津本陽著書
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          日本列島 士風探訪

■薩摩−示現流なくして薩摩士風なし

<本文から>
 重位には五弟以外にも達人といわれる弟子がいた。その一人が薬丸刑部左衛門兼陳である。刑部左衛門の祖父壱岐守は、東郷重位十八歳の初陣のときに介添え役をつとめた人物で、野太刀の名手として知られていた。島津義弘とともに関ケ原から生還した、三十余人のひとりという名誉の士でもあった。
 刑部左衛門は、祖父伝来の野太刀の長所をとって薬丸自顕流を創始する。
 示現流は基本となる技から、さらに八十を超える変化技がわかれ、防ぎの太刀はなく攻めの太刀ばかりであるといわれるが、相手の剣先をわが太刀で押さえ、内懐へ渡りこんでゆく巧緻をきわめた刀法である。対して薬丸自顕流は、技は五手にすぎない。横木打ち、横木掛かり打ち、抜き、打ち廻り、長棒のみで、巧緻の技というものはない。
 構えも示現流のそれとちがい、両手をまっすぐ上に天をつくように上げる。両脇を締め、両挙が前にむいているので、蛸郷が鎌をふりあげた姿勢に似ている。
 足の構えもふしぎな形である。両足のつま先が内に向いており、体中の筋肉を無理に捻じ曲げたような姿になり、剣士は白熱するほどの緊張に満ちているのが感じとれる。
 薬丸自顕流独特の横木打ちの稽古も、見ているものを圧倒する。両手を高くあげた姿勢から、打ちこむときに前に出した足の臑を地面につける。しかも驚いたことに横木を打つのは、 木刀の切っ先から三寸の物打ちどころではなく、鍔もとから一尺ほどの部分である。
 私は稽古を見てはじめて、自顕流の威力を了解した。戊辰戦争の際、幕軍の剣士が薩摩兵士の打ちこみを外そうとして、わが刀の棟と敵の刃を十文字に額にのめりこませて死んだという挿話があるが、つくりごとではなかったのである。
 かつて鹿児島市内の幼稚園の園庭でおこなわれた自顕流の稽古を見せてもらったとき、終わるまで、私はあまりに猛烈な太刀打ちの動きに嘆声を漏らすばかりであった。
 『薩藩旧伝集』という古文書がある。それには、戦国期の薩摩隼人の狂勇にたとえられる剽悍なふるまいが数多く記されている。首を二、三十とった豪勇の士がごろごろいた。薩摩野太刀の原型をとどめる自顕流の稽古を見て、それも納得できる思いであった。
 逆にいえば、自顕流が貧しく教養もない下級城下士や外城士のあいだに広く支持されるに至ったのは、技の数がすくなく、道場へ行かずとも自得自習することができ、しかも薩摩野太刀の猛烈な太刀打ちが、野卑で激烈な彼らの気性、感覚に合ったからであろう。
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■土佐−龍馬を生んだ「いごっそう」の開明性

<本文から>
 土佐の士風は、地付きの下級武士たちのあいだで育まれ、悲劇的ではあったが、幕末維新において見事に開花したといってよかろう。
 鹿児島の「ぼっけもん」に対して、高知には「いごっそう」という言葉がある。頑固、偏屈、負けず嫌いなどさまざまに解釈される。橋本大二郎高知県知事によるとエゴイスティックな「エゴッそう」ということにもな名が、一領具足がなまってできた言葉という説もあるようだ。
 土佐の士風は、坂本龍馬から武市半平太にいたるまで、その個性を一色に塗りこめることはできないにしろ、日々大海原を眺めて来た人々だけが持つおおらかさと開明さ、夏の酷暑や毎年襲ってくる台風に立ち向かう気性の激しさ、そして僻遠の狭小な土地に住む人特有の頑なさと議論好きなどがあいまって、複雑かつ独自のものに醸成されたといってよい。加えて外から入ってきた山内侍への鬱憤がある。
 その士風をうけて、維新後も中江兆民や幸徳秋水ら自由民権運動や社会主義の闘志を多数生み出し、さらに浜口雄幸、山下奉文、吉田茂といった日本史を飾る人物を輩出した。
 「ぼつけもん」の薩摩が、明治期以降、軍人以外にこれといった人材を産み出せなかったことと、その点で鮮やかな対象をなしている。土佐の士風がもつ開明性が母となり、議論好きが父となって、多くの人材を産み落としたものだと私は思っている。
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■秀吉に欺き政治路線を信長公の復活の野望をもった

