津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          名こそ惜しめ−硫黄島 魂の記録

■硫黄と金属塩類のまじった水で炊いた飯、栄養失調に倒れた兵は全身蝿に覆われた

<本文から>
 越村敏雄一等兵の所属する独立機関銃第二大隊は、八月下旬になると半数近くが悪性下痢に倒れた。そのほとんどが栄養失調症で死んだ。チフス、デング熱患者も急増した。西海岸の硫黄と金属塩類のまじった水で炊いた飯は、紫色に光っていて食べる気がしない。チューインガムを刻んだような乾燥かぼちゃのかけらが浮いている味噌汁も、硫黄のにおいが鼻をつく。
 どれほど重労働をして痩せこけていても、兵士たちは一日一合に足らない飯と、薄い味噌汁を半分ほども食べのこし、食事はきわめて短時間で終った。
 越村は中隊長の当番兵になっていたが、何の特別給与を手にすることもなかった。中隊長自身が、硫黄臭い飯と副食物を半分ほども食べ残し、兵隊たちがその健康を気づかっていた。
 玉井中隊長は、金沢市郊外で材木屋をいとなんでいたという、おだやかな、軍人らしくない人物であった。米軍の爆撃と艦砲射撃があいつぎ、戦死者、戦病死者がふえつづけていた。下痢、栄養失調に倒れた兵は、全身蝿に覆われたまま、真昼の強烈な陽射しにさらされ、地面に寝ころんでいた。刺すような塩の辛みと硫黄の悪臭が喉を突き刺す。一日に水筒一本の水と、看護兵がくれる中盆一杯の薄い粥を飲んでも、たちまち筒抜けに下痢をする。そのうちに人間の干物ができあがってしまう。
 越村氏は前掲の著書『硫黄島守備隊』のなかで、するどい光芒を放つ日本人の特質といえる現実認識について記している。越村一等兵は土木技術者で、抽象的な思考のできるインテリであった。彼は敵が上陸してくる前から、地獄のような硫黄島にいて、生存する可能性があるだろうかと考えつづけ、同年兵の松田二等兵にたずねた。
 松田は郷里では農業に従事していた。金沢の原隊にいた頃、古兵から制裁をともにうけた仲間である。彼は強健な体力の持主で、軍隊で酷使されることに充分に堪えることができた。彼は、物事を深く考えることがなさそうであったが、越村はあるとき彼に問いかけてみた。
 「どうだ、敵はやがて上陸作戦を強行すると思うが、連合艦隊は出てくるだろうか」
 その質問には、自分の生きながらえる可能性がいくらかでもあるのだろうか、それともまったくないかという迷いがこめられていた。松田に聞いたところで、彼が何の情報も持たない兵隊であることは分っていたが、藁にもすがりたい気持ちはある。
 だが松田一等兵は即座に答えた。
 「こんな離れ小島ひとつのために、そんな大艦隊が出てくるものか」
 松田は連合艦隊がまだ存在しているか否かを知らず、硫黄島の軍事上の重要性をも知らないが、庶民の直感によってわが前途の運命をとらえていた。
 サイパンからは、星夜を問わず敵機が空襲にきて、日本兵が痩せ衰えた体の力をふりしぼり築造した陣地を破壊し、築城班の将兵はそれを夜のあいだに遣り直した。土木専門家の越村は工兵隊の将校に、セメントの配合量について聞かれた。
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■迫る死を前にして一人でも多く道連れにしてやるという敵慢心

