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<本文から> 伊達小次郎には、暴力をふるうことを嫌う性格であったにもかかわらず、白刃をふるっての襲撃を実行した経験が、生涯に一度だけある。それは、慶応三年(一八六七)十二月七日の夜、京都油小路花屋町下ル天満屋に止宿していた、紀州藩公用人三浦休太郎を狙い、海援隊、陸援隊の同志と斬りこんだ事件である。
坂本竜馬と、陸援隊長中岡慎太郎が、京都河原町三条下ル近江屋新助方で、見廻組の襲撃をうけ、斬殺されたのは、そのまえの月である、十方十五日夕刻のことであった。
三浦休太郎を襲撃した理由は、彼が見廻組に竜馬の暗殺を教唆したのだという情報が、小次郎の耳に入ったためであった。それを彼に教えたのは、和歌山出身の志士、加納宗七であった。
十一月十五日の曇天の夕刻、通り魔のように竜馬と中岡を襲った敵が何者であったか、まったく見当のつかないままに、海援隊、陸援隊の同志とともに、下手人探索にあけくれていたおりからである。
「やっぱり三浦のさしがねであったか。よし、あいつを血祭りにあげて、坂本さんの仕返しをやるんや」
小次郎は眦を決して、復讐の計画をたてる。相手は遭恨かさなる紀州藩重役である。
思いおこせば文久三年春、国学を通じて尊皇浪士と交際のひろい父宗広の寓居で、小次郎ははじめて竜馬に出あい、その後四年ちかい月日を、彼の庇護のもとに生きてきたのであった。
性来絹介不羈な性格の小次郎が、神戸海軍操練所、亀山社中、海援隊に属し、同志とのいさかいで命をおとすこともなく、集団生活を送ることができたのは、竜馬との密接なつながりが、あったためである。
刀を執っての応酬がもっとも苦手な小次郎が、三浦休太郎襲撃事件の主役となったのは、彼のただ一人の理解者であり、先達であった竜馬を失った痛憤が、身内ににえたぎつていたためであろう。
小次郎は、加納宗七、岩村高俊ら五人の同志とともに、三浦の動静を連日探索する。十二月七日に、三浦が紀州藩士二人を連れ、油小路花屋町下ル天満屋に宿泊していることが判明した。
小次郎たちは、後年の田中光顕、大江卓らをふくむ十五人の同志とともに、天満屋へ斬りこんだ。先頭に立ったのは、居合の達人として知られていた、十津川郷士中井庄五郎である。
三浦休太郎が、坂本竜馬暗殺をそそのかした理由は、伊呂波丸賠償事件によって、紀州藩が竜馬に手痛いめにあわされたことにあると、小次郎らは推測していた。 |
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