津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          前田利家 下

■前田利家、利長父子の仲が睦まじかったことを伝える挿話

<本文から>
 前田利家、利長父子の仲が睦まじかったことを伝える挿話は数多いが、文禄三年四月に利家が利長に銀五百枚を贈ったこともそのひとつである。
 銀五百枚といえば、現代の三十億円に相当する。
 利家は名護屋在陣のあいだ、利長から兵粮、金銀、人足を加勢させたので「すりきり」となっているであろうと案じていた。「すりきり」とは窮乏の意である。
 利長は利家が彼の手許不如意を懸念していると聞くと、文禄三年春、あかね袋に金子五百枚をいれたものを、聚楽の利家屋敷へ持ちこんで見せた。
 利家はことのほかによろこんだ。村井豊後、奥村助右衛門らがおどろいてみせた。
「肥前(利長)さまには、これほどの貯えをお持ちなされておらるるとは、思い及ばざることにてござりまいた」
 利家は腹をゆすって笑う。
「儂は肥前がすりきりいたしおるべしと推量せしゆえ、金子千枚ほどをつかわすべしと思いおりしが、かようの貯えを見せしは父母に孝行の仁をなす者だわ」
 利家は秀吉の式正がお成りも無事に終ってのち、村井豊後を使者として金子五百枚を利長のもとへ持参させた。
「これはなにゆえに下さるのじゃ。手許は足りておるに」
 利長が不審に思って聞くと、村井豊後は笑って利家の口上が伝えた。
「大殿さまには、金子は千枚ほどもお持ち候えば、何事についても心案じ申さざるものゆえと仰せられ、これをご進上なされしものにござりまするに」
 利長は金子を受けとり、ひとかたならず感動した様子で、豊後にみやげとして金子二十枚、袷、単衣の衣類を与えた。
 家臣たちはその様子を伝え聞き、よろこびあった。
 「父、父たり、子、子たりとはかようの事をいうのであろう」
 伏見築城並量絹のときも利家父子は扶けあった。
 前田家は宇治川をせきとめる大工事を命ぜられたが、そのとき利家がいった。
 「宇治川をせき切るとは、末代までに聞ゆる普請にてあらあず。儂も土俵を持ちはこびいたしてやらあず」
 利家は家来たちのとめるのもかまわず、背の高い家来を呼ぶ。
「刑部よ、こなたへ参れ。儂と畚を運ぼうではないかや」
 斎藤刑部という家来は利家とともに天秤棒で畚をかつぎ、土俵を二度はこんだ。
 彼はわざと転んでしおらしげにいう。
「大殿さまは御大力者なれば、私は肩が痛うてなりませぬ」
 利家はことのほか機嫌よく笑い、さらに長九郎左衛門連龍の家来で六十歳ばかりの鈴木という者を相手に数度畚を運んだ。
 利長も全身に汗を流すまで畚運びに精を出した。
「大殿さまがなさるることを、われらが幾層倍かいたしてあたりまえじゃ」
 その夜、まつが利家をひやかした。
「年寄りのひや水とは申しまするが、さても上さまは中納言の位にても、畚をお持ち遊ばされしとは驚きいってござりまするわなも」
 利家は笑って答えた。
「宇治川をせきとむるは古今になきことゆえ、中納言が土俵を持ったのだで」
 利家の伏見屋敷は伏見城月見櫓の堀ひとえ下に設けられることとなった。
 非常の際には一番にかけつけられる場所に屋敷地を与えられたのは、秀吉の信頼がもっとも解かったことをうらづけている事実である。
 利家は壮年の頃までは「又左が槍」の勇名をうたわれ、その武辺は天下にかくれもないものであったが、算勘にあかるく細心な反面もそなえていた。 
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■秀頼後見として利家の地位は高まった

