢を凌ぐほど、火は湯のよく沸くほど、茶はよく湯相に点じ、脾胃を調和すを第一とし」
 玄々斎は、人生の苦味のゆきとどいた言葉の裏に、宗旦の知恵を感じとる。
 人はどこからかきて、どこかへ過ぎ去ってゆく。自由な身動きもできず、望むほどの成果も得られないと気があせるまま、消え去ってゆく者がおおかたである。
 幸福の女神が客間に坐っているときは、疫病神が門口にたたずんでいるという諺があるが、儂はよほど女神にかわいがられたほうだと、玄々斎はかすかな笑みを浮かべた。
 玄々斎は千家代々のうち、利休につぐといわれるほどのめざましい業績を茶道界に残し、明治十年七月十一日に長逝した。
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