津本陽著書
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          名将名城伝

■信長、秀吉、家康の性格を物語る「天下人の城」

<本文から>
 三者の城の特徴をあげると、信長は安土城を天下一統までの政庁と見ていたようである。安土城の壮麗な外観は、かれの強敵に対する警戒色であった。信長は政治状況が変われば、どのようにも対応できる徹底した現実主義者である。安土城はかれにとって一時の本拠にすぎなかったと考えられる。
 秀吉は信長に育てられた武将であるが、信長のような理想主義者ではなく、きわめて世俗的で権威主義的な考え方をした。かれは従一位大納言、関白、太閤と位人臣をきわめ、子息秀頼にわが政権を譲ることに汲々として、信長にくらべあきらかに人物がちいさかった。大坂城はかれの現世欲の結実である。
 家康は戦国期を生き抜いた経験によって、きわめて慎重な、攻めよりも守りの方針をつらぬいた。江戸城は家康の性格の通り、江戸を日本最大の城下町のかなめとして考えぬかれた、五層七階の大天守をいくつもの小天守が護る、環城型をとっている。 
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■岐阜城の因果

<本文から>
 しかし因果は斎藤三代だけにとどまらなかった。岐阜城を大改造した信長は、上洛して実質的な天下の覇者となると、自らは安土に壮麗な城を築いて近江へ移り、岐阜には嫡子秋田城介信忠をおいた。二人が、土岐一族の流れを汲むといわれる明智光秀の謀叛、いわゆる本能寺の変によって命を落としたことは周知のとおりである。
 信忠のあとには信長三男信孝が入城する。だが、柴田勝家に与した信孝は賤ケ岳の合戦後、城を追われ、秀吉呪詛の歌を残して尾張野間の大御堂寺で自刃する。次に城主となったのが、信長の乳母子池田勝入斎信輝の長子之助だったが、かれは城主となってわずか一年後に、父信輝とともに長久手の戦いで戦死する。
 因果の連鎖はさらにつづく。之助のあとを弟輝政がつぐが、天正十人年三河吉田へ転じ、あとへ秀吉の甥羽柴秀勝が入る。秀勝は翌々年、朝鮮の役に出陣、かの地で陣没する。
 秀吉は秀勝の幼い娘に信忠の遺児織田秀信を配し、岐阜城主とした。慶長五年(一六〇〇)七月、秀信は関ケ原の戦いをまえにして、石田三成から戦勝のあかつきには濃尾二カ国を与えるとの申し出を受けて、西軍に加担する。
 八月二十三日早暁から、浅野幸長、細川忠興、福島正則らの東軍が岐阜城に攻めかかり、秀吉が稲葉山城を攻めたと同様に水の手口から乱入し、わずか一日で秀信を降伏させた。秀信は剃髪して高野山にのぼり、五年後の慶長十年に二十八歳で死を迎える。こうして信長の岐阜入城より三十四年目にして、織田宗家は断絶した。
 道三以降十人の城主のうち九人までもが、不幸な死を迎えたのは、結果からみればいかにも因果応報にみえる。家康もそれを忌み、関ケ原戦後、岐阜城を廃城としたと伝えられる。
 しかし実はそうではなかろう。岐阜城は戦略的要地に位置するだけに、いったん事あれば攻防の焦点となる。にもかかわらず、その重責にたええない斎藤・織田・豊臣のひ弱な二代目、三代目が、血脈だけで次つぎと主に任じられたことが、次つぎと夭折、敗北するような結果を招いただけのことである。読みの深い家康は忌む振りをして、実は徳川家の安泰を考え、この要害を誰にも渡さない決断をしたのではなかろうか。
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■地の利を得なかった信玄のゆえに「人は城、人は石垣、人は堀」

