津本陽著書
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          宮本武蔵(七人の武蔵)

■諸芸になみはずれた才能を示す武蔵、晩年は剣の理念で政治を夢みる

<本文から>
 大坂冬の陣には西軍浪人勢に参加して戦った。翌年大坂城落城ののち二十年間は、彼の足跡はたしかではない。
 その間に彼はなにをしていたか。
 播州姫路十五万石の城主、本多忠政が武蔵を客分として逗留させ、兵法を学び道を開いた時期に、武蔵は寺院の造庭、城下の絶取などをおこなったといわれる。
 姫路にひろくおこなわれていた東軍流三宅軍兵衛との試合も名高い。
 江戸にも長期間滞在し、神田お玉ケ池に道場をもち、門弟を指導していたことがあるという。名古屋にも数年足をとどめ、天下無双の達人として尾張家二代藩主光友の面前で、試合をおこなってみせた。
 四十歳前後の武蔵は入神の技を身につけていたようで、いかなる相手も立ちあえばまるで勝負にならなかった様子である。
 養子宮本造酒之助、伊織との出会いもこの頃のことであろう。
 武蔵ははやくから画業に通じていた。狩野元信の弟子海北友松、雲谷派の巨匠長谷川等伯に師事したこともあるといわれ、洗練された技巧を身につけていた。
 彫刻においても非凡の才を発揮し、肥後岩戸山の什宝として残る不動明王像は、名品として聞えている。
 彼は茶町湯、連歌、俳諧、軍学にもくわしかった。諸芸になみはずれた才能を示す彼は、五輪書地の巻にいう。
「万事において私は師匠はない。兵法の理をもってすれば、諸芸諸能もみな一道で通ぜざるものはない」
五十歳をすぎて小笠原忠真の軍監となり豊前小倉藩に身を寄せ、五十七歳で肥後細川忠利の招きで熊本に至り、仕えた。
武蔵が晩年になってそれまでの自適の生活をすて、細川家に仕えた理由はふたつあるとみられている。
 ひとつは武人の身を終える所として、尚武の気風が高い細川家をえらぶに至った。いまひとつは兵法者として剣の道を究めつくした体験から得た、治国経世の理念を実現させてくれる主君として、細川忠利をえらんだというのである。
 武蔵は剣の理念によって政治をおこなう夢を実らせようとするが、主君忠利が五十四歳で急逝したため、落胆する。
 五十九歳の武蔵は志を政道にのべる道を失い、一個の兵法者として身を終る無念さをかみしめつつ、門戸を閉ざし隠遁の生活にはいり、正保二年(一六四五)五月十九日世を去った。
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