<本文から>
 内南洋のサイパンなど玉砕した島々の戦闘の結果、敵を迎撃する方法が変わった。
 玉砕した島の守備隊は、上陸してくる第一波の敵を水際で撃退したため、しらみつぶしの砲爆撃をうけ潰滅した。硫黄島は、瀬戸内海に点在する島々と比べても小さいほうに数えられるような、狭苦しい島である。
 米軍は上陸作戦のとき日本軍の数千倍といわれる火力を用いる。硫黄島の攻防戦がはじまれば、島内は爆発した火山のような様相をあらわすにちがいない。日本軍の将兵は、坩堝のなかで焼きつくされ、溶解してしまう。
 そのときが、眼前に迫ってきていた。最期のときの心構えがほしかった。自分を押しつぶしにやってくる、死の圧迫をはねのけるため、三十五歳までの生存に結着をつけられるだけの心構えである。
 絶えまない爆撃、艦砲射撃が何時間もつづくと、眼球が衝撃で飛び出し、鼓膜がやぶれるのを防ぐため、両手のおや指とひとさし指、中指で眼と耳をおさえ、伏せている体の腹部が爆発の振動で内出血しないよう左膝を曲げているという、待避の基本姿勢がとれなくなる。二、三秒置きぐらいにつづく弾着の激震のなかで、防空壕の岩肌に爪をたて、下痢便を垂れ流しているとき、恐怖に堪えきれず、自殺したい衝動に駆られる。
 越村一等兵が追ってくる死の時を迎え、つかんだ心構えは、斜面の岩といっしょに何もしないで吹き飛ばされるような無意味な最期を遂げない、皆殺しにやってきた敵を、一人でも多く道連れにしてやるという敵慢心であった。
 越村民は記している。
 「だが、それは尽忠報国とか、滅私奉公とかいう、幼少の頃から強制された教訓からくるものではなかった。どうあがいてみても、われわれの前には死のほかに何もないのだ。それがこの世の終りを告げる津波のような圧力で、すぐそこまで迫ってきているのだ。その間にどのような防壁もないのだ。時間だけが刻々ときざまれているのだ。それがきざみ尽きる時になって、自制を失って、何もしないままで、ただむざむざと敵の砲爆撃の餌食になっては、あまりに不甲斐ない。人間であれば当然起こる、強烈な反撥心、敵愾心が承服しないのだ。
 腹いっぱい食って、飲んで、巨大な生産力と輸送力で無尽蔵に補給される強力な重火器の威力を頼んで、われわれを虫けらのように殺しにやってくる米兵への人間的な憎しみである。粉々に飛び散ろうと、砲爆撃のかけらがめちゃめちゃに突き刺さろうと、死んでいく人間には、そんなことはどうでもいいのだ。
 ただ、本来ならば、肉親と平和に生きているはずの人間が、生きた骸骨と化して、なお人々の想像できないような肉体的、精神的苦しみをなめつづけたあげく、虫けらみたいに殺されようという時に、命を犠牲にした、自分の力の限界のなかでなし得る敵への報復を、胸のうちに決めておくだけのことである」
 越村一等兵が考えあぐねた果てにようやくつかんだ、最期を迎えるための心構えは、一人十殺の戦闘方針をつらぬいて死のうと決めた、栗林中将の決心とまったく一致するものであった。
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■到着した部隊は酷使され自爆を強いられる

<本文から>
 硫黄島に到着した部隊のなかには、兵器のすべてが海没し、着衣だけで上陸してきた歩兵隊もあった。
 彼らに陣地の部署は与えられず、到着するや坑道掘撃、荷揚げ作業に酷使されながら、不安の表情を隠さなかった。
 彼らは米軍が上陸してくれば、おそらくは水際でタコ壷にひそみ、敵戦車の下に爆薬を抱えて飛びこむ内攻班に組みいれられるにちがいなかった。
 いま飛行場設営、陣地構築にはたらいている海軍第二百四設営隊も、おなじ運命を辿ると見られていた。設営隊には硫黄島住民のうち十歳から六十歳までの男子二百名が徴用されている。彼らは武器を持っていないので、手相弾のほかに鉄槍か竹槍を持たされ、南海岸で犠牲部隊となる独立歩兵第三百九粟津大隊、歩兵第首四十五連隊第一原大隊、海軍陸戦隊とともに、水際戦闘に参加することになっていた。
 砂浜に設けられたタコ壷などは、米軍上陸前の砲爆撃で一掃されてしまう。犬死にを強いられるのである。
 第百九師団の糧食不足は、あいかわらず深刻であった。
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■米機動部隊艦載機は第二次世界大戦における最大規模の艦砲射撃をおこう

