津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          密偵

■試合に負け、至らなさを知った剣聖・佐三郎は春風館に入門

<本文から>
 「稽古では、実地真剣勝負をなせば、たとえ勝を得たとしても儀倖に過ぎず、真に明白の勝を得ることほできない。予は、外見体裁にかかわらず、真の理にしたがい、自然の勝を得てはじめて不敗の道を得たとなすものである。この道の真理を修めようとするならば、初心の者が予の門に入れば、三年間で身体充実するのを規則とする。
 すなわち三年とは、天然自然に体を練り、無理な太刀遣いをせず、剣法の本体がそなわり、他流に立ちむかうとも流儀の本体を乱さないようになるまで、鍛練するに要する期間である。
 予の門に入り剣法修行をする人は、三年間は近頃流行の撃剣道場にいって、試合をすることを許さない。これは予の門に入った弟子を、他に出すのを嫌うためではない。流儀の形をととのえるまでに、精神を乱すのを嫌うからである。真の剣法修行を望まない人は、決して予の道場へきてはいけない。予は無益の労をついやすを望まない。古来より諸流は他流試合を禁じ、剣法免許を得てはじめてこれを許した。これは、諸流の元祖が簸難辛苦してその道を発明し、流儀をたてたゆえんである」
 佐三郎は、規則の内容が肺腑に沁みわたる思いである。
 俺は道場で竹刀をふりまわし、ひたすら格好よく勝つことを念願し、小野派一刀流組太刀の本義をないがしろにしていたために、いつか剣の真理を忘れた畜生剣法に堕していたと、覚ったためである。
 岡田定五郎は、俺の迷いをひらかせてくれた恩人であった。あのまま順調に世に出たなら、捧振り剣術を得々とおこない、いなか名人で終ったであろうと思いあたり、佐三郎は冷汗を禁じえない。
 春風館道場に入門した初心者は、三年間一日も休まず稽古をする。
 稽古の内容は、たがいに一本をとりあう地稽古ではなく、上級者にむかい息つく暇もなく打ちかかる、掛かり稽古である。
 絶えまなく打撃をくりだす掛かり稽古はなみの剣術練習生なら五分もつづければ息がつづかなくなるものである。十分以上おこなえるのは、よほど身体を練磨した者であるといえよう。防具をつけて、ボクシングの激烈な打ちあいをすると思えば、その内容がわかる。
 春風館では、三、四時間にわたる稽古時間のあいだ、面をはずすことも休息をとることも許されない。一回の稽古を終れば、ただちに次の相手を求め、稽古を開始する。怠ける者はすみやかに退場を命ぜられる。
 佐三郎はいったんは痩せほそったが、半年をすぎる頃から、しだいに回復してきた。贅肉が落ち、筋肉が増強してきたのである。
 鉄舟は佐三郎の稽古ぶりを、注意ぶかく見守っていた。鉄舟には岡田に突き負かされた、佐三郎の苦悩がよく理解できる。
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■修行を終えたが宿敵は酒に溺れた姿になっていた

<本文から>
  岡田は、佐三郎がきたと知ると、ただちに立って佐三郎をむかえようとしたが、妻と門弟が懸命にひきとめ、試合は拒絶された。
 佐三郎にすでに復讐の念はなく、岡田と立ちあうことによって、自らが学び得た四年間の成果を、たしかめようとしただけであった。
 「やむをえない。これもまためぐりあわせというものだ」
 佐三郎は、かつての名剣土岡田の変りはてた姿に、寂蓼を覚えつつ、高崎を去った。
 高野佐三郎は、後年日本の剣聖といわれるまでに大成し、祖父佐吉郎の後継者にふさわしい名声を得た。
