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<本文から> 算長は九兵衛のいう通り、伊賀組きっての忍術の練達者であった。剣術、槍、薙刀、鉄砲、小具足うちなど、武芸と名のつくものはすべて身につけている。
二代目隠密頭、服部半蔵正成は禄高五十石、家康の姪にあたる松平定勝の娘を室にむかえていたが、我意横暴のふるまいが多く、配下に嫌われていた。
だが、半蔵も算長には丁重な扱いをした。伊賀忍者のうちでは、ならぶ者のない伎倆をそなえた算長にはかるがるしく扱えない威厳がそなわっていた。
算長は三十二歳でいまだ独り身である。家督は二歳年上の兄伴内が継ぎ、伊賀同心として江戸城御広敷番をつとめている。
算長は部屋住みの身でありながら、抜擢されて組頭役をつとめ、百俵の俸禄をうけている。兄伴内は平士で三十俵三人扶持であった。
組頭となったのは、もちろん他に比類ない忍術の伎倆によるものであった。算長の忍術は、伊賀組で習得したものではない。故郷の伊賀国花垣村余野に住んでいた、祖父新斎に伝授されたものであった。
算長の父は永禄年間に伊賀の上忍(伊賀忍者の続率者)服部単三保長に従い、故郷を出国した。
はじめ京都の足利幕府に仕えていた服部半三は、のちに徳川家康に就いた。兄伴内は三河で育ったが、算長は幼時に生母を失い、故郷の祖父のもとへ預けられた。
祖父新斎は伊賀国に名を知られた下忍であった。彼はわが技法を幼い孫に伝えようと苦心した。
忍術は口伝によって教える技法で、不立文字といい、文字ではいいあらわせない秘奥を、父祖代々に伝えてゆくものであった。
新斎はまず算長の脚力を鍛え増強することからはじめた。算長の健脚は、いまも無類のものであった。
日に四十里(百六十キロ)を歩くのは、日常茶飯事にすぎない。忍者が足を鍛えるのは、脚力が貧弱ではいかなる武芸を学んでも、実戦に及んでそれを用いられないためであった。
あらゆる武芸の根本は、足腰にある。現代の剣道家が武装して、四十キロの道程を六時間で踏破した打ち、休むことなく真剣勝負にのぞめばどうなるか。
抜いた刀を振っても疲労のため、平素の技傭はあらわせまい。
当時、侍たちの脚力は、いまでは想像もつかないほど鍛えられていたが、算長の足腰は、新斎によって特殊の鍛練をうけていたのでとりわけて丈夫であった。 |
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