津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          お庭番吹雪算長・下

■いつ死ぬか知れぬ身ゆえ、おうのを捨てずに望むままに生きることする

<本文から>
  だが、算長は腰をあげなかった。
(まだ日数はたっぶりとのこっておる。今日と明日ぐらいは、おうのと名残りを惜しもう。いや、待てよ。連れていってやれないでもないが。夫婦連れの牢人めかしての旅ならば、できぬこともない。土肥での探索はさほどむずかしくもなく、とすれば、別れずともよかろう。したが、江戸へ戻れば蔵人がおる。見つからぬように、町家を借りうけ置いておかねばなるまいが。かようなことを、儂はなすべきではないが、どうせいつ死ぬか知れぬ身ゆえ、命のあるうちには望むがままに生きるのもわるくはない)
 やはり算長は、おうのをすてる気になれなかった。
 振りすててゆけば、おうのがやけになり、淵川にでも身を投げ、死ぬかもしれない。死なないまでも、悪い男にひっかかり、落ちぶれた境涯に身をおとすことも考えられると、いつもの物思いをくりかえす。
(お前は、おうのがつまらぬ男に抱かれてもよいのか。茶屋の主に身をまかせていた頃のような暮らしに、戻してやってもかまわぬと思えるか)
 算長は、壁に背をもたせたまま、かぶりをふる。
 彼とおうのとのあいだは、断ちきりがたい絆でつながれているようであった。
 算長はうしろ首に曲者の放った矢を射こまれ、淀川のふかみに沈んでいった楠新十郎の最期の姿を、まなうらにうかべた。
(何と申しても、生きておるうちが花というものじゃ)
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■おうのと蔵人の二人とも捨てられない

<本文から>
 算長はおうのと話しあうとき、無邪気ですなおな性質をそのままにあらわす口ぶりを、かわいらしいとは思うが、胸のうちに重くたゆたう感情の余韻をあじわえるときはすくない。
 蔵人とは、ふかくこまやかな思いやりのこもった語らいを交すことができる。彼女は、おうののようにははたらかない。
 すすぎ洗濯などは、小女にさせ、家内も散らかっている。煮焚きもなげやりなふうであったが、話しあっていて飽くことがないのは、豊かな感情とあいまって、物事を正確につかむ眼がそなわっているからだと、算長は思っている。
 また蔵人はおうのとはちがい、算長の達しい体躯に愛着を抱いているのを隠さない。
 算長は二人を、捨てる気はなかった。ただ、彼のおそれているのは、二人がたがいの存在を知ったときである。
 どちらも、狂ったように憤怒を燃えあがらせるにきまっていた。
(儂にとって、あやつどもは獅子じゃ。儂はさしずめ草上にうたた寝をする兎のようなものであろう)
 算艮は、余人が知ると笑わずにいられないような怖れを抱いていた。
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■駿府城での死地を逃れる

<本文から>
 算長は、死を覚悟していたが、おうのだけは助けたい。
 火の海となりつつある城内を心眼であらため、逃げ場を探すうち、米蔵の屋根に立ち、九字を切っている曲者の姿を見つけた。算長はそやつの眼が、まっすぐこちらをみつめているのに突然気づいた。
 −儂の病いは、あやつの呪法でおこったのじゃ。なんでいままで思い及ばなんだか算長は歯ぎしりをした。
 「ノーボアキャシャ、キャラバヤ、オン、アリキャ、マリポリソワカ」
 算長は虚空蔵菩薩の真言をくりかえし唱え、気力をふりしぼって、無形の神剣である気合を放った。
 曲者が米蔵の屋根から転げ落ちる。
 同時に算長の身から悪寒が去った。
 「おうの、ついて参れ。はなれるでないぞ」
 「あんさん、病いは癒ったんか」
 おうのが泣きながら、ついてくる。
 長羽織をひるがえす算長が、はだしで駆けつけた米蔵の壁際に、黒装束、覆面の忍者が放心したように立っていた。
 「おのしが曲者どもの頭であろう。なにゆえ儂に呪法をかけた。儂をなにゆえ知っておる」
 忍者は無言で刀を抜き、左上段にふりかぶった。
 算長も抜きあわせ、下段青眼にとり、そのまま間合を詰めてゆく。ぐずついてはいられない。こやつを早く斬らねばと、算長は誘いの手をしかけ、忍者の胸に突きをいれた。
 敵は左手に身をひらき、片手打ちに算長の頭上へ刀を打ちおろしてきた。算長は左方へ飛び、かさねて突いた。
 忍者の胸に算長の剣尖がふかく入った。忍者はのけぞり倒れつつ、懐からとりだした小石のようなものを地面に投げつける。
 算長はいちはやくおうのを突きとばし身を伏せる。耳をつんざく轟音とともに、爆風が顔をうつ。
 深手を負った忍者が投げたのは、蒼白の閃光をはなつ流星花火であった。
 駿府城はその夜全焼したが、金蔵に納められていた金銀およそ百万両は無事であった。金蔵に迫った曲者の大群は、蔵の外壁を火薬で爆破しかけたが、夜空にあがった流星花火が引きあげの合図であったのか、散り散りに逃げ去った。
 算長が殺した曲者は、覆面をはぎとると中奥に詰める祐筆であった。彼は算長が呪縛をやぶり、立ちちむかってきたのを知って、仲間に危急を知らせたのであった。
 算長は伊賀同心を呼びあつめ、逃げた敵のあとを追う。彼は翌日の日暮れまでに、五十余人の曲者を捕縛した。
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