<本文から>
 武田晴信、入道して信玄の政治姿勢は「人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、あだは敵なり」という歌の中に凝縮されている。
 戦国群雄の出発点をみると、織田信長は尾張半国守護代の家老家の出で、父信秀の死去の際に相続したのはおよそ八万石と想定されている。これに対して北条氏康は父氏綱の代に伊豆、相模、武蔵をすでに分国としており、今川義元も足利将軍家分家として駿河、遠江両国を守護していた。上杉謙信も地位こそ越後守護代ではあったが、三十九万石の石高を有し、加えて晒などの原料となる青苧の移出で莫大な運上を得ていた。対して武田信玄は由緒正しき甲斐源氏の棟梁家で、かつ甲斐国守護職をつとめる武田家を継ぎ、石高も二十二万七千石余りあり、北条氏康、今川義元、上杉謙信には劣るにしても、一見したところ織田信長よりは遥かに有利な地点から出発したかのように見える。
 しかし慶長年代の数字だが、信長の本国である尾張は五十六万石、北隣の美濃は五十四万石の石高があり、これに南の伊勢を合わせると百五十八万石余りになる。信長の前には一瀉千里、豊饒な領国が広がっていた。しかも尾張は畿内と東国を結ぶ交通の要路に位置し、商業交易も盛んであった。対して甲斐はその国名が「峡」、つまり山あいの狭小空地からきているといわれているように、四方を富士山はじめ、わが国第二の高山白根北岳など峻険志岳地帯に囲まれた東山道の辺すうである。地味は痩せ、生産力も低い。交通の大動脈からも外れており、商業交易による運上も微々たるものである。
 いうまでもぎ、戦国においても現代においても軍事力を支えるのは経済力である。その点において、信玄は戦国群雄中もっとも劣位に置かれていたといって間違いない。しかも信玄の領国は南が今川義元、東が北条氏康という強敵に接しており、勢力拡大の方向もおのずから北の信濃以外になく、その意味で戦略もきわめて限定されたものにならざるを得なかった。信玄は、「梢をわたる猿喉」と揶揄された信長のように、融通無碍に攻撃の触手を四囲にのばすわけにはいかなかったのである。
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■石山本願寺の支配状況

<本文から>
 真宗中興の祖である本願寺八世蓮如が摂津国生玉庄内に創建した大坂御坊を基とする石山本願寺は、諸国門徒にとっては「聖地」であった。門徒は本山に参拝することを「上洛」といい、来世に成仏できるよう、遠路の旅をもいとわず、大坂石山へいくのを生涯の念願としていた。
 中世の人たちは、現世よりも来世に望みをかけていた。現世での生活があまりにもはかなかったからである。貧困と飢え、はやり病、天災、戟乱など常に死の脅威にさらされていたかれらは、現世に愛想をつかし、頓証菩提、いかに成仏するかを最大の願望として抱いていた。
 諸国の末寺を支えているかれら門徒たちは、石山本願寺を大きな後ろ盾として無明の時代を生きていた。
 門徒であることによって、講をむすび、互いに助けあい、生計の道をたてることができた。また諸国末寺は、本願寺の巨大な組織力を背に負っているので、地元の領主の干渉をはねのけ、一定の地域を寺内と称して治外法権の自由を獲得することができた。
 門徒の団結のまえには、上杉や毛利、信長すらも年貢、課役を強制できないのである。史料によると、門徒は本山に懇志と呼ばれる志納金を納めると、大名に租税を納めなくてもよかった。懇志の額は、租税の十分の一にすぎなかった。
 領主の命令も、「寺内特権」を避けて通らねば、領内の治安が保たれなかった。対応を誤れば領内で大反乱が起き、加賀のように百姓の持ちたる国になってしまう。蓮如が生きていた長享二年(一四八八)、加賀では三十万人といわれる一向一揆が蜂起し、守護富樫政親を亡ぼし、以来、加賀は本願寺の直轄地のようになっていた。
 原則として上下の区別のない地上の楽園が寺内であり、寺内が実現できたのは、イギリスの総人口が三百五十万人の時代に、五百万を超える門徒を有し、その力を背景に本願寺が鬱然と大坂の地に存在したからである。
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■和議に応じて最大の勝機を逸す「ぼんぼん」だった顕如