<本文から>
 最前線の鹿島中隊は、眼もあけられない爆風砂塵のなか、一歩も退かず、兵に小銃の着剣を命じ、敵が十メートル以内に接近するのを待つ。砲爆撃で全滅したと思わせ、火焔放射器で陣中を焼き払おうとする寸前に敵兵を射殺し、喚声をあげ突撃する。
 見あげるように大柄な米兵は、日本軍の白兵突撃をうけると射撃で応戦せず、なだれをうって逃げる。
 鹿島中尉は敵と間隔をあけないよう疾走して、ひとりの首筋に刀を打ちこむ。米兵が血を噴き、悲鳴をあげて倒れる。中尉につづく兵隊たちも狂ったように叫びたてながら、敵の背中に銃剣を突き刺し、蹴倒す。
 米兵たちは、時代遅れの刀剣をふりまわす日本兵をあざ笑うが、内心では銃器よりはるかに刀を怖れていた。
 鹿島中尉らは手摺弾を投げ、米兵を倒し追い散らすが、戦車の砲塔からの機銃掃射をうけると、将棋倒しに転倒した。照明弾のもと、幾度か突撃をくりかえし、二月二十日の夜明けがたに、数人の負傷者を陣地に残し全滅した。
 鹿島中尉も全身に砲弾の破片を浴びて、戦死した。原少佐は第三中隊の一部を第二中隊の陣地へ救援に走らせたが、ほとんど全滅していたので、わずかな負傷者を収容し、千鳥飛行場の北方船見台に引きあげさせた。
 摺鉢山北麓には、四十七ミリ速射砲、野砲が残存していて、隠蔽陣地から敵を至近距離で射撃し、中戦車四輪を撃破した。
 米軍は十九日午後から、歩兵、戦車につづき、砲兵部隊も揚陸してきた。守備隊砲兵団は、その機を逃さず集中射をおこない、火砲数門を撃破、兵員におびただしい損害を与えたが、米軍は十九日夜半までに歩兵六個連隊、砲兵七個大隊、戦車二個大隊、二個師団の兵力を上陸させていた。
 十九日夜、混成第二旅団の南、西、中、摺鉢山各地区隊は照明弾が星をあざむく光芒を放つ下で、挺進斬込み、戦車肉攻をくりかえしながら、配備の変更、陣地修復、死傷者の後送をおこなった。
 この日、米機動部隊艦載機は、六百六機で二十六回出撃。爆弾百二十四トン、ロケット弾二千二百五十四発、ナパーム弾首発を投下し、第二次世界大戦における最大規模の艦砲射撃をおこなった。
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■日本守備隊は火力において三千五百倍の米軍を相手に戦い、互角以上の勝負をした

<本文から>
 日本軍は、二月十九日における米軍の死傷者を、約二千四百名と推測していた。米軍の記録によれば、損耗は戦死五百一、戦傷死四十七、行方不明十八、負傷千七百五十五、戦闘疲労九十九、計二千四百二十名であった。
 その日、南波止場附近に上陸した第二十五海兵連隊第三大隊約千名は、粟津大隊、独立機関銃第二大隊、独立速射砲第八大隊の一部などの猛攻を受け、前線兵力は百五十名に減り、同夜のうちに戦場を離れた。
 この日の戦闘では、日本守備隊は火力において三千五百倍の米軍を相手に戦い、あきらかに互角以上の勝負をした。
 頭だけが大きく、体は子供のようにちいさくなり、眠がとびだし、太股が棒杭のように痩せた、火星人かと眼を疑うほどに衰弱した日本兵が、豪雨のような銃砲弾をついて、ゴリラのような海兵隊を圧倒した。
 それは逃げようのない土壇場に追いつめられたときの、わが理不尽な運命を憤る、念怒が噴きだしたためである。日本人の内部に伝わる阿修羅の金剛力であった。
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■最後の戦闘

