津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          松風の人

■佐久間象山の塾へ

<本文から>
  松陰がはじめて象山を訪問したのは、嘉永四年(一八五一)五月であった。七月に門人として入塾。その後十二月なかばまで経学(儒学)、兵書、砲術を学び、その後朋友宮部鼎蔵らとともに、房総沿岸から奥羽へ視察の旅に出た。このとき藩庁から過書の交付をうけていなかったので、嘉永五年四月に江戸へ戻った。のち、脱藩の咎めをうけた。
 松陰はすぐに佐久間塾をたずねた。彼はそのとき片足に草履、片足に下駄をはき、破れ袴をつけており、湯銭もないといい、手足はまっくろに垢に覆われ、浮浪人のようであった。
 象山は松陰を風呂にいれ、食事をさせ、衣服を与えたのちに学術時事につき聞いて、いうところことごとく時流をついているとして、感じいった。門人たちはそのさまを見て、ささやきあった。
 「人間同士の気が合うというのは、曰くいいがたいところがあるものだな」
 松陰は脱藩の罪により、士籍を剥奪され世禄を奪われ、実父杉百合之助に預けられたが、その才を惜しんだ藩主毛利敬親によって罪を赦され、十カ年間の諸国遊学を許された。
 象山は、嘉永六年五月ひさびさに松陰に会うと、弟を迎えるようなあたたかい態度で彼をもてなして、いった。
 「士はあやまちなきを貴しとはせぬ。よくあやまちをあらたむるが貴い。なおよくあやまちを償うをもっとも貴しとなす。方今国家多事のとき、よくなしがたき事をなし、よく立てがたき功を立てるは、あやまちを償うのもっとも大なるものじゃ」
 松陰は四日に南部藩士渡辺春汀らを訪れたあと、長州藩桜田藩邸に立ち寄ると、道家龍助が顔を見るなりいった。
 「アメリカの黒船四腹が、浦賀表へ昨日の朝、きたそうじや」
 「黒船とは何かのう」
 「分らんのじゃ。鉄艦かも知れぬ」
 松陰は佐久間塾へ駆け入ったが、象山は塾生を連れ、浦賀へ出向いたといい、留守であった。
 夕方になると市中は行きかう人車の物音で騒然となってきた。松陰は桶町河岸の鳥山塾で来客に兵書を講じていたが、戌の五つ(午後八時)頃になって、「書を投じて立ち、袂をふるって立つ」といういきおいで、浦賀へむかった。 
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■獄中で食物を省いて金を貯め金子に墓前に花筒を捧げる

<本文から>
  彼らはただ生きているだけであった。前途にまったく光明を見出せない憂鬱のなかに沈みこみ、不平と慎悩とを重ねた末に荒廃していった彼らは、退屈きわまりない日々にしだいに慣れてゆく。
 変化のない日常で、わずかに飲食を愉しむのみであった。十一人の囚人は、前年十月二十四日、突然入獄した二十五歳の松陰が、かつて明倫館兵学師範をつとめていた秀才で、盗賊改方杉百合之助の次男であり、下田踏海に失敗したことを知っておどろく。
 私利私欲のために罪を犯したのではなく、国事に挺身する志士として国禁を犯したのである。囚人たちは松陰が、怠惰に日を過ごす桂中の獣のような彼らを軽蔑するだろうと思っていたが、新参者としてつとめねばならない獄中の雑事を、手早くかたづけるのを見て、すなおな性格であるのを知る。
 やがて金子重之助が病死ののち、毎日の食物のうち、汁と菜をはぶき、二百五十文を貯め、墓前に花簡を捧げたのを知り、感動した。
 囚人たちにとって一日の愉しみが食事にあったためである。獄中ではほかに何の愉楽も見つけだせない。松陰はその唯一の愉しみを自ら禁じ、亡友への献金をした。
 松陰は野山獄にいて、常に恩師佐久間象山を忘れたことがなかった。江戸小伝馬町牢に在獄のあいだ、師弟は法廷で対面するのみで、言葉をまじえる機はなかった。ただたがいに唱和する詩によって感懐を伝えた。
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■松下村塾での教育

