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<本文から> 常陸国鹿島の各地には、親鸞の教化の足跡が残されている。
霞ケ浦に画した石岡市高浜には、爪かき阿弥陀堂という小さな堂宇があり、親鸞が石に爪で描いたといわれる、爪かき阿弥陀像が安置されている。
腫れものに悩む病人を治してやったとき、平石に爪で阿弥陀像を描きのこしたもので、いまに伝わっている。
地元では安産の神さま、病気の神さま、お阿弥陀さまと呼ばれ、毎年七月十四日に付近の女性が集まり、麦の団子をそなえ念仏をとなえるのが、習慣となっている。
親鸞が女性の亡霊を往生させた無量寿寺のある、鹿島郡鉾田町西南の半原に、かつて御経塚があった。
北浦に近い半原一帯は、竹木の生い茂る荒野であった。親鸞はそこを通る途中、竹の根を踏みぬき、血が溢れ出て、痺痛に堪えかね、うずくまってしまった。
親鸞は懸命に念仏をとなえ、痛みはようやくおさまった。供をしてきた年若い順信が、師の苦しみを見て涙ぐんだ。
「聖人さまは、都にお住まいなされなば、かような不自由をお忍びなされることもなきものを、衆生済度のために、かように難儀をなされるとは、おいたわしや」
親鸞は順信にいった。
「かような難儀も、この末世には弥陀の救いへの縁をむすぶよすがともなろう」
親鸞は痛みをこらえ、足をひきずり鹿島へむかえつつ、和歌を一首口ずさんだ。
小笠原迷う道芝くれないに
染めし血潮も形見ともなれ
その場所には、「御経塚」という塚がつくられたが、近年になって整地され、塚は消えてしまった。
親鸞が鹿島神官へしばしば参詣したのは、神祇不拝の思想に反するものであると考えられるが、当時、常陸一の宮であった鹿島神宮は、関東全域の宗教界に大きな影響力を持ち、神官と深い関係のある常陸大操の一族は鎌倉幕府から神官総追描便に任ぜられている。
常陸国で鹿島神宮を無視し、敵対すれば、関東で布教活動超することは不可能であった。親鸞はそのため、鹿島にしばしば詣でたのである。
半原で親鸞につきそっていた順信は、鹿島神官大官司の一族であり、参詣のときには常に案内役をつとめていた。
順信が親鸞の弟子になったのは、鹿島明神の託宣によるもので、「順信房信海」と称し、のちに親鸞から無量寿寺を譲られ、その開基となった。
親鸞のもとに集まり、その教えをうける周朋の数は、しだいにふえてきた。
下総の成然、新埋の信楽、信太の乗念、下妻の蓮位などは、小島草庵にいた頃から従ってきたが、いまでは古参の立場となっていた。
彼らは武士、名主百姓、商人などさまざまの階層の出身者であった。親鸞は文字を知らない小百姓、下人が教えを乞うてくれば、よろこんで会い、仏法を説き聞かせる。
法然の教えをうけついでのちも、雲のように湧き出てくる法義への疑問を解決するため、日夜経典を読み、要点を抜粋して、『教行信証』の草稿を書きついでいる親鸞の脳裡には、一文不知のともがらの、どのように素朴でつかみどころのない問いにも答えうる、膨大な教養が蓄積されていた。
親鸞は天性の話し上手である。彼に面接して、親しく教えを聞いた者は、「面授口決」の後継者といわれ、それぞれ道場を設け、大勢の信者をあつめ、法義を説いた。
彼らも親鸞と同様に肉食妻帯して、農業、商業にはげむかたわら、浄土真宗に帰依した人々とともに、法論をかわしあった。
道場は、その主人の私宅を使うものが多く、信者が入りきれなくなると、別棟の小屋を建てる。
親鸞は、延暦寺を出てのち、伽藍仏教と絶縁する決心をしていた。彼の理想とするのは、遺体を鳥や犬に食わせた賀古の教信の生涯である。
諸宗の宗祖は、いずれも伽藍を建立し、そこを久住の法城とする考えを持っていたが、親鸞は、そのようなおこないが、正信念仏の本義に則しないとした。
現世に声威を誇るのは、幻影を楽しむようなものである。
道場主となった後継者たちに、親鸞はいった。
「道場がなくばいかにも手狭なるときは、わが住居にすこし差別あらせて、小棟をあげてつくるべし」
だが、道場主となった者は、その拡張をひたすら願う。
専修念仏の教えを聞いたことのない者を、門徒に誘いいれるばかりでなく、同門の他の道場の門徒をわが傘下にひきいれようとしての争いもおこった。
道場主にとっては、門徒から献ぜられる布施物をふやすことが、重大な問題であった。親鸞は、その噂を聞き、吐きすてるようにいった。 |
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