津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          まぼろしの維新 西郷隆盛、最後の十年

■私欲がない西郷だけが政策を実行できた

<本文から>
 久光は隆盛を嫌っていた。隆盛は久光が旧主斉彬の弟ではあるが、兄とくらべものにならない小器であるのを見抜いており、炯々と光る両眼にその心中をあらわすことがあった。そのため隆盛を文久二年(一八六二)四月、命令に背いたとして沖永良部島へ流罪にし、死に瀕するほどの冷遇をしたほどだ。
 久光は隆盛が上京すれば、新政府の中心人物として重用されることを知っているので、手離したくはない。だが戊辰戦争に参加した下士集団が久光の行動を注視していた。西郷の上京をおさえようとすれば、国父といえども暗殺されかねなかった。
 彼らはいう。
 「巨眼さあは、どげんしても東京へ出てもらわにゃならん。そうでなけりや俺どもの出る幕はないじゃろう。邪魔する奴は、誰でん斬り捨てるまでよ」
「巨眼さあ」とはもちろん隆盛の大きな眼をさしての愛称である。
 戦場で自刃をふるい生死のはざまを斬りぬけてきた彼らは、闘犬のように膵猛で久光も無視できなかった。
 版籍奉還のあとも、旧藩主が知事となっただけで農民たちが生涯を酷使され、貧窮のうちに死なねばならない環境は変らなかった。
 新政府の役人たちが公金をかすめとり、高位の者の問には大規模な横領の組織が動いていると曝されていた。
 隆盛には私欲がない。戦場では危険な状況に身をさらした。下士たちは彼の命令にかならず従う。大久保や木戸は下士らに命を預けられるほどの信頼を得ていない。
 そのため島津久光とその下につらなる上土らは、隆盛を担ぎ出しての今回の大久保らの動きを黙過せざるをえなかったのである。
 薩摩の兵を動かす実力をそなえているのは隆盛である。長州は木戸、土州は板垣退助が藩知事の毛利、山内をおさえ藩兵を指揮できた。
 隆盛は「錆びついた鉄車」といわれる新政府に出仕すると、猛然と動いた。迅速に動かねば、新政府は前途から迫ってくる怒涛にのみこまれてしまう。
 岩倉、木戸、大久保には難局を乗りきる実力はなかった。世上の人気が隆盛とはまるで違う。岩倉は朝廷の下級公家として尊摸をとなえ、策略を用いてきたが、命をなげうって政治改革を断行する気魄がなかった。
 木戸も同様である。諸事に用心ぶかく、わが進退が危険を招き寄せないよう慎重をはかるので、何事も議論倒れになり施策の成果をあげられない。
 大久保は困難をともなう政策には絶対に手をつけなかった。安全に成功させられると見込みのついた事柄だけに関心を持ち、困難のともなう仕事は、存在しないかのように無視しようとした。
 大久保は、新政府が瓦解しかねない危険は何としても避けなければならないと考えていた。
 彼らがなぜそのような姿勢をとるかといえば、命が惜しいからでもあった。
 反対者の多い政策を断行しようとする政治家は暗殺される。政府首脳の要人たちは暗殺を免れる手段はないものと覚悟していたが、危険に身をさらすことはできるだけ避けようとする。これが、死に癖があるといわれる隆盛が政策を実行する主導権を振ることになる理由であった。
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■西郷は御親兵を駐屯させ参議になる

<本文から>
 隆盛は新政府に御親兵を駐屯させるよう要望した。
 「いま非常の改革をおこなうにあたり、東京に駐屯する御親兵は二千ほどであいもす。これでは騒動がおこったときに押さえることもできもはん。薩、長、土より八千人ほどを出せば総勢一万人となり、いかなる不時の難をも叩き伏せるに充分であると思いもす」
 隆盛の捷案は受け入れられた。彼は二月二十五日に鹿児島に帰り、四月下旬に歩兵四大隊、砲隊四座、大砲三十二門、総兵数三千人を率い上京した。
 長州は歩兵三大隊、土佐は歩兵二大隊、騎兵二小隊が出動した。東上した薩藩将兵は意気軒昂、市ヶ谷の旧尾張藩邸を兵営とした。隆盛も士卒とともに暮らした。
 宮内の規律はただ一条。
 「道義にもとづき賞罰をあきらかにす」
 と隆盛自筆の書が掲げられ、それで厳格な制裁がおこなわれた。
 政府改造の足どりは早まり、六月二十五巳に内閣全員が解職された。隆盛は木戸を総理に立て、他の者が彼に従い諸政一新をはかろうとした。そうするのは木戸が何事につけても薩長の勢力関係にこだわり、異論をたてるためであった。
 だが木戸は単独で総理の大役を引き受けるつもりはない。きわめて危険な立場である。
 「西郷さんは天下の人望を集めておられる。私が総理の座についても、万事おこなわれがたいのは眼に見えております」
 結局隆盛と木戸が参議になり、政府を代表して朝政をとりしきることになった。木戸は薩摩士族の頭領である隆盛に対抗するため、行政の主導権を握る長州の井上馨、伊藤博文、肥前の大隈重信ら革新官僚を股肱とした。
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■明治四年六月からの廃藩置県の緊迫