<本文から>
 日が暮れ、出撃の時がきた。鈴木伍長の率いる尖兵分隊が、壕を出ていった。
 加藤の前衛小隊は、十分後に壕を出る。壕口に集結した加藤たちはできるだけ装備を軽くした。雑襲には手榴弾五個、小銃弾、乾パンが入っていた。水筒には、本部から配給された澄みきった天水が入っていた。
 −これを飲まずに死んでは、もったいない−
 死ぬ前に全部飲みほそうと、兵隊たちはいいあった。
 出発の時間が迫ってきたとき、しばらく会っていなかった高野曹長と言葉を交した。
 「加藤、隊列から離れないようにしろよ」
 といわれ、曹長とならいっしょに死んでもいいと思った。
 曹長は加藤たち二年兵が、赤羽工兵隊に入隊したときから信頼してきた思いやりのある上官で、今度の総攻撃も「こんな無意義な突撃などあるものか」と憤り、兵隊たちの心情を代弁してくれた。
 武蔵野隊長も、高野曹長には遠慮していた。時間がくると、加藤たちは壕外に出て、静かに前進しはじめた。加藤は江沢同年兵のあとについていった。壕外はまっくらであった。
 間を置いて照明弾が撃ちあげられると、その光が消えるまで、前進をやめ、動かないでいた。進んでは止まることをくりかえすうちに、いつの間にか江沢同年兵の姿を見失った。
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■戦死者の内臓を自分の上着やズボンの中に入れ敵戦車の襲来を待った

<本文から>
 目ざす地点に辿りつくと、その辺りに散乱している味方の戦死者を数人かき集め、屍体のなかに入って死んでふるふりをする。
 そのとき、傍に横たわる戦死者の腹を銃剣で裂き、内臓をつかみだし、自分の上着やズボンの中に入れ、服の破れめからそれをはみださせ、敵戦車の襲来を待つ。
 戦車があらわれ、傍を通過してゆくとき、爆薬を抱いて飛びこみ、わが身もろともに爆砕する。戦車があらわれなかったときは、夕方になって帰り、一日の余命をつなぐことができる。
 だが屍体とはいえ、戦友の腹のなかに手をさしこみ、腐敗した内臓をつかみだす気分は、とても筆舌につくしがたい。怪談に出てくる化物のやることだと大曲少尉は思った。内臓を抜きとられる戦死者の運命ほ、明日はわが身のものとなる。
 肉迫攻撃は、火焔放射器を備える戦車に攻撃されると、対応する手段がなくなる。火焔に焼かれると体は庚のようになってしまう。
 手で触れると、皮膚は松の木の皮のような手ざわりであった。このような肉迫攻撃も、米軍が警戒しはじめ、機関銃で地面を掃射しながら前進してくるようになると、屍体に化けていた内攻班も、戦車に飛びつくまえに戦死する者が多くなった。
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■六割もの将兵が自殺したのは上官や同僚から殺される心配があったから