 七、八年前のことであるらしいが、埼玉大学教授山本邦夫氏が、佐三郎の喉に傷痕が残っていたかを、弟子数人にたしかめられたという。弟子の方たちは異口同音に「残っていなかった」という返事であったという。
 いずれも佐三郎晩年の弟子であったので、五十余年の歳月が傷痕を消したのであろうとの、山本氏の見解であるが、興味を誘われる挿話である。
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■拷問に耐えた弥太郎の興味ある人生

<本文から>
 石抱かせは三角に削った割木を六、七本ならべたうえに被疑者の両膝をまくって坐らせ、後ろ手に縛りあげた両手首を柱にくくりつける。
 その姿勢で坐っているだけでも苦痛ははなはだしいものであるが、正座させた膝のうえへ伊豆石を乗せるのである。
 長さ三尺、厚み三寸、目方は一枚で十二、三貫である。これを膝に乗せられゆさぶられると、たいていの男ほ苦痛で失神する。
 だが、弥太郎は瞑目したまま耐えた。石は二枚になり、三枚、四枚とふえ、ついに五枚となった。
 膝の皮膚は割木にくいこみ、血がはとばしる。
 「さあ、白状いたせ。そのほうも侍ならば、かような責苦を受けるのは恥であろうが。男らしくすべてを申し述べるのじゃ」
 吟味方が弥太郎の耳もとで説得に懸命となるが、返事はなかった。
 脂汗をながして耐えるのを見ると、下役人が石を揺さぶった。
 弥太郎の膝から腰の辺りまで蒼白に血の気が引いてくると、その日の牢問いは終る。なお継続すれば落命するからでかる。
 弥太郎は小伝馬町牢屋の西口揚屋に収監されたが、六十貫の石を抱いて、口を割らなかったという噂が牢内に伝わり、大評判になった。
 苛酷な牢問いに耐えぬく者は、牢内での英雄である。弥太郎は殺されても白状しないときめているので、数日の間を置き、腫れあがった足でふたたび石を抱かされても、従容として、身動きさえしなかった。
 「俺は両足が砕けたってかまわねえ。やっていもしねえ罪を白状して、手前らをよろこばせていられるか」
 苦痛のために高熱を発し、痩せおとろえても、弥太郎は役人に唾をはきかけ冷笑した。
 石責めで自白を得られないときは、海老責めがおこなわれる。囚人を後ろ手に縛り、あぐらをかかせておき、両足首をあわせて結び、その縄を首へかけて、まえへ徐々に締めつけてゆく。
 囚人は背中が海老のように丸くなり、ついには足首に顎がつく。その状態で転がし、耐えぬく者は天井から吊り下げて棒で打つ。
 海老責めをやられると肋骨が折れ、内臓が破裂する場合もある。
 弥太郎の体は、なみはずれて頑丈であったため、海老責めをくりかえされても、異常はあらわれなかった。
 彼は痛め吟味をくりかえされるうちに、失神して苦痛をのがれるようになった。恍憾として意識を失い、幾度冷水をかけ覚醒させても、じきに白眼をむき、よだれを流す。
 牢問いに慣れると、弥太郎の体は元気をとりもどしてきた。
 吟味役人たちは、やむをえず釣り責めをおこなうことにした。釣り責めは牢問いではなく、拷問であった。
 牢問いは訊問のなりゆきで勝手次第におこなってもよいが、拷問をするには評定所の許可が必要である。
 拷問は、それをおこなえば、吟味役人の手腕が拙劣であると見られるので、やむをえない場合のはかは、めったに用いない。
 弥太郎は釣り責めにも耐えぬいた。彼は取り調べをうけながら、明治元年七月まで、三年限を、揚屋の名主となって威張ってすごした。
 お辰も女牢で牢名主となり、大勢の女囚を手足につかっていた。二十二歳で入牢した彼女も、弥太郎と同様に牢問い、拷問をうけたが、ついに口を割らなかった。
 弥太郎は後年のざんげ話のなかで語っている。
