津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          老いは生のさなかにあり

■大欲を持ちつづけた家康は、晩年に成功

<本文から>
 家康は桶狭間に出陣して以来、合戦に勝ったことがなかった。小牧長久手の戦いでは局地戦に勝利を得たが、秀吉の政治力に抗することができず屈服した。
 彼のように、負け戦をつづけながら、戦国乱世を生きぬいてきた者はいない。屈服しつつも、勝者に自分を高く売りこみ、有力な地位を占める。
 負けても損害を軽微にとどめているので、衰亡しない。勝者に従いつつ、わが力を巧みにたくわえ生きのびる。いわば負けるが勝ちという戦法で、難所を乗りこえてきた。
 何事にも辛抱しつつ、不屈の闘志をやしなってきた家康は、ひたすら長命を願い、侍医には各種の救急薬を常備させていた。
 秀吉の唐入り(明国征伐)のときには、肥前名護屋城に全国百三十の大名があつまった。
 家康もー万五千の兵を率い参陣したが、このとき平時であれば生涯顔もあわさなかったであろう全国諸侯に、家康は親しく交際して、前田利家をうわまわる、隠然たる人望も築いた。
 このような処世術の上手下手が、人生を俯瞰してみると、人の運命に意外なほどの大きな影響力をもたらすことに気づくのは、年齢を重ねた私では近頃のことで、気づいてみてもすでに遅きに失している。
「食っていければいい。そのうえの手練手管をつかってまで、出世したくない」と考えている人は、気楽な暮らしかたはできるかもしれないが、社会の勝利者といわれるほどの結実は得られない。「欲せよ、さらば与えられる」である。大欲を持ちつづけた家康は、晩年に成功した。  
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■早雲には先を読む力があった

<本文から>
  早雲には先を読む力があった。晩年とはいえ、なにかを感じとると、それを実行に移す行動力もまだ薄れていない。室町幕府に仕えていた彼は、いまの政治体制に限界を感じていた。力のないものは支配者であっても淘汰される。下克上の幕が上がりつつあることを、時代の空気から本能的にかぎわけていたのである。
 早雲は永正十六年(一五一九年)八十八歳で世を去ったが、そのとき伊豆、相模二国の国主となっていた。子の氏綱、孫氏康と三代にわたり勢力を伸長し、関東三百万石の大領主となる素地をつくりあげたのである。
 延徳年間の六十歳は、現代の八十歳よりもはるかに高齢者と見られていたであろう。
 だが早雲は世間の常識にそむいて烈しい領土拡張の戦いに踏みだしてゆく。彼は、百年以上つづいた戦国時代の幕をひらき、下克上の風雲をまき起こした人物であった。
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■石舟斎の空

<本文から>
 石舟斎のあらわした『没慈味口伝書』には、つぎの言葉がしるされている。
「心はかたちも色もなく、空なり。空唯一を見るとヰ敵の心を見よという義なり」
 空とは敵の心である。心は太刀を握る手にあらわれる。手の動きがあらわれないまえに、心の動きを察すれば、かならず勝つ。しかし空を読むには、わが心のすべての執着を捨てねばならない。捨てれば、空が読めてくる。
「水におよぐに沈まんと思えば浮く。浮かんと思えば沈むなり。そのごとく、勝たんと思えば負く。あたらん(敵の刃にあたる)と思えば勝ち」
 慶長十一年(一六〇六年)四月十九日、七十八歳で世を去った石舟斎の教えは後世のわれわれにも、勇の何たるかを教えている。
 この仕事をどうすべきか。仕損じるとおしまいだ、もう路頭に迷うどころか、家族はみな窮死するかもしれない。そうしたときに腹を決め、一歩足を踏みだせるのが「勇のこと」やあを。成長している企業家は、右に行くか左に行くかという決断を何度も経験しているはずである。私は、勇の何たるかは、人生のあらゆる場面で、社会のあらゆる局面で問われることだと思っている。
 すぐれた人は晩年において、最高の知恵を身につける。男の価値は勇気にあると石舟斎はいいきった。いま所有している地位、財産を守ることに執心するようになれば、男は牡のたてがみを失った臆病者に転落する。
 常に新境地をひらき、障害を乗りこえてゆく勇気をそなえているのが男の値打ちである。
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■彦左衛門は大阪夏の陣の徳川家の恥を隠し通した

