津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          南海の龍 若き日の徳川八代将軍吉宗

■幼い時に質素倹約を諭される

<本文から>
「一人でも多く養おうと思えば、我身の飽食暖衣はすべきではない。さまざまに心掛け節倹をなし、一飯をも家来にわかち、表をも家来に着せるよう心掛けねばならんのだ。分ったか」
 父の言葉の意味は、彼には理解できなかったが、その日お城を退出したのち、五郎左衛門から噛んでふくめるように聞かされた。
 自分は兄たちのように、大名にはなれないかもしれない。一生を捨て扶持をもらい、部屋住みで過ごさねばならない運命であるようだ、ということが、彼にはおぼろげに理解できた。
 そのあと、おゆりの方の御屋敷へ遊びに出向いたときにも、彼は母親から思いがけない叱責をうけた。
 母の屋敷は扇の芝から和歌道筋を南へ下り、ひと筋東手へ折れた、閑静な場所にあった。彼はそこで香料のにおいのする、やわらかな母の腕に抱かれ、雪月花の華麗な絵模様を色づけした干菓子を食べるのが、無上のたのしみであった。障子紙を鳴らす風音さえ、加納の家で聞くのとは違う、やさしいものに聞えた。
 その日は、お守役のほかに、なぜか加納五郎左衛門が同行した。五郎左衛門とおゆりの方は、客間で話しはじめた。彼ほやさしい召使いの部屋へ駆けいり、そこでおはじき遊びをしていた。
 突然彼は呼ばれ、客間に連れてゆかれた。そこには、母と五郎左衛門が坐っていた。
「昨日の城中でのこと、ただいま加納殿から聞き及びました。そなたはなぜそのような、はしたないふるまいをしたのですか」
 おゆりの方はなげいた。
「私はそなたの行末が、しあわせであるようにと、大立寺様と、広浦養源寺様に、いつも願を掛けているのです。紀三井寺で、そなたの厄除けに護摩祈蒔をもしてもらっています。それにもかかわらず、そなたが大殿様からご不興を買うようなことをしでかしては、私がそなたにかけた望みも消えてしまいます」
 五郎左衛門が畳に手をついて詫びた。
 「すべては私の、若君へのご養育お躾けがいたらなかったためでございます」
 大人たちが、自分の心ないふるまいのために悲しんでいると知ると、彼は自責にかられ、母の手をとって告げた。
 「母上様、私はこれからは、おいしい食べものを見たからとて、お腹が張るまで食べようとは、いたしません」
 五郎左衛門が座を外したあと、おゆりの方は息子を膝にのせ、説き聞かせた。
 「私はのう、お城の召使いであった。召使いといえば、卑しい身分じゃ。そのためそなたがはしたないふるまいをすれは、あの母親の腹を借りたためじゃと、家来どもが蔭打をきく。ひいては、そなたの出世にもかかわってくる。そなたほ権現様の血をひいた身じゃ、どのような風の吹きまわしで、天下取りになろうやも知れぬ。そのためには、いろいろとしんぼうをせねばならぬのじゃ」
 新之助ほその日以後、一汁三菜のはかはけっして口にしないようになった。衣類も木綿のほかほ身につけない。夏は木綿のひとえに小倉袴、冬は紙子の羽織に小倉袴のいでたちであるため、小身の侍の子弟と見あやまれることがしばしばであった。
▲UP

■新之助の衣服、諸道具を旧来のものを使用

<本文から>
 紀州出立までに、新之助は彼らしい政治の片鱗をあらわしていた。
 江戸下向に際しては、新之助の衣服、諸道具をはじめ、家中の什器はことごとく旧来の亡兄の紋所から、彼のそれに変えねばならなかった。その旨を聞くと、彼は即座に命じた。
 「紋所など、戦などに用いるものは知らず、内証に使う道具のものは、変えることはいらぬ。いままでの井筒の紋で用が足るやろ。よいか、表向きの道具の分だけ、つけ替えよ」
 なみの大名であれば、家督をゆずりうけたうえは、自らの紋所を誇示し、威勢を張りたがるところを、諸事実用を心掛けられること奇特なりと、諸臣は感心する。
▲UP