 「またお辰は、私の召捕りになるときは、脇へ逃がしておりませんでしたが、そののち私の頭の諏訪若狭守へ、私は青木弥太郎の妾でございますと、自訴して出ました。町奉行所へまわされて吟味をうけたとき、この一件は青木の家内も知っているだろうな、と問われると、ご新造はいっこうこのことはご存じありませぬ。まったく私ひとり存じているばかりでございます。私はどのようなお仕置きをうけましても、苦しゅうございませぬが、ご新造はすこしもご存じありませぬと申したててくれました。掛りの役人もその侠気に感じたとみえて、家内は一度も呼びだされずにすみました。これはまったくお辰のおかげです」
 慶応四年正月、幕府が鳥羽伏見の戟で欺北し、東征軍が江戸に攻め寄せる形勢となり、将軍慶喜が上野寛永寺に謹慎すると、弥太郎はみずから願い出た。
「官軍より処罰を受けるのは、本意ではござらぬゆえ、いまのうちにはやばやと幕士の手で断罪していただきたい」
 明治元年七月二十日、弥太郎とお辰は新政府の特赦の恩恵に浴し、出獄した。」
 お辰は三年間の牢屋暮らしで何を感じたのか、釈放されたのちは弥太郎とは再会せず、どこかへ立ち去ってしまった。髪を切り、藤沢の清浄光寺か鎌倉の光明寺に、尼として入ったという噂が流れ、そのまま行方は知れなかった。
 弥太郎は人形町に青木亭という寄席をいとなみ、横浜と小塚原では頼家をひらいた。そののち王子の海老屋を手にいれたのである。
 弥太郎の晩年の住居は、飛鳥山北側山下から王子駅の辺りまでを敷地とする、公園のように広い庭のある家であったという。
 若い妻女と、幼い養女の三人家族でむつまじく暮らしていたというが、運のいい人物である。
 彼とお辰の無頼の過去は、どのような情熱につきうごかされてのものであったのか、興味をひかれてならない。
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■密偵・中島は愚かな同士と最後まで戦う

<本文から>
その夜のうちに甲府城に到着した。
 「やっぱりだめだ。途中でぐずついていたからだよ。いまさら悔んでみても遅い」
 中島登は、近藤、土方がうわついた行軍をしたため、時機を失したのに怒りをおさえられなかった。
 (こんどの戦も負けるだろう。俺はどうすればいい。脱走して、江戸で隠れ住むか)
 彼は新選組の仲間たちと別れようと思うが、なぜか脱走する気になれない。
 絞滑な薩長勢と戦い抜いて、最期をむかえたい。
 新選組はようやく大砲を運んできた小荷駄隊と合流し、四日早朝に雪に半身を埋もれさせつつ、笹子峠を越えて駒飼に着陣する。
 駒飼では、東山道支隊が板垣退助の指揮で甲府城に入ったとの情報を得た。
 寄せ集めの人数で編成されていた新選組からは、たちまち脱走者があいつぎ、総勢は馬丁をあわせわずか百二十一人に減少した。
 その夜、近藤たちは駒飼で軍議をひらく。
 結局甲州街道柏尾の辺りで、東山道軍と対戦することに決した。
 中島登は、不利な情況での戦闘は、避けるべきであると主張する。
 「味方の十倍もある敵と、戦ってみたところで負けるのはあたりまえだ。隊長、無駄に部下を殺すことはござるまい」
 近藤が沈黙すると、土方が窮境を打開する一策を案じた。
「神奈川の葉菜隊を、いまから呼んでくるぞ」
 菜葉隊は幕府歩兵の精鋭で、兵数は千六百人である。
「きてくれればいいがな。まず動くまい。誰も危ない戦いはいやがるものだ」
 土方は中島の捨てぜりふを聞きすて、馬を飛ばして神奈川へ走った。
 その夜、大砲組軍監結城無二三は、部下とともに柏尾の高地に大砲二門を据えた。
 三月五日、東山道支隊はすべて甲府に入城し、柏尾に兵をすすめてきた。