<本文から>
 実際の博役は、利家ひとりであったわけである。
 秀頼後見として、豊臣政権における利家の地位は従来よりもなお高まった。秀吉は利家に預けていた越中新川郡一郡をあらためて加俸し、さらに秀次の伏見屋敷を利家に与えた。
 利家は八月二十四日に拝領した屋敷に入った。これによって秀次亡きあとの空隙を利家が埋めたかのような外見となり、彼と秀吉との絆がいっそう強まった。
 秀吉は十月二十四日、利家に招かれ茶会に出向いた。相伴は家康、金森法印、織田有楽斎である。
「ここの座敷もなかなかに趣ありてよき眺めだわ」
 秀吉は秀次を切腹させ、妻妾、家来を処断したことも忘れたかのように上機嫌で茶を飲み、書院で相伴衆と歓談し酒宴にのぞみ、夜がふけてのち伏見城へ帰った。
 同月二十六日にも茶湯昼会がおこなわれ、秀吉はふたたび出向く。「菅利家卿語話」に、つぎのような挿話が記されている。
 秀次が切腹してのち、秀吉はつぎの意向をもらした。
 「こののちは大納言(利家)をお拾の博といたすなれば、あとをよく頼まねばならぬ。ついては、秀次の所領なりし美濃、伊勢を大納言にやろうと思うだで」
 側近の石田三成、増田長盛らは日頃利家と対立していたので、さっそく言上した。
「御意はごもっともにござりますれども、利家は世にならびなき武辺者にて、さてまた短気者にて上さまのお扱いを薄しと存ずれば、その日にも謀叛つかまつりかねまじき仁にて、至って外聞を気づかいおりまする。されば関白さまのご普請なされしお屋敷は、いまほどは伏見にて一番の出来ばえなれば、それをおつかわしになられ、さてまた越中新川郡をご加増なされませ。名あって実なきこそよけれ。利家に関白さま御旧領をおやりなされば、あやつは増長いたし、上さまに弓を引かんとの存外なるたくらみをいたすやも知れませぬ」
 利家は三成らの讒訴について伝え聞いても笑いすて、動じる様子がなかった。
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■金沢繁栄の基礎をつくる

<本文から>
 金沢の名は天文十五年(一五四六)以降用いられてきた。利家が入城してのち金沢の地名が、それまでの尾山にかわりひろくいいならわされるようになる。
 金沢の名称は、金を掘る沢という意で、昔金沢城の南に沢があり、そこが金い沢といわれたという。
 犀川上流の片麻岩層に金が含まれており、河流に削られた岩盤の土砂のうちに砂金がまじっていた。
 玉泉院丸から金谷出丸の辺りで砂金が多量に採掘された時期は、長くつづいた。
 利家は尾山に入城すると、佐久間盛政在城以来の尾山八町が町並みを大改造した。彼は大手門前一帯の尾坂下の地域に、尾張町を中心とする諸町をいとなんだ。
 その辺りはかつて浄土真宗道場が集まっていたが、利家は町人町に変貌させ、他宗派寺院を招く。
 尾張町は利家が尾張荒子に在住のとき、前田家に出入りしていた町人たちを呼び寄せ住まわせ、町造りをはじめたものである。
 尾張町がひろがり、あらたに新町と呼ぶ地域が開発され、さらに金沢城正面から北国街道に沿う中町が形成されていった。
 利家は尾坂下に米座を裁許する商人たちをあつめたので、尾張町、十間町に米仲買、米商人が軒をつらねた。
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■利家は家康との決戦は避けられないものと見ていた

