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<本文から>
だが、算長は腰をあげなかった。
(まだ日数はたっぶりとのこっておる。今日と明日ぐらいは、おうのと名残りを惜しもう。いや、待てよ。連れていってやれないでもないが。夫婦連れの牢人めかしての旅ならば、できぬこともない。土肥での探索はさほどむずかしくもなく、とすれば、別れずともよかろう。したが、江戸へ戻れば蔵人がおる。見つからぬように、町家を借りうけ置いておかねばなるまいが。かようなことを、儂はなすべきではないが、どうせいつ死ぬか知れぬ身ゆえ、命のあるうちには望むがままに生きるのもわるくはない)
やはり算長は、おうのをすてる気になれなかった。
振りすててゆけば、おうのがやけになり、淵川にでも身を投げ、死ぬかもしれない。死なないまでも、悪い男にひっかかり、落ちぶれた境涯に身をおとすことも考えられると、いつもの物思いをくりかえす。
(お前は、おうのがつまらぬ男に抱かれてもよいのか。茶屋の主に身をまかせていた頃のような暮らしに、戻してやってもかまわぬと思えるか)
算長は、壁に背をもたせたまま、かぶりをふる。
彼とおうのとのあいだは、断ちきりがたい絆でつながれているようであった。
算長はうしろ首に曲者の放った矢を射こまれ、淀川のふかみに沈んでいった楠新十郎の最期の姿を、まなうらにうかべた。
(何と申しても、生きておるうちが花というものじゃ) |
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