津本陽著書
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          大谷光瑞の生涯

■19歳で九条家の籌子と結婚

<本文から>
 本願寺も宗門をあげて、国家に協力した。
 十九歳の新門主光瑞は、父光尊が九州巡錫中に病を得たのちは、父にかわりめざましい活動をはじめた。
 彼は明治二十七年八月に、滋賀県大津分営の将兵五百余人、大阪師団将兵二千四百余人、伏見分営三百余人の帰敬式をおこなった。
 ついで九月に熊本へおもむき、六、七、八の三日間、議事堂で毎日三千五百人の将兵帰敬式を実施する。
 さらに福岡、佐賀、長崎、下関において、それぞれ数千人の陸海軍人の帰敬式にのぞんだ。光瑞は疲労しても、態度にあらわさなかった。蘇峰は光瑞を高鴇価していた。
 大谷光瑞は、明治二十五年九月二十九日、九条通孝公爵第三女籌子を将来の妻として本願寺に迎えた。
 光瑞十九歳、華子十一歳であった。
 明如門主と道草公爵は義理の兄弟であり、維新当時から親密な交流をつづけていた。媒酌をしたのは有栖川宮俄仁親王である。
 籌子は輿入れののち、西本願寺において宗教についての教育を受けた。籌子の妹節子は、のちに貞明皇后となられた人である。
 光瑞と籌子が婚儀をあげたのは、明治三十左(一八九八)一月三十日であった。
 式は明如門主の意向により、華美繁縛の礼をおこなわず、有職の古儀に従いおこなわれた。
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■中部インドの探査

<本文から>  
 光瑞は遠い歴史のうねりを、仏蹟の残骸のうえに見た。
 光瑞はシャバッガリー探検ののち、分散行動をとることにした。
 井上弘円はネパールヘ、本多恵隆はカルカッタへ向う。
 光瑞は日野、本多、井上、升巴、上原とともにベナレスをめざした。
 光瑞一行がベナレス市に到着したのは、十二月十三日の午後であった。
 ホテル・ド・パリに旅装を解き、ただちに馬車で東北数キロメートルの鹿野苑におもむく。
 釈尊ゆかりの霊地をしばらく進むと、行手の疎林のうえに巨大な石塔が見えた。
 旧時には大建築があったと思われる、礎石、石柱の残骸がうずたかいなかに大円塔は聳えていた。
 レッド・サンドストーンを積みかさねた塔は、周囲百三十数メートル、高さ二十メートル、地上から十メートルの部分には、所々に石仏を静めこみ、その周囲に花紋、電影などさまざまの彫刻を施している。
「釈尊の故事をさぐる貴重な初転法輪塔であるのに、この荒れようは痛ましいばかりやなあ。いたるところ剥落しているし、塔のうえは華やら木が茂っているやないか。このまま放置していたら、木の根がひろがってきて、塔は崩れかねないよ」
 光瑞は釈迦が生涯の大半を過ごした中部インドの探査を、かねてから望んでいた。
 世界の宗教学者が研究調査をかさねて、なお所在の確認されていない仏蹟を、経文、史料から推定してつきとめ、世にあきらかにしなければならないと、考えていたのである。
 日本の高僧たちが、生涯をかけても果せなかった仏蹟探査を敢行し、大きな成果をあげたいと光瑞の夢はふくらむ。
 本願寺からも、明治初年に明如上人の命により、島地黙雷、北島道龍がインドに入り、仏蹟巡拝をおこなっていた。
 インドでは民族のおおかたがインド教徒で、釈迦の存在を知らなかった。
 イギリスの植民政策によって民族の文化は衰退し、仏教の研究などはまったく無視されている。
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■日露開戦に莫大な協力

<本文から>
 明治三十七年二月五日夜、近衛師団、仙台第二師団、小倉第十二師団で構成する第一軍に動員令が下った。
 第一軍は輸送船団によって仁川南方に運ばれ、旅順港攻撃にむかった連合艦隊は、八日夜、駆逐艦隊によって水雷攻撃をおこない、港外にあった新鋭戦艦ツエザレヴィツチ、レトウィザソと一等巡洋艦を大破させた。
 日露開戦となれば、従軍布教とともに戦死者葬儀、追弔会、慰問品調達の支度をすすめなければならない。
 いずれも戦争にそなえての活動の拠点を確保する任を帯びている。戦線に特派される宗教家は戦争にほ協力をためらうものであるが、光瑞は違った。
 ヨーロッパ列強諸国での、国教の積極的な活動を詳しく調査していたからである。
 光瑞は全山こぞって国家のためにはたらく態勢をとるべく、門末信徒に指示した。
 「国敗れて、何の本願寺かある」
 光瑞の弟尊由連枝は呉の広島師団へ、尊重連枝は名古屋師団へ派遣され、光瑞の名代として軍隊慰問、帰敬式に活腰椎した。
 二月十日に宣戦布告がされてのち、光瑞は国内をかけめぐり、傷病軍人の慰問、戦死者の法要を執行する。
 光瑞は戦費調達にも協力を惜しまず、五百万円という巨額の国債募集に応じた。
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■父の逝去

