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<本文から> 法然は「僧尼合」の規定によって、得度のとき与えられた僧名を用いず還俗させられ、藤井元彦と改名した。
九条兼実によって、平重盛の旧邸小松殿に保護されていた法然は、左衛門府の府生清原武次ら七人に潤滑され、配所にむかった。
配所の土佐は遠流の地である。配所は京都から三百里(唐里)の距離は近流、五百六十里で中流、千五百里は遠流となる。土佐は遠流の地とされていた。
法然は「憎尼令」第五条の
「およそ憎尼、寺の院にあるにあらずして、ことに道場を立て、衆を聚めて教化し、あわせてみだりに罪福を説き」
という条項にふれ、還俗させられた。
法然は『行状絵図』によれば、
「禅定殿下(九条兼実)、土佐国まではあまりにはるかなる程なり。わが知行の国なればとて、讃岐国へぞ、うつしたてまつられける」
九条兼実のはからいで、土佐におもむくことなく、九条家領の讃岐へ移された。
親鸞も、僧尼令の咎めをうけ、俗名を藤井書信と称することになり、越後国国府へ流された。
朝廷の議定の席で、親戚の権中納言六角親経が弁護し、死罪に処せられるところを遠流に宥免されたという説は、疑わしいといわれるが、越後に遠流になるについて、親戚のはからいがあったのはたしかであろう。
越後は忠信尼の父三善為教が越後介をつとめたことがあり、先祖の為長、為康という父子二代が越後介になっていたので、そのときに得た所領があった。
そのうえ、伯父宗業が、親鸞の流罪がきまる直前の正月十三日に、越後権介に任ぜられていた。
彼はその後、式部大輔に任ぜられるまで、満四年ちかく越後権介をつとめた。
親鸞のむかう北陸道の諸国には、専修念仏の布教がひろくおこなわれ、僧尼の活動もさかんであった。越中国では光明房という多念義をひろめる憎がいた。
越後国府は、京都から送られてくる通信が、二十日間で届く便利な土地であった。直江津の湊をひかえているからである。
親鸞は直江津付近の居多の浜へ、便船から下り立ったといわれる。
当時の道は、京都から十数里の若狭小浜湊へ出ると、あとは直江津まで海路をとることができた。 |
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