<本文から>
 明治四年六月から七月にかけてのおよそ一カ月間の情況の緊迫を大隈重信はつぎのように表現している。
 「この僅々たる時期は、実に容易ならぬ禍根の伏するところにして、一歩を誤らば轟然爆裂し、銃丸飛び、肉躍り血舞うの惨状を呈するに至るやも、測られざるの情勢なりし」
 当時司法大輔であった佐々木高行が語ったところによれば−
 「宮城において大臣、納言、参議、各省の長次官らが、廃藩置県の今後の措置につきどうすべきかと議論百出し、喧々景々と沸きたったとき、黙って聞いておった西郷さんが急に大声でいうたがぜよ。
 『このうえもし各藩に異議がおこったときは、私が兵を率い撃ちつぶしもんそ』とな。
 その一言で議論はたちまちやんでしもうた」
 約三百の大名から土地、人民をとりあげ、徳川幕府のもとで存続してきたそれらの制度を全廃するのは、国家予算もたてられない政府の活動が、ほとんどゆきづまりとなったために、破滅を覚悟で決行しなければならない施策であった。
 政府の苦境は官制改革などで切りぬけられるものではなかった。全国に割拠する地方勢力を一気に潰滅させるよりほかに、生きのびる道はなかった。
 諸藩財政は旧幕時代以来の窮乏がつづいていたが、戦力においては軽視できない成長を遂げていた。
 明治初年の諸藩は旧幕時代の泰平になれて、軍備は徳川家康在世の頃と大差のないものであった。
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■西郷はは朝鮮問題を解決しロシアの圧迫をはねのけようとしていた