<本文から>
 増野は山代(玖珂郡)の医師の息子で、十月一日、杉家を訪ねてきた。吉田栄太郎は杉家の隣に住む足軽の子で、十三歳のとき、藩主参勤の行列に加えてもらい江戸に出た。その後も江戸にいった。時勢に関心の深い少年であった。
 栄太郎は松陰の叔父久保五郎左衛門の塾に学んでいた頃、伊藤利介(のちの博文)とならび称された俊秀であった。彼は安政二年(一八五五)十月江戸大地震の際大活躍をして賞賜を与えられた。
 のちに松陰の遺志を継ぎ、尊撰運動をおこなううち、元治元年夏、京都池田屋で諸藩有志と会合していたとき、新選組の急襲をうけ、加賀藩邸前で会津藩兵と戦い討死した。二十四歳であった。当時は吉田稔麿と名乗っていた。
 増野と吉田は同年である。彼らよりも四歳年上の松浦亀太郎は長州藩士根来主馬の陪臣で幼少の頃から画法を学んでいた。彼もまたのちに松陰の遺志を継ぎ、文久二年(一八六二)久坂玄瑞らとともに上京し、藩老長井雅楽の開港論に反対し、暗殺しようとして果さず、いたずらに時の推移するのを憂い京都粟田山中で切腹した。二十六歳であった。彼の描いた松陰自賛の肖像は、師の面影をいまに残す唯一のものである。
 松陰は、この三人の少年に増野無答、吉田無逸、松浦無窮とそれぞれに無の字をつけた字を命名した。彼らは「三無」と称された。松陰はこの三人を、他の門下生よりも重視していたようである。
 安政三年九月、松陰は『松下村塾記』を記した。このとき、松下村塾といわれていたのは、杉家における松陰の幽居ではなかった。松陰の外叔久保五郎左衛門が、杉家東方およそ半町のところにある自宅にひらいていた私塾のことである。
 松陰が藩の許可をうけて自ら松下村塾をひらいたのは、安政五年(一八五八)七月であった。
 松陰は「僕近頃久保翁のために松下村塾記を作り、略志す所を謂う」と記した。久保塾には塾生が七、八十人いたが、教育の水準は低く、男女の児童を集め、寺子屋のような授業をしていた。
 『松下村塾記』には、教育によって日本を興隆にみちびき、こののち松陰の志を継承し、衆人を奮起させる人物をつくりだしたいとの意が記されている。
 松陰は黙寮と語りあったときに、胸に刻みつけた、一誠、兆人を感ぜしむという言葉の通り、死ぬときはわが志を継ぐ者を現世に残してゆき、いつかは志を達成するまで自分が点じた炎を消してはならないと思っていた。
 そのため、三無と呼ぶような俊秀を後継者として選んだのである。近所に住む吉田栄太郎がきて、「先生、学問をお教え下さい」といったとき、松陰はこころよく応じた。
 「よくきた。いっしょに勉強するか。まずこの本を読んでみろ」
 本をうけとり、一読した栄太郎は感想を述べた。
 「私はこのようなことを学ぶために、きたのではありません」
  松陰はおどろき、栄太郎の顔を見つめた。この少年は勉学の目的をたしかに胸中に蔵している。これこそ自分が求めていた弟子だと思い、胸をはずませ、「孟子」 の一節をさしだした。
 「この本を読んでみたまえ」
 栄太郎が読んだのは、過誤を犯した君主のもとを離れ他国へゆき、高位についた賢者の話であった。
  栄太郎はその本を読みおえ、松陰にたずねた。
 「命を賭けて君主を諌めようとしなかった者が、なにゆえ聖賢になれたのですか」
  松陰はそのとき栄太郎が、わが没後もかならず後継者となる資質をそなえていると、見抜いたのである。
  松陰の『松下村塾記』 には、松陰の国士養成のための教育観がつぎのように率直に述べられている。
 「 松下村塾の記
 長門の国は山陽の西の片隅にある。萩城は連山の陰を蔽い、激海にむかう要衝の地である。
 その地は海を背にし、山にむかい、地形すぐれず隠時としており、吉見氏の廃墟で古来歴史上の要地となったことはない。
 二百年前から毛利家の治所が置かれた。このため山海の産物が四方より集まり、厳然たる一都会となった。
 城の東郊はすなわちわが松下(本)村である。松下村の南に大川が流れている。川の水源は数十里の山間にあって、人跡の届かぬところである。昔、平氏の落人が隠れ住んだ。
 その東北に二山がある」
 記述は郷土の歴史から説きはじめている。
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■門人には朋友、同志として勉学をはげました

