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<本文から> その後、拾阿弥は信長の威光にかばわれていると知って、利家を侮蔑する態度が露骨になってきた。
家中の侍たちのあいだでも、武辺をもって知られた利家が意地をつらぬくか否かが話題になった。たとえ主君の意に反しても傷つけられた面目を回復するため、拾阿弥を斬るべきだという意見が馬廻り衆のあいだに多い。
「よからあず。信長旦那が何と仰せであろうと、拾阿弥めを首にしてやるだわ」
蝉の声が降るような油照りの昼さがり、利家は二の丸曲輪の馬場先で、向うから歩いてくる拾阿弥と行き会った。
茶筅髷の刷毛先を風になびかせ歩み寄る利家の、殺気を放射する両眼に射すくめられ足をとめた拾阿弥は、傍の矢倉で信長が涼んでいるのを見て安堵し、胸を張って近寄ってきた。
まさか信長の眼前で狼藉ははたらくまいとたかをくくっていた拾阿弥は、利家が刀を抜いたのを見て仰天した。
「旦那さま、お助けを」
絶叫した拾阿弥の首は、刀の一閃を浴び宙に飛んでいた。
信長は利家が自分の目前で拾阿弥を斬ったのを見て、血相を変えた。
「あやつは儂が仕置が気に入らぬとて面当ていたしおっただぎゃ。この場を去らせず成敗もしてくれようぞ」
信長は矢倉から駆け下りようとしたが、柴田勝家、森三左衛門(可成)が立ちふさがった。信長は勝家の厚い胸を突きとばそうとしたがこゆるぎもしない。
「退け、権六。三左も何をいたす。儂の袖をつかみ取りおさゆるつもりか。両人ともに利家同様斬りすててくれようぞ」
勝家は信長の両肩を押えた手をはなさなかった。
「旦那さま、何卒お気をお鎮め下されませ。又左は得がたき武者にてござりまする。手癖の許しき拾阿弥を討ち果せしとて、血気にはやりしのみなれば、お見逃がしなされませ。侍の意地をたてしまでにござりまするに。かほどの罪にて又左を成敗なされば、旦那さまになつきし侍衆も輿をさますは必定と存じまするだわ」
「権六殿の申さるる通りにござりますれば、又左を勘当なさるるともご成敗はなりませぬわい」
勝家と三左衛門がとりついて離れないので、二人を引きずって動こうとした信長はしだいに平静をとりもどした。
「よからあず。又左めは今日限り勘当いたす。いずれへなりと出てうせよ」
信長はそのまま奥御殿へ入ってしまった。
利家は牢人するよりほかはなかった。彼はのちに「亜相公夜話」で述懐している。
「人というものは非運の境涯に打ち沈んでみなければ、友の善悪もおのれが心底も分からぬものよ。儂は若年の頃拾阿弥を斬りしゆえ牢人いたせしが、そのときにはかねて兄弟同様仲のよかりし朋輩はおおかたが見舞いにもきてくれざったわい。森三左と柴田勝家のほかには、二、三の御小姓が心を通わせてくれしのみじゃ」
利家は熱田の社家松岡氏に寄食した。柴田勝家らが松岡に頼み、新館を預かってもらったのである。
血気さかんな利家は信長の勘当が不当な措置であると憤り、連夜酒を幹んでは荒れ狂う。膂力すぐれた利家をなだめるのは容易ではない。 |
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