<本文から>
 二月十七日頃、硫黄島の日本軍は火砲、重火器をほとんど破壊され、弾薬も尽きて、米軍に肉迫攻撃のみで対抗するばかりの、土壇場に追いつめられていたが、島内各陣地に潜む将兵の数は、一万以上に達していたといわれる。『小笠原兵団の最後』(小笠原戦友会編・原書房)に独立機関砲第四十四中隊の伍長であった鈴木栄之助氏が記している体験談に、そのような推測が語られている。
 鈴木氏は述べる。
「栗林中将ならずとも誰か将校で『無駄な死をせず敵の手に渡れ』という勇敢な発言のできる人がいたら、もっともっと多くの人命が助かったと残念でならない。どこの壕でも将校が先頭に立って捕虜になるのを自分は見なかった。(中略)
 敵弾で戦死したと思われるのは三〇パーセント程度。残り七割の日本兵は次のような比率で死んだと思う。
 六割 自殺(注射で殺してくれと頼んで楽にして貰ったものを含む)
 一割 他殺(お前が捕虜になるなら殺すというもの)
 一部事故死(暴発死、対戦車戦闘訓練時の死等)
 なぜ六割もの将兵が自殺したかについて、鈴木氏はつぎのように記す。
 とにかく『出れば殺される』ということは、米軍から殺されると思ったのではない。上官又は同僚から殺されるという心配が一番頭にあったのである」
 米海兵隊が上陸当初苦戦していたときは、降伏する日本兵があらわれても、容赦なく抹殺したが、掃蕩戦の段階になる七、海兵隊は沖縄に向かい、後任の陸軍はそれまでの撃滅方針を変え、勇戦した日本兵をできるだけ救助しようとして、降伏するよう、スピーカーなどでしきりにすすめていた。だが日本軍の鉄の規律が最後まで戦闘を強いたのであった。
 その適例のひとつが、敵中に孤立した半壊の地下壕に潜んでいる武蔵野工兵隊の崩壊してゆく過程であった。加藤上等兵の手記によって、実状を追うことにする。
 米軍機銃陣地が武蔵野工兵隊壕附近に設けられたあと、敵の食糧を掻っ払いにしばしば出かけていた、粟津大隊高城隊の戦闘に慣れた歩兵たちも、壕外へめったに出られなくなった。
 飲料水が極度にすくなくなってきたので、負傷していない加藤上等兵たちは、深夜に死を覚悟して壕から這いだし、水を汲んでくる。水槽の周囲は敵が機銃の銃口をつらね、日本兵がくるのを待っているが、降雨のあと砲弾孔に泥水が溜っている。
 加藤たちは孔の底へ這い下りて、米や救急食のはいっていたゴム袋に水を入れ、壕に戻った。いつ射殺されるか分らない、危険きわまりない行動であるが、喉の渇きで死ぬよりはひと思いに撃たれて死ぬほうが楽であった。
 体力が衰え、暑苦しい壕内から一歩も出られない負傷者たちは、狂ったように水を求め泣き叫ぶ。
 「水だ、水、水をくれ。喉がかわいてたまらねえよ」
 加藤たちはその声に責めたてられるように、ゴム袋を持って壕外へ這いだしていった。苦痛に泣き叫んでいる負傷者の容態は、しだいに悪化するばかりで、治療をするにも薬品さえ底をついた医務科では、重傷者から順に、モルヒネ注射で深い眠りにつかせた。さきほどまで苦痛の呻き声をあげていた戦友が突然静かになるのを、生き残っている者は、堪えられないほどの寂寥の思いで見て探した。
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■いまも一万二千体を超える旧日本軍将兵の遺体が埋まったまま

<本文から>
 硫黄島における日本軍の戦力は、陸軍、栗林中将以下一万三千五百、海軍、市丸少将以下七千三百。大砲約百門、戦車二十三台、高射砲三百門。弾薬は二個師団一会戦分(四十日間分)、糧食は四十五日分。
 米軍は海兵隊三個師団七万五千名。陸海空の総員十一万名。飛行機一千機、直接支援四百機、艦砲約八百門。この鉄量は、日本軍が無傷の状態で二個師団分であるのに対し、七千個師団分に相当した。
 日本軍戦死者は、一万九千九百人
 米軍戦死者は、六千八百二十一人
 戦傷者は、二万千八百六十五人
 ロバート・シャーロッド著『地獄の島 硫黄島・沖縄』では、輸送船ベイフィールドに乗っていた軍医の話が記載されている。
「私はこの船に、ノルマンディ進撃作戦の時にも乗っていましたがね。しかしその当時はこの船の収容患者のわずか五%足らずが大きな外科手術を要したのみでしたよ。ところがこんどは、大手術を要する患者は、じつに九〇%にのぼるものと、断然私は信じています。私はこんなひどい負傷を見たことはありませんよ」
 硫黄島には、いまも一万二千体を超える旧日本軍将兵の遺体が埋まったままであるといわれる。摂氏七十度の地熱のなかで眠る英霊に永遠の平安を祈り黙躊を捧げるのみである。
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