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<本文から> 重位には五弟以外にも達人といわれる弟子がいた。その一人が薬丸刑部左衛門兼陳である。刑部左衛門の祖父壱岐守は、東郷重位十八歳の初陣のときに介添え役をつとめた人物で、野太刀の名手として知られていた。島津義弘とともに関ケ原から生還した、三十余人のひとりという名誉の士でもあった。
刑部左衛門は、祖父伝来の野太刀の長所をとって薬丸自顕流を創始する。
示現流は基本となる技から、さらに八十を超える変化技がわかれ、防ぎの太刀はなく攻めの太刀ばかりであるといわれるが、相手の剣先をわが太刀で押さえ、内懐へ渡りこんでゆく巧緻をきわめた刀法である。対して薬丸自顕流は、技は五手にすぎない。横木打ち、横木掛かり打ち、抜き、打ち廻り、長棒のみで、巧緻の技というものはない。
構えも示現流のそれとちがい、両手をまっすぐ上に天をつくように上げる。両脇を締め、両挙が前にむいているので、蛸郷が鎌をふりあげた姿勢に似ている。
足の構えもふしぎな形である。両足のつま先が内に向いており、体中の筋肉を無理に捻じ曲げたような姿になり、剣士は白熱するほどの緊張に満ちているのが感じとれる。
薬丸自顕流独特の横木打ちの稽古も、見ているものを圧倒する。両手を高くあげた姿勢から、打ちこむときに前に出した足の臑を地面につける。しかも驚いたことに横木を打つのは、 木刀の切っ先から三寸の物打ちどころではなく、鍔もとから一尺ほどの部分である。
私は稽古を見てはじめて、自顕流の威力を了解した。戊辰戦争の際、幕軍の剣士が薩摩兵士の打ちこみを外そうとして、わが刀の棟と敵の刃を十文字に額にのめりこませて死んだという挿話があるが、つくりごとではなかったのである。
かつて鹿児島市内の幼稚園の園庭でおこなわれた自顕流の稽古を見せてもらったとき、終わるまで、私はあまりに猛烈な太刀打ちの動きに嘆声を漏らすばかりであった。
『薩藩旧伝集』という古文書がある。それには、戦国期の薩摩隼人の狂勇にたとえられる剽悍なふるまいが数多く記されている。首を二、三十とった豪勇の士がごろごろいた。薩摩野太刀の原型をとどめる自顕流の稽古を見て、それも納得できる思いであった。
逆にいえば、自顕流が貧しく教養もない下級城下士や外城士のあいだに広く支持されるに至ったのは、技の数がすくなく、道場へ行かずとも自得自習することができ、しかも薩摩野太刀の猛烈な太刀打ちが、野卑で激烈な彼らの気性、感覚に合ったからであろう。 |
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