<本文から>
 尊王撰夷で輿論を沸騰させておきながら、自らをその枠外に置こうという底意がそこには見える。勝海舟が喝破したように、斉昭は表裏ある人物であった。
 しかし尊王攘夷運動は、斉昭の存念を超えて過激化していく。条約勅許問題と将軍継嗣問題に絡んで安政の大獄がおこり、さらに桜田門外の変が勃発したことは冒頭に記したとおりである。
 変ののち、万延元年八月になると、水戸と長州の激派は「丙辰丸の盟約」あるいは「成破の盟約」と呼ばれる同盟を結ぶ。水戸藩は「破」の役割を担い、破壊的行動で世情を混乱させ、長州が「成」すなわち新しい世の中をつくりだす担い手となるとする内容であった。会沢正志斎、藤田東湖譲りの観念性を、そこにも窺いみることができる。
 水戸藩激派はやがて束禅寺事件などをへて、武田耕雲斎を首領とする天狗党に結集、筑波山挙兵、西上へと動くが、耕雲斎はもとより、東湖の息子小四郎はじめ三百五十二人が越前敦賀において斬首されるという悲惨な結幕を迎える。悲劇の一因は、保身のために、自分を頼った天狗党一党を冷酷に見捨てた慶喜にある。鳥羽伏見の戦いのあと、幕軍を見捨てて江戸へ逃げ帰ったときとうりふたつの、自己中心的行動である。
 水戸人は「水戸っぽ」と呼ばれ、性格は骨っぽく、理屈っぽく、観念的なうえに、偏狭にして洞介だとよくいわれる。尊攘激派が政権を握ると、佐幕派は次々と厳罰に処せられた。佐幕派が政権を握ると、逆のことがおこなわれた。復讐劇が際限もなく繰り返されたのである。光闇以来のイデオロギー性の強い藩風がそうした気風を育み、水戸学がそれを助長した。加えて経済的後進地域であったことも、現実性に乏しい、観念主義者を多く生み出した原因のひとつだろう。
 尊王攘夷を旗印とした者も、佐幕旧守派も、偏狭にして狛介という点では同じだった。リーダーである斉昭、慶喜にしても、大慶とは言い難く、両者を並立させることはできなかった。結果的に、幕末維新期を通して、意味のない港内抗争でこれほど多数の犠牲者を生んだ藩はない。
 ときは移り、明治新政府は維新回天における水戸藩志士の積年の功を賞し、しかるべき人材を登用しようとしたが、人材は枯渇しており、諦めたと伝えられる。のみならず、維新後も茨城県では地域間抗争がつづき、大正期に入ってもなお「難治の県」として全国に知れわたっていた。
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■萩−権力好きを生んだ防長の地勢

