津本陽著書
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          前田利家 中

■前田利太(慶治)

<本文から>
 いつのまにか屈強な家来数人があらわれ、利太は彼らに命じる。
「この足を買いしゆえ、屋敷へ戻り金子を持参いたせ」
 主人は足を利太の膝の下に組み敷かれて身動きできず、泣きだした。
「わたいが悪うござりまいた。どうぞ勘弁なはっとくれやす」
利太は叱りつけた。
「商人の店先は戦場じゃ。侍が真剣にて命の遣り取りをいたすとおなじ気合いにて商いをいたさねばならぬに、勘弁せよとは何事か。このうえはどうあっても足を切り取って持ち帰るぞ」
 店先は黒山の人だかりである。
 町じゅうの寄合衆、年寄が出てきて侘びをするが利太は聞きいれない。
 町奉行が仲裁に入って、ようやく利太は手を引いた。この事件ののち、京都の町なかで不作法な姿で商いをする者がいなくなったという。
 利太が利家のもとを離れ上杉景家に仕えたのは、義父利久の死後まもない頃であったようである。
「常山紀談」によれば、利太が金沢を出奔したのは、行状を利家に意見されたためであった。
 利太はひとりごとをいった。
「たとえ、一万戸の封地を持つ大名であっても、自由に行動できなければ匹夫にひとしい哀れな境涯である。このうえは出奔して、勝手なふるまいをいたし世を送ろうよ」
 利太は一日、利家に申しあげた。
「茶をおもてなしいたしとう存じますれば、おいでられませ」
 利家はよろこんだ。
「おのしが茶をふるもうてくれるか。よろこんで参ろうぞ」
 利家は利太の屋敷へきた。
 利太は風呂に水をたたえておき、利家を誘った。
「温風呂をたててござりまするに。おはいりなされませ」
「おう、これは心ゆきとどきしもてなしだわ」
 利家は湯殿へゆく。
 利太は自ら湯加減を見るふりをしていう。
「ちょうどよき按配にござりまするわなも」
 利家は風呂に入り、冷水と知って飛び出し小姓に命じた。
「馬鹿者にあざむかれ、水風呂に入ったぞ。あやつを引っくくって連れて参れ」
 小姓たちが利太を捕らえようと戸外へ走りでたが遅かった。
 利太は裏門の前に置いていた松風という駿馬に乗り、鞭鐙をあわせ駆け去った。 
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■北条征伐、秀吉の心境を知り抜く

<本文から>
 秀吉本陣にいた利家は、八王子城を陥れてのちも昵懇衆が役目をはたすことなく遠ざけられていた。
 浅野長政が利家を従前の通り側近に置くよう進言したが、秀吉はゆるさなかった。利家は秀吉の内心を知りぬいている。
 いったん落度を責めた家来をたやすくゆるせば、威厳をそこなうことになると思っているのである。
「月日は薬だわ。日数をかさぬるうちに殿下はわれらが落度を忘れなさるるだで」
 利家は秀吉の眼につく場所に身を置くのをはばかっているが、存在を知られるように巧みにふるまっている。
 彼は北条氏直が和睦をもとめ、城を出て家康陣所をたずねたと聞き、膝をうった。
「これにて上さまが天下一統の光栄が成ったるぞ。天下に名だたる北条の家ももはや仕舞いとあいならあず。あわれなるものよのう」
「上さまは氏直殿に上総、下総二カ国をお渡しなさるると聞いてござりますが、なにゆえ仕舞いとなるのでござりましょう」
 家来が聞くと利家はこともなげにいった。
「おのしゃあ褌がゆるんでおるのだわ。締めなおせ。上さまは先方より降参いたせし者には何のみやげも呉れてはやらぬわい。みやげを出すのは相手が手ごわきはたらきをいたしおるあいだのことよ。まずは見ておるがよい。愚かなる氏直めが、横っ面を力まかせにはたかるるがごとき目にあうはが必定だで」
 事態は利家の予測の通り進展した。
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■秀吉の天下、利家はすさまじい攻撃性と用心深さをかねそなえていた

