津本陽著書
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      親鸞聖人伝 弥陀の橋は(下)

■親鸞の教化の足跡

<本文から> 常陸国鹿島の各地には、親鸞の教化の足跡が残されている。
 霞ケ浦に画した石岡市高浜には、爪かき阿弥陀堂という小さな堂宇があり、親鸞が石に爪で描いたといわれる、爪かき阿弥陀像が安置されている。
 腫れものに悩む病人を治してやったとき、平石に爪で阿弥陀像を描きのこしたもので、いまに伝わっている。
 地元では安産の神さま、病気の神さま、お阿弥陀さまと呼ばれ、毎年七月十四日に付近の女性が集まり、麦の団子をそなえ念仏をとなえるのが、習慣となっている。
 親鸞が女性の亡霊を往生させた無量寿寺のある、鹿島郡鉾田町西南の半原に、かつて御経塚があった。
 北浦に近い半原一帯は、竹木の生い茂る荒野であった。親鸞はそこを通る途中、竹の根を踏みぬき、血が溢れ出て、痺痛に堪えかね、うずくまってしまった。
 親鸞は懸命に念仏をとなえ、痛みはようやくおさまった。供をしてきた年若い順信が、師の苦しみを見て涙ぐんだ。
 「聖人さまは、都にお住まいなされなば、かような不自由をお忍びなされることもなきものを、衆生済度のために、かように難儀をなされるとは、おいたわしや」
 親鸞は順信にいった。
 「かような難儀も、この末世には弥陀の救いへの縁をむすぶよすがともなろう」
 親鸞は痛みをこらえ、足をひきずり鹿島へむかえつつ、和歌を一首口ずさんだ。
  小笠原迷う道芝くれないに
      染めし血潮も形見ともなれ
 その場所には、「御経塚」という塚がつくられたが、近年になって整地され、塚は消えてしまった。
 親鸞が鹿島神官へしばしば参詣したのは、神祇不拝の思想に反するものであると考えられるが、当時、常陸一の宮であった鹿島神宮は、関東全域の宗教界に大きな影響力を持ち、神官と深い関係のある常陸大操の一族は鎌倉幕府から神官総追描便に任ぜられている。
 常陸国で鹿島神宮を無視し、敵対すれば、関東で布教活動超することは不可能であった。親鸞はそのため、鹿島にしばしば詣でたのである。
 半原で親鸞につきそっていた順信は、鹿島神官大官司の一族であり、参詣のときには常に案内役をつとめていた。
 順信が親鸞の弟子になったのは、鹿島明神の託宣によるもので、「順信房信海」と称し、のちに親鸞から無量寿寺を譲られ、その開基となった。
 親鸞のもとに集まり、その教えをうける周朋の数は、しだいにふえてきた。
 下総の成然、新埋の信楽、信太の乗念、下妻の蓮位などは、小島草庵にいた頃から従ってきたが、いまでは古参の立場となっていた。
 彼らは武士、名主百姓、商人などさまざまの階層の出身者であった。親鸞は文字を知らない小百姓、下人が教えを乞うてくれば、よろこんで会い、仏法を説き聞かせる。
 法然の教えをうけついでのちも、雲のように湧き出てくる法義への疑問を解決するため、日夜経典を読み、要点を抜粋して、『教行信証』の草稿を書きついでいる親鸞の脳裡には、一文不知のともがらの、どのように素朴でつかみどころのない問いにも答えうる、膨大な教養が蓄積されていた。
 親鸞は天性の話し上手である。彼に面接して、親しく教えを聞いた者は、「面授口決」の後継者といわれ、それぞれ道場を設け、大勢の信者をあつめ、法義を説いた。
 彼らも親鸞と同様に肉食妻帯して、農業、商業にはげむかたわら、浄土真宗に帰依した人々とともに、法論をかわしあった。
 道場は、その主人の私宅を使うものが多く、信者が入りきれなくなると、別棟の小屋を建てる。
 親鸞は、延暦寺を出てのち、伽藍仏教と絶縁する決心をしていた。彼の理想とするのは、遺体を鳥や犬に食わせた賀古の教信の生涯である。
 諸宗の宗祖は、いずれも伽藍を建立し、そこを久住の法城とする考えを持っていたが、親鸞は、そのようなおこないが、正信念仏の本義に則しないとした。
 現世に声威を誇るのは、幻影を楽しむようなものである。
 道場主となった後継者たちに、親鸞はいった。
 「道場がなくばいかにも手狭なるときは、わが住居にすこし差別あらせて、小棟をあげてつくるべし」