 近藤は山腹、街道筋におびただしい筆火を焚かせ、会津勢三百人が猿橋に到着したとの偽りの情報を味方へ流し、戦意をたかめようとした。
 さらに隊中ただ一人の砲手である結城無二三を勝沼へ派遣し、隊士徴募をおこなわせる。
「近藤さんは、剣をとってほ無双の遣い手だが、兵を操っては子供のようなものだ。どうにもならねえ。明朝合戦がはじまったら、味方は皆殺しにされてしまう。いまのうちに逃げたほうがいいぞ」
 中島登は、仲のいい島田魁にいう。
 島田は笑うのみであった。
 京都壬生屯所以来の、ふるい隊士たちは、危険に遭遇してわが身が破滅するとわかっていても、逃げないにきまっている。
 密偵をつとめてきた中島は、他の同士よりも世間の動きを的確に把んでいる。だが、彼も逃げられなかった。
 (俺はいままで探索方をつとめてきたが、俺のはたらきは近藤さんたちに、活かしてもらえなかった。役に立ったのは、伊東甲子太郎ら御陵衛士を殺したときぐらいのものだ。まあいい、俺は無駄死にをしてもかまわぬ。ばかな仲間とともに死ぬのだ)
 中島は雪に覆われた甲州の山野が、闇の底からあおじろく浮きあがってくるのを、みつめていた。
 三月六日の夜明けがきた。
 彼の傍に、砲手のいない二門の大砲が、砲身に暁の微光を宿していた。決戦が迫っている。
 中島登は、愚かな同士たちを愛していたので、逃げずに朝を待っていたのである。
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■新撰組・永倉の維新後の松前のエピソード

<本文から>
 義衛は大喝してまえに跳躍し、先制攻撃に出た。
 「そりやああっ」
 彼は胴を抜かれるのを警戒しつつ、相手の剣尖がさがった隙をとらえて、飛びこみつつ面を打ちこんだ。
 敵はうろたえのけぞって、まっすぐさがった。左右いずれかへななめにさがらず、一本の線を踏むように後退する敵ほ、追いこみやすい。
 しめた、と義衛は胴を抜く暇もなく逃げる敵を追いこみ、息もつかせずかさねて面を打ちこむ。
 「えい、えい、えーい」
 四度打ちこんだ面を敵は防ぎきれず、頭蓋に刃をうけ、血しぶきをたててのけぞった。
 義衛はそのまままえへ踏みだすなり片膝をつき、背後へ刀身をおおきく車にまわして振った。
 たしかな手ごたえが腕につたわり、義衛の背後から斬りかかったいまひとりの敵が、右膝をしたたかに斬りはらわれ、砂煙を蹴たてて転倒した。
 義衛は血刀をとりなおし、熊定に歩み寄る。
 「助けてくれ、命だけは、助けてくれえ」
 熊定は両手をあわせ、砂浜に坐りこむ。
 義衛は、油断なく刀を構えつつ、熊定に告げた。
「俺は謝まる相手を斬ったことほないから、安心しろ。それでは中屋への殴りこみは、やめるのだな」
 熊定は、無言でうなずいた。
 義衛は抜き身を提げたまま、熊定の子分たちが立ちすくむなかを、ひきあげていった。
 その夜、義衛が斬ったのは七人であった。頭を斬られた用心棒が死んだはかは、命をとりとめ、警察署長の上野が事件をもみ消した。
 熊定一家との乱闘は、たちまち松前の市中で評判となった。町の人びとは、杉村の若先生が、京都の新選組で静々の人物であった永倉新八であったと知り、おどろいた。
 義父の杉村松柏は、事情を知って、婿がならず者七人を斬った武勇伝を、諸方に吹聴して歩いた。
 義衛ほ事件ののち、町の嫌われ者を追放した勇者としてうやまわれる。杉村家へ撃剣を習いたいとおしかけてくる者が、あとを断たないようになった。
「俺は、戊辰ののちは刀に手を触れまいと思っていたが、いまごろになって人を斬ることになるとは、皮肉なことだよ」
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