<本文から>
 御葬儀の当日、余は鴻の間正門前に仔立して御輿の出づるのをいまや遅しと待っていた。御輿は大玄関の広庭に、純白の綾錦を幕としてそのうちに据えられてある。
 時到って陸幕左右にサラリとひらけば、霊棺を安置せる御輿が、シーという声もろともに動きはじめた。
 右側の付添いは足利、左側が渡辺、柱本の諸氏で、いずれも裏方のインド欧州行きに従った人々である。
 余は御輿とこれらの人々を目賭するや、たちまち感慨無量の念湧き、もはや御輿を拝み見ることもできず、走って門外に出でて人なき所でハンカチーフを滞らした。
 人は朝に生れて夕べに死する露の命とはかねて知るものの、裏方籌子のごときはまだ花も盛り、ようやく三十に達せられたばかりであるに、俄然吹きおこる一陣の風に誘われてついに散った。
 思いだせば御輿の出た鴻の間の大玄関は、昨年新法主が御結婚披露の際、裏方はめずらしくも大丸暫にわが大礼服を召されて、幾百の、賓客を迎えられたところである。
 このとき余もまたその一人に加わり、裏方に導かれて能狂言の観覧席に入った。
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■百万人参詣をやり遂げる

<本文から>
 彼らは光瑞に案内され、御影堂の内外を埋め称名念仏の声を波音のようにうねらせている門徒の大群を見る。
 桂首相は感嘆した。
「聞けば門未参詣者ほ百万に達するということだが、これだけの人々が親鸞上人を慕ってあつまるというのは、たいしたものだ。世間の人は利をもって誘わねば容易に動かないものだが、信仰の力はまことに偉大だ」
 参詣者は朝鮮、満州、台湾、ハワイからもきた。
 未曾有の盛況をみせる団体参詣に対し、大挙伝道がおこなわれた。
 布教便による伝道七総班のはかに、仏教大学生二班が加わって、御堂架け出し、阿弥陀堂で伝道をおこなう。
 法義示談所は総会所、淳風会館と光瀬寺ほか四力寺にひらかれた。
 学生班はテント伝道、慰問伝道、路傍伝道にも活躍した。
 テントは、本山前広場、本廟前、三十三間堂北などに設置され、慰問伝道は団体参詣者の宿舎を慰問しておこなう。
 参詣者への接待は、仏教婦人会連合本部、京都婦人慈善教会が中心となり、接待員約五百人が活動した。一般参詣者のうち希望者には虎の間でお斎の接待。飛雲閣で茶菓の接待をする。
 お斎の饗応は毎夕五時問おこない、五百人ずつ五回の入替え一を実施する。
 黒書院、自書院、鴻の間で接待をした二期法要中の来賓は、総数二千五百人にのぼった。
 四月十七日、二期にわたった法要の全日程は、大盛況のうちに終了した。
 法要中の団体参詣者は、第一期五七五、八二四人。第二期四三一、六一六人に達した。
 光瑞は亡き籌子裏方の遺影にむかい、語りかけた。
「百万人参詣はやりとげたよ。だがそれをよろこんでくれる籌子がおらぬのが、残念でならぬ」
 彼は法要全日程を完了した四月十七日、鴻の間でつぎのような書きだしの御満座消息を披露した。
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■財政難に陥る。二楽荘で執務

<本文から>
 大遠忌法要終了後の本末供保財団の基金募集も、不振をつづけていた。法要費にあてる常用部金は予定額百八十万円をほるかに超過し、二百五十万円に達したが、それは百万余人を動員しての法要費にほとんど支出され、財団基金は約三十万円にとどまっている。
 光瑞は大遠忌ののち、忙しい寺務のあいまに二楽荘へおもむき、書斎にいて読書にふけり、庭の手入れ、温室の見廻りに時をすごし疲労を癒した。
 彼は早寝早起きで有名である。光瑞の側近に侍した井上武子は、夏季には四暗か四時半に起床したと語っている。
 「地球は回転しております。金銭の不経済は誰もいうが、時間を失うくらいとりかえしのつかないことはありません」
 と光瑞に叱られたという。
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■五百万円にのぼる負債を整理、五人が京都監獄に収監