■裁きで英邁な器量を見せる

<本文から>
 城内御花園奉行窪田与平次という十石取りの役人の息子市太郎が、先君頼職の喪に服し、身をつつしんでおらねばならない、九月半ばに、城下で喧嘩をした。相手は士分ではなく、素姓の知れないならず者であった。
 市太郎は、相手に薄手を負わされ、刀をその場に捨て、家に逃げ帰った。ならず者ほそのまま姿をくらます。
 市太郎の不始末は、御目付役あい寄り評議のうえ、光貞様ご治世の頃であれば、打ち首仰せつけられるところであると、新之助に言上した。
 「市太郎の父親もことのほか立腹いたしおります。ついては先例にしたがい、お仕置き下さるべく、諸人の見せしめにもなればとて、覚悟いたしおる旨、申し出てござります」
 新之助は、しばらく黙っていたが、苦りきった顔つきで一言に答えた。
 「その者は追放にいたせ」
 日付はおどろいて、いい返す。
 「おそれながら、対山公様の御代には、打ち首仰せつけらるる者にてござります」
 新之助は「分っておる」と目付にいい聞かせた。
 「かくのごとき武者の義理をも知らざる、臆病のばか者一人を、死罪に処したというて、家中の臆病な者が剛強にもなるまい。また、助けたればとて、剛なる者が臆病にもならぬ。市太郎と申すは、与平次めの一人子というではないか。与平次は、覚悟をきめ、立腹してはおっても、内心はさだめて殺されることを嘆いておるに違いない。子を打ち首にされ心を落しては、なかなか奉公もできぬほどに、ただ追放にいたせ」
 目付は、ひたすらおそれいって、引きさがった。
▲UP

■大音声に国老としての心得を説き聞かせた

<本文から>
 江戸表においても、吉宗の威令はゆきとどいていた。間柴甚内をはじめ、反吉宗派を、表立っての風波をたてることなく自滅に追いこんだ。石川門太夫らの強大な目付役の実力の前に、家老水野大炊をはじめ、すべての藩士が僣伏した。
 忠八が留守中の十月十四日、突然幕府より諸藩に銀札の通用停止が申し渡された。吉宗は中屋敷大広間に、重立った藩士を呼びあつめ、今後一層の倹約をはげむよう、訓戒をおこなった。
 彼はそのとき水野大炊を前に、大音声に国老としての心得を説き聞かせた。
 「そもそも家老役は、象中領内の政事を申しつけおくものなれば、平生より家中の者の行状善悪の儀を聞き及び、つぶさに調べ置かねばならぬ。そのうえで、それぞれ諸役をふりあてるとき、役向きに叶うた人柄の者を撰ばねばならぬ。しかるところを、己れの気にいりたる者をば、かれこれとよろしかろうなどと、思いつきし役に撰ぶなどは、もってのはか。国家のためにならぬことじゃ」
 吉宗は顔に朱を注ぎ、あたかも水野大炊を面罵するかのような勢いで、痛烈な施政批判の言葉を吐いた。藩士たちは咳もつつしみ、頭を垂れて若年の主君の声音に聞きいった。
 「家老役が己れの好みに従い、下々の老の役向きを定めるは、己れの威勢を誇り、香りに長じ、ついには己れの懐を肥やす私曲に通じることとなる。かようにして取り立てられ、役向きに就いたる者は、誰々殿とかねて懇意なりなどと、常に己れの後楯を口外したがり、配下の者どもを眼下に見くだして威を張りたがる。何々殿と懇ろなる仲なれば、かようにも話を通じることができるなどと、内々の情実を洩らせば、配下の老共は上司の実の姿をも知らず、わが上役殿はありがたし、かたじけなしと存じ、次第次第に日を追うて、その時はいや増す。やがて上役の宅には家老殿へのとりなしを頼む配下の数ふえ、門前市をなす様となる。これをもって、虎の威を借る狐とはいうらむか」
 吉宗は限をいからせ、大喝した。彼のいうところは、とても大名の観察とは思えない。現実の表皮をひきはがし、あからさまな裏面をたなごころをさすように微細に表現する。
 彼は父光貞や兄たちが知ろうとする気もなかった、家臣のあいだの、蜘蛛の巣のようにからまりあった人事の葛藤について、薄気味わるいまでに見通していた。
 「かようの類の者は、主君のためには少しもならぬことばかりをして、日送りをいたしておる。すべて我が身我が身と、その栄華のためのはからいをするばかりなれば、家中の諸士にはことのほか憎まれていたれども、なにせ後楯をとったる身上なれは、表向きは皆こころよく付き従うのじゃ。かかる痴れ者がはびこりおれば、わが方よりいかに用向き倹約を申しつくるとも、大勢の家中の者どもが、内々不平を抱きおれば、表向きばかりかしこまるのみじゃ。すなわち働く気も失せ、上役の呼ばかりあれこれといたしおって、雑談はかりにて用向きは一向にらちがあかぬ。かかるときには、かえって小まめに働きおる倭人、へつらい人の者ばかり目立って、あたかも忠臣なるがごとく見えるも笑止じゃ。かくの如く、家中の心が区々ばらばらになるのも、主人と家老の心掛け悪しきゆえじゃ。水野大炊、自今は予が言をかえりみて、役向きに精を出せい」
 吉宗に一喝され、五万三千石筆頭家老の威を、張りだした太鼓腹にみせていた水野大炊は、酒を呑んだときのように赤面し、おそれいって平伏した。
▲UP

