津本陽著書
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      親鸞聖人伝 弥陀の橋は(上)

■親鸞は北陸へ流罪

<本文から> 法然は「僧尼合」の規定によって、得度のとき与えられた僧名を用いず還俗させられ、藤井元彦と改名した。
 九条兼実によって、平重盛の旧邸小松殿に保護されていた法然は、左衛門府の府生清原武次ら七人に潤滑され、配所にむかった。
 配所の土佐は遠流の地である。配所は京都から三百里(唐里)の距離は近流、五百六十里で中流、千五百里は遠流となる。土佐は遠流の地とされていた。
 法然は「憎尼令」第五条の
 「およそ憎尼、寺の院にあるにあらずして、ことに道場を立て、衆を聚めて教化し、あわせてみだりに罪福を説き」
 という条項にふれ、還俗させられた。
 法然は『行状絵図』によれば、
 「禅定殿下(九条兼実)、土佐国まではあまりにはるかなる程なり。わが知行の国なればとて、讃岐国へぞ、うつしたてまつられける」
 九条兼実のはからいで、土佐におもむくことなく、九条家領の讃岐へ移された。
 親鸞も、僧尼令の咎めをうけ、俗名を藤井書信と称することになり、越後国国府へ流された。
 朝廷の議定の席で、親戚の権中納言六角親経が弁護し、死罪に処せられるところを遠流に宥免されたという説は、疑わしいといわれるが、越後に遠流になるについて、親戚のはからいがあったのはたしかであろう。
 越後は忠信尼の父三善為教が越後介をつとめたことがあり、先祖の為長、為康という父子二代が越後介になっていたので、そのときに得た所領があった。
 そのうえ、伯父宗業が、親鸞の流罪がきまる直前の正月十三日に、越後権介に任ぜられていた。
 彼はその後、式部大輔に任ぜられるまで、満四年ちかく越後権介をつとめた。
 親鸞のむかう北陸道の諸国には、専修念仏の布教がひろくおこなわれ、僧尼の活動もさかんであった。越中国では光明房という多念義をひろめる憎がいた。
 越後国府は、京都から送られてくる通信が、二十日間で届く便利な土地であった。直江津の湊をひかえているからである。
 親鸞は直江津付近の居多の浜へ、便船から下り立ったといわれる。
 当時の道は、京都から十数里の若狭小浜湊へ出ると、あとは直江津まで海路をとることができた。
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■妻帯し子をもうけた

<本文から> 親鸞は恵信尼とのあいだに、阿古、太郎、次郎の三人の子をもうけていた。
 末子の次郎は、建暦元年三月三日に誕生したので、よだれかけをつけ、さかんに座敷のうちを這いまわり、親鸞の膝にのぼりたがる。
 親鸞は流人となり還俗させられたとき、藤井書信という俗名を与えられていたが、勅免を機にかねて考えていたとおり、愚禿親鸞と姓名をあらためることにした。
 改名ののちも、書信を仮号として、書信房親鸞と名乗ったが、愚禿という姓は、非憎非俗の沙弥としての生活にはいる決心をあらわしたものであった。
 沙弥とは、剃髪法衣をつけているが妻子をもち、僧の常格にあてはまらない修道者の呼び名である。
 親鸞は、次郎が旅に耐えられるまで成長するのを待って、法然のいる京都へ帰ることにした。
 越後に流されているあいだに、故郷の様子がどのように変わったであろうかと、帰心が募る。承元二年(三〇八)閏四月、京都では四条から七条にかけて大火があったが、災禍をこうむった縁者はいない。
 親鸞は、五年に近い流罪の歳月のあいだに、おびただしい仏典、経論を読み、胸中にわだかまる疑問は多かった。仏教諸山示では、聖道門、浄土門の信仰がまじりあい、密教と顕教の区別があきらかにされていない、混沌とした有り様である。
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■越後にとどまった7年間