<本文から>
 本願寺にとって、信長との十年戦争における最大の勝機は、実に対決最初の年であるこの元亀元年の攻防にあったといってよかろう。
 まず九月二十三日、北国勢京都乱入の報に驚き、信長が急ぎ軍を帰したとき、本願寺勢が三好党とともに信長を追撃していたならば、信長の命運もそこまでだったはずである。
 信長退陣を遠望していた下問頼龍が、顕如にこう献策した。
 「門徒勢にて追い討ちをかけなば、三好衆も討って出るにちがいありませぬ。われらが織田勢を駆け悩ますうちには、北国衆は上洛いたし、信長は美濃への道をも閉ざされ、袋の鼠となること、必定にござりましょう」
 顕如のこたえは、しかしこうであった。
 「この石山本山は武門にてはなく、仏法擁護の法城なれば、仏威を冒さんとして攻め寄する賊は打ち払うとも、兵を退いて帰りゆく者を追い討ちいたすとは、思いもよらず」
 だが、いったん逃げたかに見えた勝機はさらにつづく。浅井・朝倉連合軍三万が比叡山に登り、籠城の態勢をとり、三好党が摂津方向から京都をうかがう。そして近江、伊勢、尾張などで一向一揆が蜂起する。この状況下で、信長は動くに動けず、二人の弟を見殺しにせざるをえなかった。
 あとしばらく、比叡山麓で織田勢を雪隠詰めの状態にしておけば、信長の本拠尾濃と畿内を結ぶ交通は遮断され、織田勢は補給に困難をきたし、退却せざるをえなくなったはずである。そこを追撃すれば、さしもの信長も命運がつきるか、すくなくとも再起不能の打撃を受けたことはまちがいない。
 だが、顕如はここでも間違いをおかす。
 窮地におちいると、信長は常套手段のように将軍義昭を動かし、朝廷の勅許をえて和議にもちこむ。元亀元年末の窮地も、まず信長は禁裏に働きかけ、本願寺との和睦をすすめて乗り切ろうとした。
 顕如が青蓮院門跡の斡旋を受け入れて、和議に応じたのは、十一月十三日のことである。十一月末になると、朝倉義景もまた弱気の虫をだし、和議に応じて兵を退く。かくて信長は絶体絶命の窮地をからくも脱したのである。
 復讐の念に燃える信長は、その後、敵を分断し、執拗に一つひとつ拠点をつぶしていく。信長には天下布武という目的があり、目的達成のための戦略が常に用意されていた。熱情にもただならぬものがあった。
 翌年九月、信長は朝倉と結ぶ比叡山延暦寺を焼き討ちし、天正元年(一五七三)四月に武田信玄が死去すると、七月には信玄西上を信じて挙兵した足利義昭を追放し、足利幕府を亡ぼすにいたる。さらにこの年八月、朝倉義景を越前大野で死に追いやり、騎虎の勢いで小谷城の浅井長政をも滅亡させる。
 すさまじいまでの信長の天下布武の動きに対して、顕如の動きはいかにも鈍い。
 かれは信長を圧倒する巨大な武力と富とを擁しながら、それを護法という守りの立場でしか用いることをしなかったし、できなかった。信長の動きに応じて、各地で一向一揆が散発的に蜂起する程度では、とても機動的に作戦を展開する織田軍団にたちうちできるわけはなかった。その意味で顕如には戦略的限界があった。
 国学院大学の二木謙一名誉教授によれば、石山合戦は天草の乱にまでつづく農民と武士との戦いの結節点となった戦いであり、ここで一向一揆側が勝利していれば、日本は加賀同様「百姓の持ちたる国」になっていたと考えられる、という。
 鎖国政策と士農工商の身分制度に縛られた徳川時代と、浄土真宗という一宗教よる支配体制が、日本人及び日本にとってどちらが幸福だったか、判断しかねるところだが、顕如の側に創造的国家ビジョンがなかったことだけは確かであり、そこに天下布武という明確な目的を有する信長に敗れた最大の理由があるといっても、あながち間違いではなかろう。
 また顕如は、本山の奥深くで大事に育てられた、いわゆる「ぼんぼん」でしかなかった。野性児信長と、勝敗にかける真剣味もちがった。これが蓮如だったなら、どういうことになっていたろうか。
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