<本文から>
 内海を通って大坂に運ばれるようになると、浜崎、大津、赤間関、三田尻、中開、上関など領内の多くの港が北前船の寄港地として繁栄している。また早くから商品経済が発達し、「防長の三白」あるいは「四白」と呼ばれる米、紙、塩、櫨蝋が関西へ移出され、大きな利益をあげるようになった。
 利に対するはしつこさ、それに不可欠なずるさ、計算高さといった商人に必須の資質が、長州藩士の性格、行動にまで浸透した可能性は高い。
 鬱屈という点では、関ケ原の敗戦も、また関係しているだろう。毛利元就は謀略の名手だったが、陶晴賢をやぶった厳島の戦いに見られるように、好機には全力を投入する果敢な決断力をもちあわせていた。ところが関ケ原においては、毛利輝元は西軍の主将の座につきながら大坂城を一歩も動かず、関ケ原へ進出した毛利軍も一族の重鎮吉川広家が領土保全を前提に徳川家康と通じていたために一戦も交えることなく徳川の軍門にくだった。
 関ケ原において敗北した点において、薩摩島津家も同様であったが、大勢が決したあと惟新入道島津義弘以下の島津軍は東軍中央を突破し、薩摩人の強悍さを天下に示しただけでなく、惟新は鹿児島に帰国すると国境の守りを固め、決戦の姿勢を示した。結果、家康は島津家の減封を諦めた。
 対して毛利家は安泰という約束を反故にされ、中国八カ国百二十万石から防長二州二十九万石(後に検地により三十六万九千石)へと四分の一にまで石高を減らされた。戦わずしての大減封だから、藩士の心情は生煮えで、鬱屈の激しさは想像するに余りある。
 幕府はそれだけでなく、手伝い普請を次々と命じてきた。藩財政は常に赤字で、借り上げがつづき、多くの藩士の生活は幕末まで苦しいままにおかれた。
 しかし幕末になるまで、幕府の長州藩に対する警戒の念は強く、不満を口外することなどできなかった。かれらの鬱屈は内攻せざるを得ず、人間性は狛介さを増していく。
 薩摩人が「チェスト、関ケ原」と叫び、関ケ原の恨みはいつか晴らすぞと公言していたのに対して、長州藩には「獅子の間の儀」という秘儀があったとされ、毎年元旦、萩城内獅子の廊下において、重臣の一人が藩主にこう尋ねるのを慣例としていたと伝えられている。
 「殿、今年は、徳川を討ちまするか」
 対して、藩主がこたえる。
 「いや、まだ機は熟しておらぬ」
 このあたりも、長州人の鬱屈、燃えきらぬ内心を表している。
 二百数十年、鬱々ともっぱら内部闘争をこととしてきた長州藩士がその鬱憤を一気に晴らす好機ととらえ、果敢に動き出したのが、幕末期における、尊王擾夷運動の高まりであった。
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■金沢−京都以上に伝統文化が生きている街

<本文から>
 金沢に行くたびに羨ましく思うことがいくつかある。
 その第一は、庭師の腕がいいことである。金沢の庭師の腕前を見るには、わざわざ天下の三名園兼六園や、長土塀の武家町、東西の旧遊郭街にある料亭を訪ねるまでもない。中心部をちょっとわき道に入り、塀越しに民家の庭を覗き込めばことたりる。小さくても手の込んだ小宇宙を、そこに見ることができるからである。
 東京ではまずお目にかかれない、凝った庭が少なくない。京都でも、どれだけあるだろうか。
 わが家もときどき、庭師を呼んで手入れをしてもらうのだが、なかなか出来栄えに満足するということがない。それだけに金沢の街を歩くと、いい庭があり、いい庭師がいるなあといつも羨ましく思うのである。
 陶磁器、漆器、箔製品をはじめとする工芸品の豊富さも、羨ましいことの三である。家内が同行したときなど、陶器の店に入るとしばし足止め状態になる。
 家内はお茶をやっており、器に関して自分なりのこだわりをもっているから、どうしても選ぶのに時間がかかるのである。
 「金沢の焼き物は、伝統の技にくわえて、色合い、デザインなどに作り手の挑戟が見られて新鮮なのよ」というのが、彼女の評である。
 私自身は、陶芸の世界にはまったく暗いのだが、訪れるたびに若い才能が現れて、新しい作品世界を展開しはじめていることだけは、よくわかる。保守の中に常に革新が宿っているのである。
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■熊本−肥後もっこすの光陰

<本文から>
 後年、身の丈六尺三寸(約百九十一センチ)の清正が、帝釈栗毛という肥馬にまたがり、刃渡り三尺五寸の備前長船を腰に凧き、江戸市中をゆく悠揚たる姿は、士人を刮目させたものである。
 当時、江戸では清正の馬上の姿が、はやり唄になった。
  江戸の虎落にさわりはすると
   よけて通しゃれ帝釈栗毛
 もがりとは、竹垣のことである。
 清正は武勇においては、生前の前田利家と同様、万人の等しく認めるところであった。そのうえ体躯長大で、悠揚せまらざる性格の持ち主であった。
 しかも清正は、福島正則と異なり匹夫の勇を見せることなく、いかなる場合も冷静沈着で、大軍勢を率いての采配には水際だったものがあった。加えて築城の名手で、武者返しと呼ばれる独特のそりをもたせた石垣は、余人には築きえない技術であった。農政にも通暁していた。
 それだけに家康は、清正という大坂方最大の支援者が亡くなるのを待望していたし、家康、そして二代将軍秀忠が死去するとともに、幕府は予定していたかのように加藤家を改易に処したのだった。
 筋書きとしてはあまりにも陳腐すぎるが、禍根は根から断たないと気のすまない徳川政治の、これがリアリティというものであろう。
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