<本文から> 彼は聴聞の男女にいう。
「法を説く者と聴く者の心得べきところをあきらかにした『大集経』という経典がある。そこには、つぎのように書かれておる。法を説く者は、おのれを相手の昔しみをとりのぞく医者であると思え。
 説き与える法は、甘露の味わいであり、醍醐の妙薬であると思えとな」
 甘露は、不死の効能があるといわれる仙酒・霊薬。
 醍醐は、精製した乳製品でつくった最上の美味であり、医薬品である。
「また法を聴く者は、仏法をふかく会得して味わう心を養い、重荷を背負うたるごとき、身内の煩悩が消えてゆくと思え。法を説く者、法を聴く者は、あいともに仏法をさかんにしつつ、仏の前にあるゆえにのう。
 もし人が、心から阿弥陀仏の本願を信じて一心に念仏すれば、山のなかにおろうが、村のなかにおろうが、畳も夜も、坐っておるときも寝ておるときも、すべての世界の諸仏は、いつでもその人を見てござる。それでいつでもその人の供養を受けてござるのじゃ」
 自綾のうちかけをかぶった、たおやかな女性が、冴えわたる声で聞いた。
 「み仏のお姿を観想いたさず、もっぱらお名号をとなえよとおすすめなされるは、いかなるわけでござりましょうか」
 地元の名主の妻であろうか、おだやかであるが、諸人にぬきんでた、いかにも学問を身につけた様子のうかがわれる風情である。
 親鸞は答えた。
「衆生は仏を観ずるに心が粗雑にて、思いがあなたこなたへ乱れ飛び、たやすく成就いたさぬゆえ、釈尊が凡俗を哀れみなされ、ひたすら名号をとなえよと、すすめなされたのじゃ。称名は行じやすく、子孫が相続して往生できるゆえにのう」
 女性はうなずき、親鸞にむかい合掌した。他の女性が聞いた。
「念仏をとなえるときは、西方にむかうのでござりますか」
「いかにも、西方浄土にむかうのがもっともであろう。大樹が倒れるときは、かならずその樹の傾いておるほうに倒れるのと、おなじ理じゃ。いかにしても、西方浄土へ身を向けることができぬときは、心中にてそのつもりになるだけでよい」
 親鸞が越後にとどまったのは、およそ七年間であった。
 越後国府に配流されてのち五年間は、三十五歳までに積みかさねてきた学問をあらためてふりかえり、整理して自問自答する月日を送った。
 法然上人から、吉水の住房で専修念仏への廻心の教えを授けられてのちの、鮮明に脳裡に残し、冊子にも書きとめてきた学問の内容を、あらためて記述してみて、その間に湧き出てくる疑義をただし、理解をさらに深めてゆく作業に熱中する。
 先覚の源信、師の法然がおこなったように、数多い仏典の釈義の書物のうちから、専修念仏の立場を確証しうる、文章の要義を抄出し、記述してゆくことによって、内面の確信がさらにふかまってゆく。
 そのような作業は、親鸞にとってよろこびをともなうものであった。彼は草庵のほのぐらい一室で、毎日先覚、先縦と会い、その肉声を聞ける思いを楽しむ。
 宗教者として専修念仏の不退転の道を歩み、命あるかぎり愚痴の衆生に極楽の平安を教えるほかに、親鸞の望むところは何もない。
 恵信尼は夫を理解し、勉学の環境をととのえようと、心を砕いてくれる。三人の子は病を得ることもなく、順調に育っていた。
 それに、いつ襲ってくるかも知れない疫病、飢饉が、鳴りをひそめていた。
 親鸞は、朝夕に合掌して、わが身の平安を阿弥陀仏に感謝した。
 法然滅後は最信、覚書に案内され、上越後から下越後の各地の寺院に参詣し、念仏を望む者に説教した。
 それは親鸞が四十一歳になった建保元年(三一三)から二年のなかばにかけての、みじかい歳月であった。
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