■将軍に就く

<本文から>
 吉宗は、天下の民衆が自分に関心を抱きはじめているのを、覚っていた。儂は数年のうちに、将軍の座につきそうだと、彼はひとごとのように、自らの運気が転換してゆく気配を感じた。
 正徳六年(一七一六)四月半ば、七代将軍家継は重い病を発した。月末にいたって重篤な症状となったため、御三家に対し急ぎ登城するようとの使いが走った。
 時刻は八つ半(午後三時)過ぎである。急報に接して、紀州家はただちに行列をととのえ、家老二人を従わせ、粛々として登城した。吉宗は前日に火急の使者が来るのを予想し、供回りの者に身支度をととのえさせ、待概していたのである。
 これにひきかえ、尾州家では、突然の報に接し、うろたえるばかりで、駕寵の支度もなかなかにととのわない有様であった。江戸城に詰めて、家継の容態を藩邸に報告する役をうけもつ家老、水野弥次太夫が愚か者で、城中の様子をあらかじめ察知できなかったための失態である。
 焦りたった尾州公儀友は、供揃いを待たず、一人で馬にまたがり、江戸城に駆けつけたので、家来たちはとるものもとりあえず、そのあとを走って追う醜状をさらすことになった。
 御三家のうち、江戸城にいちはやく到着したのは吉宗で、そのあとに水戸綱候、最後に尾張継友が、息せききって駆けつける。
 水戸、尾張両侯は下城し、吉宗のみが城中にとどまるよう、老中から依頼された。
 その日の夕刻、土星相模守政直以下二人の老中、側用人間部詮房、本多忠良らから、城中にひかえる御三家当主のうち、吉宗に頂英院殿御旨として、将軍家継の後見役を仰せつけた。天葵院とは、前将軍家宜の正妻である。
 吉宗は、その依頼を一蹴した。
 「門地をもって申さば尾張殿、年齢をもって申さば水戸殿こそ、この度の重任をば承りてしかるべきでござろう。それがしに於ては更に思いよらざることなれは、辞し奉る」
 間部詮房は、進み出て説得した。
 「先君家宣様の御遺数あるうえは、速かにお受けあるよう、重ねてお頼み申し奉る」
 吉宗は固辞を続ける。
 内心では焦げるような思いで将軍の座を望んでいるが、この場でたやすく応じては、老中、側用人はもとより、幕閣に絶大な権力をもつ大奥の女どもに軽んじられるのである。
 ついに吉宗は大奥へ招かれ、天英院に面会させられた。天英院は吉宗を説得した。
 「前将軍文照院殿御道教のまま、国家の政務を摂り給え。何事もただ頼みと思い参らすなれば、よしなにお受け下され」
 天英院は、手ずから熨斗鮑を吉宗に手渡し、懇願する。
 吉宗が、「このうえは、老臣らの公議に従いまする」と答え、退出しようとしたとき、天英院は声高に告げた。
 「いよいよご辞退なさるまじく、心得られよ」
▲UP

メニューへ


トップページへ