<本文から>
 大正元年に、本願寺では五百万円にのぼる負債を整理するため、有価証券、地所を処分したうえ、大谷家の骨董品の売却をしていた。
 だがその後も負債は増加するばかりであった。本山幹部らは協議して、教団付属の慈善会財団、本末共保財産の基金をもって、負債解消にあて、大谷家の経費をも弁ずることにした。
 彼らはそうすることが背任行為になるとは自覚していない。
 大谷家、本願寺、教団と区別してはいるが、実体は同一で、形式上区別しているに過ぎない。三者の役員ほ共通で、それぞれの資金はすべて本願寺の資金であった。
 財団の資金を大谷家のために使って、横領背任に問われるとは、思いもよらないことである。
 法律にうとい僧侶重役連の行動ほ、捜査すればいくらでも問題とすべき点がでてきた。
 新聞はつぎつぎと本願寺の実状を報道した。
 大正三年二月十八日付の東京朝日はつぎの記事を載せた。
「西本願寺と兜町
 後藤環蘭二味が一昨年中、大阪北浜市場にてさかんに株式の売買をなしたる当時、更に東京兜町に手をのばして東京電灯株に一大思惑買いを試みたるは隠れもなき事実なるが、兜町方面に於ける注文はすべて、多年西本願寺の内事に参与し、のち京都起業重役として同行破綻事件に連座し、このほど処刑されたる前代議土木村省吾の名義にて、明治四十四年十月中、兜町株式仲買吉川金兵衛は一、二軒より時価七十七、八円より八十円がらみの東電株七、八千株を買いつけ(下略)」
 株式売買で後藤らは約二、三十万円の損失を出し、それを慈善財団の積立金で補ったというのである。
 また須磨月見山別荘が日露戦役ののち、二十六万円で宮内省に買いあげられたが、そのうち五万円が使途不明金で、一万円が宮内省要員に謝礼金として贈られたものであると、同新聞は報じた。
 光瑞が二楽荘を出て京都の本山へ帰ったのは、三月十四日であった。
 後藤、大洲ら五人が京都監獄に収監されてから、早くも一カ月が過ぎていた。
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■久我総裁からの達しで、本願寺門主を辞し伯爵も拝辞

<本文から>
「今夜京都へ立つよ」
「え、しばらくご滞在なされるとお伺いいたしましたが」
「いや、その必要はなくなったのや」
「宮内省で、どのようなことをお話しあいなされましたか。久我さまは何とおっしゃいましたか」
聞いても、光瑞は一言も答えない。
無言のまま風呂を浴び、食事をすませて自動車に乗る。
新橋駅に着き、京都へむかう列車に乗っても、ひたすら沈思していた。
光瑞は翌朝京都へ戻ると、さっそく錦華殿に連枝、役員を集めた。一同が席に着くまで沈黙を守っていた光瑞は、淡々と告げた。
「私はこのたび宮内省の意向に従って、本願寺門主を辞することとしました。同時に伯爵も拝辞します。
このため、私の後嗣を皆でえらんでもらいたい」
光瑞は椅子に背をもたせ、視線を伏せた。
「そんな無理な要求を宮内省がしたのですか」
「いまこそ本願寺竺大事が勃発したのです。ご門主がご辞職なされることは、一門が滅亡を遂げる結果となりかねません。ご再考下さい」
「宮内省はほうぼうからの中傷に惑わされているのです。こちらの事情をくわしく釈明して、了解してもらいましょう」
「現下は日本仏教振興のために力をつくしてこられました。そのために本願寺の財産を用いられたとて、何の指弾をうけることがありましょう」
役員たちは昂奪して口々に意見をいう。
光瑞は一同を制した。
「たしかに、久我総裁からのお達しには誤解もあるが、このような事態を招いたのは私である。
財団の基金を流用したといわれても、私にはそれが犯罪行為になるとは思えないが、法律の解釈でほそうなるのや。
いずれにしても、私はこのまま門主の座にとどまるつもりはない。私は久我総裁に引退を約束してきたから、あとへは引けない。このような事情を了承してもらい、後嗣ぎの問題をきめてもらいたい」
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