<本文から>
 案の定、大坂夏の陣の三日め、十五万の東軍が、真田幸村隊を中心とする五万の西軍と最後の決戦をはじめた、元和元年(一六一五年)五月七日の巳の刻(午前十時)頃から、旗奉行たちは家康の族旗と馬標を見苦しくぶらつかせはじめた。
 茶臼山を左手にまっすぐ旗を押し進めなければならないのに、敵弾が雨のように飛んでくるのを怖れ、先頭の鉄砲隊についてゆけずはるかに遅れた。
 天王寺の南側までゆくと、味方は突然崩れてきた。平野から天王寺にむかう、家康本陣備えの本多正純の兵が、敵が一人もいない後方で、誤っていっせいに銃撃をしたためである。
 その轟音におどろいた東軍諸隊が、味方の謀叛という虚報にうろたえ、われがちに逃げた。
 家康は味方の優勢を過信し、肥満した体に窮屈な甲胃をつけず、駕寵に乗っていたが、眼前に西軍が突入してきたので、二度まで腹を切ろうとした。つきそう金地院崇伝らが腕にとりすがって押しとどめ、三十町(約三・二七キロ)ほどを逃げ、玉造の谷間に隠れた。
 二人の旗奉行は、どこかへ逃げうせ姿は見えず、彦左衛門たち槍奉行は、家康に従う侍たちが逃げ散り、近習の小栗久次ただ一人がひかえているだけであるのを見ていた。
 彦左衛門たちは千本ほどの槍を立てた場所に踏みとどまり、動かなかった。
 合戦のあと、家康の旗が本陣に一本も立っていなかったことが、問題になった。重臣の大河内正綱が、「七本の旗は、一本も立っていなかった」といいだし、二条城に登城していた侍たちがそれに迎合して「われわれも見なかった」といった。
 大河内らは潰走する途中で、家康の族旗が兵士らに踏み倒され、散乱するのを見たのである。
 味方が一人もいなくなった戦場に、若林和泉とともに持ち場を死守した彦左衛門は、もちろん旗が立っていなかったのを知っていたが、「旗は立ちておりしだわ」と主張した。
 旗が倒れていた現状を見たといえば、末代までも徳川家の恥になると思ったためである。
 家康は彦左衛門が手をついていた畳のへりを踏み、杖をついて詰問した。
「そのほうは、なにゆえ儂につき従わざりしか」
「お槍はお旗につきし道具ゆえ、お旗のそばにおり申せししだい」
「旗は立っておらなんだはずじゃ」
「いや、立っておりました」
「皆も見えざりしと申しおる。立ちておらざりしであろう」
 彦左衛門は頑として答えた。
「なんと仰せられても、立っておりませしだわ」
 家康は脇差をにぎりしめ、彦左衛門の頭に挨がかかるほど杖で畳をつき、「立ってはおらぬ」と怒号した。
 「なんと仰せられても、旗は立っており申した。茶臼山のほうより崩れて参りし者は、ご本陣が崩れておったと、申しおりましたが」
 家康は自分が逃げだす現場を見られていたことを知り、怒号した。
 「弓矢八幡、儂は一代のうちに逃げしことなどないのだわ。それをそのほうは逃げたと申すか。そのほうほど強情な者はないぞ」
 と怒る声は、城内にひびきわたった。
 彦左衛門は、あやうく切腹を命ぜられるところを、あくまでも旗は立っていたと主張し、徳川家の恥をかくした。事実旗は倒れていたとしても、倒れていないといいはることこそ、譜代の臣の主張ではないかと、彼は『三河物語』で武士道の真骨頂を主張した。
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■重位の無剣の境地

<本文から>
 数日後、吉左衛門は武士の意地で、剛強の名を知られた相手と果たしあいをすることになった。重位は吉左衛門が必勝の秘訣を聞いたわけをはじめて知り、勝負の場に立ちあった。
 五間の立ちあい間合いをとっていた相手は、太刀を上段にふりかぶり、砂を蹴って吉左衛門に近づく。吉左衛門は右手を刀の柄にかけたまま動かない。
 「抜け、吉左衛門」
 重位は思わず心中で叱咤した。
 相手の剣が、気合とともに吉左衛門の頭上に躍った。空き樽を打ち割るような、乾いたつよい音が響きわたった。それは逆袈裟を抜きうったときの響であるのを、重位は知っていた。
 吉左衛門は、わが首が飛んだと思ったときに、反射的に技を出し、はるかに伎倆にまさる相手を倒したのである。
 重位は勝敗を念頭に置かず、もちろん生死をかえりみず、たたえた水のおもてに毛筋ほどのしわばみもないような、静寂の境地にいて敵に対するとき、最高の伎備を発揮できると考えていた。
 それは無心の境地である。無心は放心とはちがう。無心のとき、身中の攻撃精神はとぎす
まされ、敵を攻める好機を無意識のうちに感じとり、わずかに見せた敵の隙に吸いこまれるように打ちこむことができる。
 重位はこの最高の境地を、いかなることがあっても刀を抜くなという、謎のような言葉で吉左衛門に示したのである。吉左衛門は師匠の教えをかならず守るので、敵に斬られても刀を抜くまいと心がけるだろう。
 しかし、いま応じなければかならず斬られるという瞬間を、吉左衛門の鍛えぬいてきた感覚はかならずとらえ、死のうと思っていても、彼の五体は生存欲につき動かされ、敵を倒すにちがいないと、剣の錬磨に齢を重ねてきた重位は知っていたのである。
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■秀吉は自らの成功をあまりにも身近におきすぎた

<本文から>
 秀吉は、自らの成功をあまりにも身近におきすぎたのではないか。信長にしても家康にしても、武田信玄にしても、人生を突き放して見る姿勢を持っている。栄枯盛衰を眼のあたりにし、どのような繁栄も永遠ではないことを冷めた感覚でとらえていた。
「立って半畳、寝て一畳、天下とっても二合半」という俚謡がある。もっともこれを知っていなければならない身でありながら、秀吉は成功したとたん巨万の嘗に溺れた。まるで一代で築いた大会社を、年老いてできたわが子につがせんがため、かじ取りをあやまった経営者のようである。
 その辞世の句は、皮肉にも、人間の世の営みは死んでしまえば空であることを噛みしめたものであった。そこには隠しょうもない悲哀が込められている。
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