<本文から>
 松陰は入塾してくる門人に、師として教育するよりも、朋友、同志として勉学をはげまそうとした。
 彼は岡田耕作という十歳の少年が、正月二日に授業をうけにきたのをよろこび、孟子、公孫丑下篇を講義したのち、耕作に告げた。
 「村塾の第一義は、時勢にうといいなかの風習を一洗し、戦場にいるような心構えをするところにある。ところが新年になれば、士気は眼に見えてゆるんでしまう。
 正月三力日のうちに、来塾して年頭の挨拶をする者はいるが、学業を請う者はいなかった。いま、アメリカの使者は江戸に入り、尊撰を唱える義士は獄に下り、天下の大変動の機は迫っている。
 新年の祝儀などしているときではない。松下村塾の士がすべてこのように気を弛めていては、なにをもって天下に唱えられよう。耕作がきた切は、たまたま群童の魁をしたのである。群童の魁となることは、天下に魁となるための最初の行動である。
 お前はまだ十歳である。こののち自ら激励して学ぶならば、その前途はどのようになるか知れないのだ」
 松陰は岡田耕作を幼童と見ることなく、同志として語りかけている。
 十五、六歳の少年であった品川弥二郎にも、つぎの書状を与えた。
 「弥二の才能は得がたいものである。年はおさなく学問はまだ初歩ではあるが、私は年長の識者を待つように期待しているのだ。どうして長いあいだ姿をあらわさないのか。
 時勢は切迫している。心中になにかためらうものがあるのか。それとも自分の考えがあり、私の論に従えない理由があるのか。
 つまらない遊戯に時を過し、学業を荒失させるようなことは、弥二の才にしてなすべきことではない。
 自分の意見があれば、こなくてよい。意見がなければ、村塾へくるがいい。三日を過ぎてこないときは、弥二は私の友ではない。去る者は追わない。私の志はすでに決している」
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■急進的な尊攘行動に門人はついてこない

<本文から>
 それをあえて実行する者が先覚者、先導者である。松下村塾で利害成敗を考量することなく、先覚者の道を歩むことを教えた門人たちは、松陰の精魂こめた教育の成果をあらわしてはくれなかった。
 正月二十四日、松陰はつぎの文章を記した。
 「私の尊王攘夷は死生をかえりみないもので、天地に対し恥じるところがない。ところがはじめは小人俗吏がこれをはばかり、ついで正義を重んじる人々までがこれを厭うようになった。
  ついには、平生から師友として、もっとも尊敬し信頼していた者が、あいついで私を置き去りにし、私の行動を抑制しょうとするようになった。彼らは尊攘をおこなわないわけではない。私の尊攘行動を非とするものである。
 自ら尊攘を志しているのに、私の尊攘を非とするのは、これまでの私の努力が水泡に帰したことになる。それならばどうするか。誠を積むことによってやりなおすか。私の尊攘には誠がないので人が動かないのだ。
 そのため、無用の言葉をいわないことを第一の戒めとし、天皇の叡慮と藩主の思慮はいかがであるか。皇室と毛利家累代の恩徳に答える道はいかがであるか。祖先の忠義のほまれを落さず、父母の名をはずかしめない孝が、すべてを合一する道でなくてはならないので、その道のかかわりあいについてふかく考え直そうと思う。
 それのため今日の午後から絶食する。誓っていう。今よりのち、ひとつのよろこぶべき快報があれば、一度飲食をしよう。私が獄に投ぜられてのち、怪しい事を耳にするようになった。
 水戸からきた二士を逐いはらい、ついで播磨、備中の二士をも逐った。門人たちには禁錮、禁足されている者がいる。藩庁は殿様の参勤を急ぐ。世情がここに至って、見過せようか。私には堪えられないことだ。
 いまでは小田村、久保との親交は絶えたようだ。私にまったく書信をよこさない。桂小五郎には書状を送ったが、返事はこない。絶交している同志は君子人である。
 君子が私と絶交するのは、私の行いが道にそむいているからで、そのときは斃死すべきである。もし私が道に削いていないならば、天祖天神先公先祖が感応して、一事快事があらわれてくるはずである」
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■万代、億代を考えた生死観