<本文から>
 利家は関東諸城攻撃の際、北条勢に対する扱いが寛大にすぎたとして秀吉の怒りを買った。敵勢の降伏をゆるし、調略によって城を陥落させる方針は、利家が独断でおこなったのではなく、浅野長政、木村一と合議したうえでとったものである。
 武州鉢形城を明渡させるとき、利家、長政と木村一が連署して発した制札の前二条はつぎのようなものであった。
(町田文書)
「一、鉢形城うけとる者ども濫妨無道の儀、一銭切りになすべきこと。
 一、地衆と喧嘩口論の儀、理非を立ていれず、まずこなたの者を成敗せしむべきこと。」
 鉢形城をうけとる味方の軍勢が乱暴狼藉をしたときは、一銭を盗んだ者を斬りすてる厳罰の方針をとる。
 城にたてこもっていた地元の侍衆と味方の兵が喧嘩口論をしたときは、理非を論ずることなく、まず味方の兵を処断するという制札の文面は、敵に寛大にすぎると見られてもしかたのない内容である。
 だがこの件によって譴責されるならば、浅野長政、木村一も同罪である。
 岩沢よしひこ氏の研究によれば、利家は松井田城を草したのち、武蔵、上野の夏年貢の取りたて、制札御判銭の上納額、松井田城に置く守備隊、降伏させた新田、桐生両城から上納させる御礼銭の額、城内に蓄えられていた兵粮の処分についての指示を仰ぎ、秀吉はこれに対し詳細な指示を与えているという。
 利家が占領方針について秀吉の蒜にそむき、独断専行した形跡はないと見ていい。
 秀吉は利家のとった戦法、軍勢の指揮に不満を示したのではなかった。彼は百年にわたって関東に覇をとなえた北条氏の勢力を一掃するためには、地侍を徹底弾圧しなければならないとみていた。
 これまで農兵組織を形成していた武士家族の農村復帰を、秀吉は認めなかった。兵農を分離してゆく方針をうちだしはじめていたのである。
 上杉景勝、前田利家のとった、降伏する者を許し優遇する方針は、秀吉が今後全国に命令する厳しい検地をおこなううえで寛大にすぎた。
 「上様のおそろしさは、いまでは信長旦那とかわらぬだわ」
 利家はひそかに利長にいう。
 「昔の秀吉と、いまの上様は別のお人柄だわ。天下人ともなれば、あのようにお人柄が変るものかのん。そらおそろしきばかりだで」
 秀吉は信長麾下の侍大将の頃は、柴田勝家、丹羽長秀、前田利家ら譜代衆の歴々に会うと愛想笑いをして腰を屈めすれちがった。
 異風な「又左が槍」が前方にみえると、秀吉は怯え眼を伏せ、見あげるような長身の利家に道を譲った。
 −あの時分を思わば夢のようだわ。昔の籐吉郎は、儂が素槍をひっさげて出でしのみにて、顔色あおざめ横丁へ逃げいりしが、人の運気と申すは分らぬものだで。いまでは儂が上様の不興を買わぬかと怯えおるだわ。思えばなさけなきものよ。バサラの又左といわれしほどの者が、猿のひと睨みにすくみあがるだわ−
 命がけでの戦場往来をかさねたあげくに得た八十余万石の所領は、いったんわがものとすれば子々孫々に無事に伝えたい。そのためには、かつては眼中になかった秀吉の威嚇をうければ怯えざるをえない。
 利家は豪胆と細心、槍先に一身を預けるすさまじい攻撃性と、妻に蓄財の癖をたしなめられるほどの用心深さをかねそなえていた。
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■名護屋では多くの大名たちと交わり、孤立しがちな大小名にあたたかく接する

<本文から>
 名護屋が朝鮮渡海の根拠地となったのは、潮流のぐあいがよいためであった。博多からではいったん西へ迂回する航路をとらねばならない。
 名護屋在陣中、秀吉は茶湯、連歌、蹴鞠、能、囃子、踊り、舟遊び、瓜畑遊びなどさまざまの遊技をみずから楽しみ、将士にもすすめた。
 利家も屋敷内に茶室を設けた。
 利家の茶室には博多の豪商で茶人として天下に聞えた神屋宗湛、秀吉の侍医、秘書官である施薬院全宗が招かれた。
 利家は家康との喧嘩騒動以後、疎遠に傾く伊達政宗との間柄を旧にもどすため、揃いの小袖をつけさせた数百人の家来たちの行列を伊達の陣所へつかわし、黙り踊りを披露させた。
 政宗は利家の気遣いをよろこび、家来たちを集め返礼の踊り興行をする。利家はかねて密接な関係をもつ北国大名、織田政権以来の朋輩である諸大名との縁をさらにふかめるいっぽう、あらたな知己を得ようとこころがけた。
 全国大小名のあいだにわが名をひろめ、勢力を扶植するには、名護屋在陣のうちに交際を八方にひろめるべきであった。
 利家、家康はともにできるだけ多くの大名たちと交わるようつとめている。
 奥羽の大名は言葉の訛りがつよく、上方衆とつきあいにくいうえに、派手な消費生活に馴染んでいないので、名護屋での暮らしむきに苦労が多かった。
 陸奥九戸城主の南部信直は国許への書状につぎのような事情を記している。
「上方衆は遠国者が気がきかぬととかくなぶりがちに扱おうとするので、あまり他出しないでいる。ただ月に一度ずつ前田利家殿のところへでかけ、諸国大名との交際をするうえで恥をかかないようこころがけているばかりである」
 利家は名護屋在陣中、あまり羽振りのよくない孤立しがちな大小名にあたたかく接し、彼らが秀吉に叱責されるようなことがあれば事情を詳しく聞きとったうえでとりなしてやる。
 心細い状態で日を送っている弱小大名は、彼らにとって眩しいばかりの存在である利家からとりわけて親密な扱いをうければ、ありがたさが身にしみて忘れられない。
 秀吉が大坂城に滞在しているあいだ、利家と家康は政権にとって重要な過書の発行など交通行政を負担していた。
「多聞院日記」などによると、秀吉が朝鮮渡海を思いとどまった時期に京都では利家が渡海するとの噂が流れていた。彼が豊臣政権の重要人物として政権の重要人物として政権にいた証拠であるといえる。
 利家は名護屋での生活が気にいっていた。作戦の進みぐあいでは朝鮮へ向うことになるかもしれないが、できることならいまのままでの日送りをしたいと考えている。彼にはいとしい側室のちよがいた。
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