 だが、道場主となった者は、その拡張をひたすら願う。
 専修念仏の教えを聞いたことのない者を、門徒に誘いいれるばかりでなく、同門の他の道場の門徒をわが傘下にひきいれようとしての争いもおこった。
 道場主にとっては、門徒から献ぜられる布施物をふやすことが、重大な問題であった。親鸞は、その噂を聞き、吐きすてるようにいった。
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■親鸞の往生と末娘の疑問

<本文から> 親鸞が亡くなったのは、『親鸞伝絵』では、弘長二年十一月二十八日の午刻(午前十一時から午後一時)であったと記しているが、専修寺本、西本願寺本系の『教行信証』の奥書には、未剋(午後一時から三時)と記されている。後者のほうが正しいといわれる。
 翌二十九日、東山延仁寺で遺体を火葬に付したが、その時刻は専修寺本『教行信証』と西本願寺本系『教行信証』で所伝が異なり、成時説(午後七時から九時)をとる後者が正しいとされる。
 拾骨は翌三十日におこなわれた。
 親鸞の臨終をみとったのは、弟尋有、末娘覚信尼、越後から見舞いにかけつけてきた益方有房入道のほか、下野国高田の顕智、遠江国池田の尊信も上洛し、葬送に参列したほかにも参じた面授の弟子が多数いたであろう。
 十二月一日、覚信尼から母の恵信尼にあて、親鸞の往生を伝える書状が送られた。
 鳥部野の北、大谷に墳墓が築かれたが、『親鸞伝絵』には一基の墓標に柵をめぐらしたものが,見がかれている。
 よく目にする五輪塔とは異なって、塔身の長い「横川様式」と呼ばれる笠塔婆である。
 石の塔婆は四十九日以内に立てるよう、比叡山中興の祖艮源が定めていたので、それに従えば、親鸞聖人の塔婆は、翌弘長三年の春にたてられたものであろう。
 覚信尼が、聖人示寂の三日後に越後へ送った書状は残っていないが、それに対する恵信尼の返書は現存する。
 三十八歳の覚悟尼は、聖人の臨終を終始見届けていた。彼女は諸人に崇拝される念仏者である父聖人の臨終には、紫雲がたなびくなどの奇瑞がおこり、弟子たちが讃仰するなか、荘厳な往生を迎えることであろうと思っていた。
 だが彼女の期待に反し、聖人は右脇を下に寝て小声にとなえつづけていた念仏がとだえたとき、亡くなられていた。
 覚悟尼は、その様子を忠信尼に記した。あのように病に苦しまれつつのご臨終で、ほんとうに浄土に往生されたのであろうかと、不安であったからである。
 忠信尼は越後で末娘の書状を読むと、ただちに返書をしたためた。
 彼女の胸中には、夫に最期の看病をしてやれなかった悲しさが渦巻いている。生活のため、やむなく離れてくらした晩年の月日は、空漠とした孤独の色にぬりつぶされていた。
 「殿がお浄土へおわせしは、何のうたがいもなきことじゃ」
 忠信尼は文机にむかい、長い手紙を一気に書いた。
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■恵信尼の覚信尼へ送った手紙

<本文から> ほかに、善鷲事件のおこった建長七年(三五五)の十二月十日の夜、五条西洞院の親鸞住房が焼けたのち、焼失した覚信尼への下人の譲り状を、建長八年七月九日と九月十五日にふたたびつくって送った二通をあわせ、十通である。
 また、『大経』の音読仮名書きがそえられている。
 この恵尼文書は、大正十年(一九≡)に西本願寺の宝庫で発見され、それまで架空の存在と見られることもあった親鸞の実在があきらかになった。
 恵尼公は、いつごろ亡くなったのであろうか。
 近年、三善氏のおかかえ医師であったという、板倉町山辺の旧家、藤牧家から不動尊の木像が発見された。
 木像の台座の裏に、「ちくせん」と銘が彫られていた。
 付属の文書に、
 「木仏尊像、手彫、ちくせんより授く。文永七年(三七〇)春、入道記す」
 としるされている。
 素朴な素人らしい作りかたであるので、尼公の自作かもしれないという人がある。
 また、結婚前、父三善為教か誰かにもらったものではないかともいう。