<本文から>
  吉田松陰は、李卓吾の著作についての抄録を多く残している。
 そのなかに、彼の死生観を鮮明にあらわしたものが多く、つぎのような文章が納められている。
 「人間が興味をもつのは、たかだか数十代の子孫に至るまでだろう。万代、億代ののちのことはどうでもいいのだ。功名富貴は、たかだか百歳までのことだ。子孫のために基を築くといっても、数十代までだ。
 賢者として不朽の名をたてるのは、やはり名声をむさぼりたいのである。天地の無窮とくらべてみよ。いつかはなくなってしまう。真の達人は、それをさえ愚かなこととするのだ」
 松陰は幕府評定所の奉行が、顔色を変えるほど、当時の幕藩体制を超越した、国家観念を陳述した。萩の獄舎に幽閉されながら、はるかな遠方をのぞむ達人の識見をそなえていたのである。
 彼は革命を実行する政治的手腕、常に他者に優先しようという権力志向の術策において、あまたの維新の元勲といわれる人々より劣っていたであろうが、民族の進路を見定める指針として、もっとも精彩を放つ存在であった。
 松陰がかりに明治時代まで生きていたとしても、国政をつかさどる廟堂の大官として活躍していたであろうとは考えられない。権力志向のまったくない松陰は、政府にとってきわめて扱いにくい存在であったにちがいない。
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■松陰の遺書・留魂録

<本文から>
  彼は門人たちの魂のなかに、自分の分身をとどまらせたかったのであろう。
 十月二十五日、松陰は自分の処刑申渡しが近づいたと伝え聞き、薄葉半紙四つ折十九面を用い、門人たちにこれまでの経過と自らの心情を伝え、今後の心得を諭す『留魂録』という長文の遺書を書き綴った。筆をおいたのは二十六日の夕刻であった。
 冒頭に一首の歌を記している。
  身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
  留め置かまし大和魂
  十月念五日 二十一回猛士
 十五の項目にわけた文中に、松陰の死生観を記したくだりがある。
 「今日死を決して心がやすらかであるのは、四時の循環において得るところがあったためである。よく稔った稲穂の収穫を見ると、春に種を播き、夏に苗が伸び、秋に刈り、冬に貯蔵する。
 秋冬になれば人々はその年の成果をよろこび、酒、甘酒をつくり、村々に歓声があがる。いまだかつて一年の成果を悲しむ者を見たことがない。
 私は行年三十一事を成しとげることなく死ぬことは、稲穂がまだ実らないようなものであるから、惜しむべきことのようである。
 しかしわが身にとっては、これまた実の熟したときで、かならずしも悲しむべきことではない。なんとなれば人の寿命は定まったものではない。稲穂のかならず定まった四季を経るのとはちがう。
 十歳で死ぬ者は、その歳月のうちにおのずから四季がある。二十歳で死ぬ者、三十歳で死 ぬ者は、おのずからそれぞれの四季がある。五十、百もまたおのずから四季がある。
 十歳の人生を短いという者は、夏蝉の命を霊椿のそれと比較するようなものである。百歳をもって長命とするのは、霊椿の命をもって夏蝉のそれと比較するようなものである。
 私は三十歳で、すでに四季を経験した。その結実が中身のない枇であろうと粟であろうと私の知るところではない。
 同志の士が私のささやかな志をあわれみ、継承してくれるならば、あとにつづく種子はいまだ絶えないわけだ。稔った稲穂に恥じるところはない。同志の者よ、是を考えてくれ」
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