<本文から>
 三成は豊臣政権の台所を預る奉行として、数十万の軍勢を遠征させても、兵站を確立させる卓抜な能力をそなえているが、良らの才能に頼りすぎるきらいがあった。
 わが意見に絶大な自信をもち、他人のいうところに耳をかさない。巨大な政権を運営してゆくために、三成のような行政、経理の能力をそなえた幕僚は必要である。
 だが前線で命をかけて戦う武将たちは、三成の指図をしばしば不服とした。彼らはいう。
「算勘ばかりで、兵を動かせしこともなき者の采配が聞けようか」
 右近は利家のために諸大名の動向を探っていた。彼は豊臣氏が家康勢力と対決するのは、利家在世のあいだでなければならないと見ている。彼は利家にすすめた。
「上さまが薨じなされしなれば、大納言さまのおとりなさるべき道は、ただひとつにござりまする。内府はかならず御掟がそむく挙に出でて参りまするゆえ、そのときに時を移さず非をなじり、一気に打ち亡ぼさるることにありと存じまする。合戦には潮時があることはよくご承知なれば、いまさら申しあぐるまでもござりますまい」
「あいわかった。儂もさよう心掛けておるだわ。儂の死にたるのちにては、豊臣家のお味方数十万の軍勢に采配いたす器量ある者はおらぬでなん」
 利家も、家康との決戦は避けられないものと見ていた。
 右近はいう。
「内府は用心ぶかきゆえ、はじめはなにかと小細工をいたし、たやすくは仕掛けて参らぬと存じますれば、そのときを狙いひと打ちに打ちひしぐべきものであろうと勘考いたしまする」
 利家もおなじ考えを抱いていた。
「その通りだわ。あれは粘り腰つよきゆえ、いったん長陣に持ちこめばうるさき相手だわ。合戦のかけひきは、儂も心得ておる。右近殿はこののち諸侍の内輪の様子を探ってくれい」
「かしこまってござりまする」
 利家はわが命もながくないと見ていた。彼は秀吉亡きあと、なんとしても秀頼を天下人の座にすえたいと念願している。
 そのためには武力に訴え、家康を亡きものにしなければならない。
「治部少(三成)は、いかにも煮えきらぬ男だで。奉行などいたし、御本陣ばかりにおりしゆえか。あれも賤ケ岳にて一番槍をつかまつりし頃は、なかなかに気性はげしき者にてありしが、いまでは内府と一戦いたすことなく済むものならば、そうありたしなどと甘き考えをいたしおる。あれでは内府に裏をかかれ、辛き目を見るは必定でや」
 右近は前田家の前途を、あらまし予想していた。
 利家の在世するあいだであれば、家康勢力を一気に覆滅することは可能である。豊臣方の諸大名は、利家の采配に全幅の信頼をおいている。
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■病床での家康との対面で子・利長を頼む

<本文から>
 利家は訪れた家康を中の間の病床で迎えた。家康には有馬晴信だけが同道していた。家康に供奉する侍たちは、書院のつぎの聞から玄関に至るどの座敷にも満ちあふれ、酒肴の饗応をうける。
 酒席がにぎわう頃、黒衣をつけた石田三成が座敷に姿をあらわしたので、家康の家来たちは興をさました。
 利家は家康の盃に酒をつぎ、刀をみやげに差しだしつつ頼んだ。
「それがしは、はやこれが暇乞いにて死にまする。肥前(利長)がこと頼み申しまするぞ」
 家康は利家の衰えたさまをあらためて眺め、涙をこぼす。有馬晴信ももらい泣きをした。家康は利家の頼みにこたえず、なぐさめるのみであった。
「大納言様には、やがてやがて御気色もよくなられ、めでたきご本復にもなられそ候て、お料理上手におわすなれば、それがしもそれを食べたきものにござるだわ」
 家康の接待は神谷信濃がとりおこない、村井勘十郎がともに酌をした。
 大坂に屋敷を構える諸大名はすべて前田屋敷へ出向き、酒宴に列したので、屋敷のうちは立錐の余地もない有様であった。
 家康一行が前田屋敷を辞去したのち、利家は利長を病床へ呼ぶ。傍には右近のほかに誰もいない。
 利家は布団の下から氷のように磨ぎすました抜き身の大刀を取りだし、利長に見せていった。
 「今朝ほど、おのしに心得ておるかやといいしとき、器量を持ちての返答をいたせしならば、すなわち内府に会いて、この場を去らせず斬り殺せしだわ。されどもおのしが応答は、腑抜けしものなりしゆえ、内府を殺すのをやめしでや。あやつを殺さば天下に立つ者はおらぬがや。五奉行はじめ、器量の老二人もなくては、家康ほどの者にても生かせておかねばならず。おのしがことをあやつに頼みしだわ」
 利家は利長にいった。
「それがしが死にてのちも、前田の家に別条はなかろうよ。おのしはおとなしきゆえ、天下はやがて家康が手に入ろうとも、滅ぼされはせぬだで」
 利家は家康が伏見へ帰ってのち、病床での明け暮れを過ごした。
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■近習小姓たちに昔話を語り聞かす