 それを尼公が臨終に際し、栗沢か益方に授けたのではないかという説もある。
 そうだとすれば、忠信尼は文永七年までは存命しており、八十九歳ぐらいまで生きていたことになる。
 夫の親鸞聖人の教化により、阿弥陀仏一仏に帰依した恵信尼と、不動尊像とのとりあわせは、奇異ではあるが、父の形見として、信心のうえでは矛盾を感じても、一生持ちつづけたと察することもできる。(『忠信尼公の生涯』大谷嬉子著による)
 越後の意信尼が京都の親鸞ととりかわした書状は、一通も残っていない。
 忠信尼が覚信尼に送った書状は、実際にはどれほどの数にのぼったのであろうか。覚信尼が恵信尼へ送ったであろう書状も、まったく残されていない。
 忠信尼の十二道の書状が、大正十年に西本願寺の宝庫で発見され、親鸞の実在がたしかめられたことは、夫婦のふかい絆を思わせるものであった。
 西洋史学が導入された明治の国史学界で、親鸞があらわした『教行信証』や真宗内部の史料である『親鸞伝絵』などは、真宗外部の史料にまったく見あたらない点に、疑問が集中した。
 親鸞の越後配流についての記録が、朝廷の記録、公家衆の日記にまったく見あたらない。
 外部資料がまったくなくても、内部資料に本人の筆跡があれば、その存在が確認できる。
 親鸞は、おびただしい自筆の文書、記録、聖教を残していた。それは宗内には、神聖な遺物として保存されている。
 しかし、それを綿密に研究すると、筆致の相違するものが出てくる。はたして同一人の筆跡であろうか。
 明治期の国史学界は、親鸞の実在について懐疑的になった。
 明治四十三年(一九一〇)、浄土真宗に僧籍をもつ長沼賢海博士が、長篇論文『親鷲聖人の研究』を著し、そのなかで、「本願寺系図」に記載されている家系を否定した。(『親鸞』赤松俊秀著による)
 親鸞が架空の人物であるという説は、はじめ東京帝大史料編纂所から出た。
 親鸞の実在を懐疑する風潮のなかで、長沼博士は、真宗の肉食妻帯の宗風、教会相続法、教会規式、宗名、源空(法然)と親鸞の関係につき、多数の史料によってうらづけられた、これまでの伝承を検討する研究を発表した。
 親鷲の家系につき、博士は伝えられるところを至疋する。
 南北朝時代、南朝、北朝に仕え、北朝では太政大臣になった洞院公定があらわした
 『尊卑分脈』所収の「本願寺系図」をしらべてみると、最初に編集した当時ではなく、本願寺の勢力が頂点に至った天文二十一年(一重二)に、組みいれられたものであるらしいということがわかった。
 そうであれば、親鸞の家系は、南北朝時代の公家社会に認められていなかったことになる。
 長沼博士は、『親鸞伝絵』(御伝紗)の史料価値も否定し、さらに、『親鸞伝絵』が、その根本資料とする『教行信証』を加親鸞の著述ではないと推論するに至った。
 長沼博士につづき、中沢見明氏が、『史上の親鸞』という著書によって、さらに親鸞の存在への疑惑をふかくした。
 それらの研究に対し、辻善之助博士が、大正九年に『親鸞聖人筆跡之研究』という著書によって、東西南本願寺、専修寺の宝物をすべて調査し、『教行信証』をはじめとする多くの書状が、親鷲自筆であることをあきらかにした。
 ついで忠信尼の自筆書状が、本願寺の宝庫から発見されると、娘の覚信尼にあてた十通の書状は、親鷲とその家族の存在した事実を詳細に立証す岳内容であった。
 しかもそのうち四通には、親鸞が法然の教えを聞くに至った動機、信仰のうえでの悩み、恵信尼が親鸞を尊敬していた内心が、あきらかにえがかれていた。
 恵信尼の書状によって、親鸞の実在を疑う説は一掃された。
『親鷲伝絵』、『口伝紗』も、こののち、信頼しうる史料にもとづいていることが、あきらかになった。
 飢饉、天災、戦乱、疫病、火事がたえまもなかった時代に、はるか越後から恵信尼の覚信尼へ送った手紙のうち十通が現代にまで残ったのは、奇跡にひとしいことである。
 雪深い越後で、親鸞と別れて暮らし、寂蓼に堪えて、おどろくほどの長寿を全うした忠信尼の、夫婦のあい慕うかたちとして残ったものだといえよう。
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