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<本文から> 久光は隆盛を嫌っていた。隆盛は久光が旧主斉彬の弟ではあるが、兄とくらべものにならない小器であるのを見抜いており、炯々と光る両眼にその心中をあらわすことがあった。そのため隆盛を文久二年(一八六二)四月、命令に背いたとして沖永良部島へ流罪にし、死に瀕するほどの冷遇をしたほどだ。
久光は隆盛が上京すれば、新政府の中心人物として重用されることを知っているので、手離したくはない。だが戊辰戦争に参加した下士集団が久光の行動を注視していた。西郷の上京をおさえようとすれば、国父といえども暗殺されかねなかった。
彼らはいう。
「巨眼さあは、どげんしても東京へ出てもらわにゃならん。そうでなけりや俺どもの出る幕はないじゃろう。邪魔する奴は、誰でん斬り捨てるまでよ」
「巨眼さあ」とはもちろん隆盛の大きな眼をさしての愛称である。
戦場で自刃をふるい生死のはざまを斬りぬけてきた彼らは、闘犬のように膵猛で久光も無視できなかった。
版籍奉還のあとも、旧藩主が知事となっただけで農民たちが生涯を酷使され、貧窮のうちに死なねばならない環境は変らなかった。
新政府の役人たちが公金をかすめとり、高位の者の問には大規模な横領の組織が動いていると曝されていた。
隆盛には私欲がない。戦場では危険な状況に身をさらした。下士たちは彼の命令にかならず従う。大久保や木戸は下士らに命を預けられるほどの信頼を得ていない。
そのため島津久光とその下につらなる上土らは、隆盛を担ぎ出しての今回の大久保らの動きを黙過せざるをえなかったのである。
薩摩の兵を動かす実力をそなえているのは隆盛である。長州は木戸、土州は板垣退助が藩知事の毛利、山内をおさえ藩兵を指揮できた。
隆盛は「錆びついた鉄車」といわれる新政府に出仕すると、猛然と動いた。迅速に動かねば、新政府は前途から迫ってくる怒涛にのみこまれてしまう。
岩倉、木戸、大久保には難局を乗りきる実力はなかった。世上の人気が隆盛とはまるで違う。岩倉は朝廷の下級公家として尊摸をとなえ、策略を用いてきたが、命をなげうって政治改革を断行する気魄がなかった。
木戸も同様である。諸事に用心ぶかく、わが進退が危険を招き寄せないよう慎重をはかるので、何事も議論倒れになり施策の成果をあげられない。
大久保は困難をともなう政策には絶対に手をつけなかった。安全に成功させられると見込みのついた事柄だけに関心を持ち、困難のともなう仕事は、存在しないかのように無視しようとした。
大久保は、新政府が瓦解しかねない危険は何としても避けなければならないと考えていた。
彼らがなぜそのような姿勢をとるかといえば、命が惜しいからでもあった。
反対者の多い政策を断行しようとする政治家は暗殺される。政府首脳の要人たちは暗殺を免れる手段はないものと覚悟していたが、危険に身をさらすことはできるだけ避けようとする。これが、死に癖があるといわれる隆盛が政策を実行する主導権を振ることになる理由であった。 |
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