<本文から>
 彼は病床で気分のよいとき、近習小姓たちに昔話を語り聞かす。飽きることなくわが過去を話すのは、前田家を支える重臣となるであろう若者どもに、人生においてわきまえねばならない生きてゆくための智恵を、いい残しておいてやろうとの配慮からであった。
 近習たちは利家の言葉を胸中に刻みつけた。
 利家は焙じ茶に唇をうるおしつつ、昔話を語った。
「儂が若きときにてありし。信長旦那がお眼をかけたる茶坊主が、銀の金具を盗みおってのん。儂は旦那のおらるる矢倉の下にてそやつを斬りすて、勘当とあいなりしだわ。そのとき、儂が朋輩にてお傍衆をつとめし者どもの、常は兄弟ほどに仲よき衆はいずれも沙汰なく、しかじか見舞いもいたさぎりしだわ。佐々内蔵助はその茶坊主をかわいがりしゆえ、そのときより儂と仲あしくなり、のちのちまでも敵のごとく憎みあいしだで」
 利家は紙よりも薄かった同僚のふるまいを思いだすかのように、眼をとじる。
「儂がつきあいし友の数は多かれども、牢人いたせし難義の最中に、森三左衛門(可成)、柴田修理(勝家)殿のほか、二、三人ばかりが儂を扶けてくれしだわ。また関東陣にて小田原征伐のみぎり、太閤さまに讒言いたされ、御前を遠ざけられしとき、これまた儂がもとへ日頃出入りいたし目をかけてやりし者どもは、おおかた儂が仇となり、讒訴をかさねしだわ。われらの人数一万有余これあるを、太閤さまにわずか四、五千なりなどと申しあぐる痴れ者もありしだでなん。しかれども蒲生飛騨(氏郷)、浅野弾正(長政)などは、太閤さまが御前にてことのほか、儂のために弁じてくれしだわ。とかく人間は牢人したし、あるいは讒訴されしとき味方してくれる者はすくなく、心もひがむものだわ」
 近習たちは利家が、猪子内匠、住吉屋宗無などが牢人したとき、利家があたたかい心配りをした理由に、あらためて気づく思いであった。
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■小姓たちをわが子のように慈しんだ

<本文から>
 利家はいう。
「かようのことは、さだめて勘十郎などがわざにてあるべし。さようであろうがや」
 同座の者はどっと笑い崩れ、利家はいたずらを咎めず機嫌がよかった。
 利家近習の奥野金佐衛門、小塚藤十郎、村井勘十郎ら、年少の小姓たちは、昼夜側近に侍し、日が暮れると疲れて夜咄の席で居眠りをすることがあった。
 そのとき利家は顔色を変え、きびしく叱責した。
「儂が信長旦那にご奉公いたせしとき、御前にてさようなふるまいをいたせしならば、たちまち役を替えられたであろうがや。こののちさようのふるまいをいたさば、小姓には使わぬでや」
 利家は小姓たちに厳格な態度で臨んだが、実際はこまかく配慮をしてわが子のようにいつししんだ。
 利家は夜咄を夜の白むまでつづけたのち、しばらく閨へ入ったかと思うと起床する。金沢城に在城のとき、前夜遅くまで家老たちを集め咄したのち、短かい熟睡からさめた彼は、隣座敷で眠りこんでいる小姓たちを起さないよう、物音をたてず床をはなれ、庭へ出た。
 その様子を見たじゅようという茶坊主が、気をきかせたつもりで小姓たちに声をかけて起した。
 「お殿さまは、はやさきほどお起き遊ばされ、表へお出でなされてござりまするぞ」
 小姓たちはおどろいて床をはなれ、利家の傍らへ従った。
 利家はことのほか機嫌がわるく、茶坊主を叱りつける。
 「子供には夜昼のさかいなく詰め奉公させておるゆえ、わざわざ儂がそろりと起きて、寝させてやろうといたせしに、誰が起せと申せしかや。ここな出過ぎ者めが」
 彼は腹立ちをおさえかね、茶坊主を杖で二、三度打ちすえた。
 利家は村井勘十郎がもっとも年少であるのに勤めにはげむのを見て、とりわけてかわいがり、彼が寝ているといつまでも起させず、頃あいがよかろうと思うと自分で呼び起した。
 「もはや、刻限も参りしぞ。子供よ起きやれい」
 その様子は、祖父が孫をいつくし心ようであった。
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