<本文から>
 十月二十四日、岩倉の奏上は天皇のご採納をうけたので、板垣、副島、後藤、江藤の四参議は二十四日に辞表を奉呈し、二十五日に隆盛とともに辞職を聴許された。
 かねて辞表を奉呈していた三条、木戸、大久保、大隈、大木喬任については、却下されたのはもちろんである。
 岩倉、大久保らの策略を察知しつつも、国政を混乱させる騒動を起こさないため帰郷した隆盛の心境は、旧庄内藩士酒井玄蕃の対談筆記が、もっとも真実に近いといわれている。
 庄内藩は戊辰戟争のとき官軍と激戦を交えたが、降伏の際に隆盛の指揮する薩軍が穏和な取り扱いをしたので、その恩義を忘れず隆盛との交流をつづけ、明治三年には藩主酒井息篤が多数の藩士を連れて鹿児島へ出向き、隆盛の教えをうけた。
 明治五年、隆盛が参議・陸軍元帥・近衛都督を兼任すると、酒井玄蕃は陸軍士官となったが、隆盛が辞職すると彼もまた辞職して鹿児島に出向き、隆盛下野の真意をたずねた。かれはその後病を発し帰京したが、明治九年に病没した。
 酒井の筆記を現代文で記す。
 「明治七年一月九日に、はじめて西郷先生とお逢いできた。おたずねした理由をくわしく申しあげると、それはまことにありがたいといわれた。このたびの朝鮮問題は、私が言い出したものではない。私が病気でひきこもっているときに、現地でさまざまの紛争が起こり、日本人保護のため一大隊の歩兵を派遣すると、板垣殿らが申されたのです。それはもってのほかによろしくないと思ったので、病苦をこらえ出仕したのです」
 朝鮮問題がはじめに閣議にのぼったとき、隆盛は病臥していたので、彼が主唱しておこしたことではないのがわかる。西郷は言葉を続ける。
「ご維新ののち、これまで朝鮮とはご交誼を重ねてこられたのが、今度こちらから兵を遣わされるとなれば戦争となり、国民もその理由を納得せず、もってのほかのこととなります。
 わが国からはどこまでもご信義を尽くさねばならぬと申しあげました。これまでの使節は、こちらから出向けばあちらが避け、あちらが一歩踏みだせばこちらが二歩退くという具合に、正面から向かい合った相談は一度もしておりません。
 今度は厳然と使節をお遣わしなさり、これまでの曲直をはっきりとただせば、朝鮮は現状をおだやかに承知しないでしょう。つまり使節もそのまま日本へ帰さないことになります。そうなればわが国の世論は一敦して、朝鮮との交渉は簡単には納まらないことを理解するでしょう。ただ現在のように現地で挟め事が起こっただけでご出兵されるのは、考えられない下手な手のうちかたです」
 隆盛は国家のために朝鮮使節となり、わが身を犠牲として日本国民の敵慢心を煽れば、
出兵するに至ることができるというのである。
 酒井は隆盛に内心を打ちあけられ、懸命に書きとめてゆく。
 「私はかねてから国家のために命をなげうちたいと思っていたので、朝鮮使節はかならずうけたまわって、これまでのなりゆきだけはぜひあきらかにいたしたいと申し出ました。ところがふだんの閣議とはちがい、よほど異論も多く面倒であったが、しだいに意見を聞きいれられ、陛下の内勅までいただきました。黒田清隆らがこの間題へ飛びこんできたが、一切相手にしなかった」
 隆盛は樺太から北海道を狙ってくるロシアの動きを封ずることが大問題であると見ていた。
 いずれはロシアは大害をわが国にもたらす。北海道を守るために現地に兵を置くのは、決して上策ではない。
 ロシアはヨーロッパ内でも紛争が多く、トルコはロシアと衝突するであろうし、イギリスも動く。よくイギリスと申しあわせ朝鮮方面からロシアを攻めれば、大国といえども恐るるにたりないと隆盛は見ていた。
 隆盛は語る。
 「こんな考えを岩倉公に申し述べたが、彼は内心では戦は恐ろしいがそういえないので、順序がちがうといった。公のいう順序とは平穏無事の日であります。
 現在のような国家に危急の及びかねない場合には、ふだんの通りの順序では国家の義務をつくすことができません。ただちに戦略上の策を練らねばならないのです。
 はじめは参議方に私の議論をもちかけると、すべての参議は私の意見に同意しました。だが岩倉公は軍略は知らないといわれます。ご存知がなければ、どこまでも存知する者にお聞きなされませんか。
 軍事は恐ろしくてできないと申されるなら、今日から政府といわず、商法支配所とでも名を変えればよし、政府というからには政府の義務を果さねばなりません。義務を果さなければならぬなどと、随分はなはだしい議論もしました。
 副島は外務卿として、朝鮮使節はぜひ自分が務めるなどと言い出したが、私はかねてご内勅をいただいているのに、このまますませるわけもなく、副島を打ちはたすよりほかはないなどというまで、争論は深刻になったのです」
 隆盛は朝鮮問題を解決し、樺太、北海道に手をのばしてきたロシアの圧迫を、はねのけようとしていたのである。
 隆盛と桐野が辞表を奉り、聴許されるか否かをまたずに帰郷したのを見た鹿児島県出身の近衛士官は、陸続と辞表奉呈ののちあとを追って去った。その数は百人をはるかに超えた。
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■佐賀の乱に呼応せず、現政府が崩壊したのち政権を担う考え

<本文から>
 江藤は佐賀で挙兵すれば鹿児島に帰った西郷隆盛が、かならず呼応して、桐野、篠原ら股肱を動かし彼に協力すると思いこんでいた。
 隆盛は江藤よりはるかに大きな戦略家であった。日本は朝鮮、中国、ロシアという交流にきわめてむずかしい外国と接触してゆかねばならない。
 隆盛は朝鮮問題では大久保、岩倉の策動によりつまずいたが、政府はやがてかならず国政を誤って崩壊すると見ていた。そのとき彼らのあとをうけて政権を担うのは隆盛をおいてほかにはなかった。
 そのため自分が必要とされる時節の到来を待っておればよいと隆盛は考えていた。それを立証する挿話がある。
 明治六年十月、隆盛が参議、近衛都督を辞任し帰郷しようとしたとき、ともに参議を辞した土佐の板垣退助が、彼に内心を打ち明けた。
 「今度君とは長いあいだ別れることになるだろう。そうなれば中傷などをする者も出てきて、君との伸が疎遠になるかも知れない。
 これまで君と俺とは志をおなじくして信じあってきた。だから今後もたがいに心を許しあい、善悪ともに行動をしようではないか」
 板垣は隆盛とは討幕運動以来懇親をかさね、ともに行動してきた。岩倉全権大便一行の欧米出張のあいだは、国政に参画協議してきた。
 隆盛の朝鮮特使派遣問題では、板垣は全面協力した。そのため彼は今後も隆盛との密接な関係を維持しようといったのである。
 このときの隆盛の返答は、『自由党史』に述べられている。現代文で記す。
 「西郷は大笑していった。君と俺が協力すれば天下に敵はなかろう。これは政府としては実に困ることである。
 そのため俺は君の助けは求めず、敵対しても恨まない。俺のことを気にかけず、放置してなすがままにさせておいてくれ。今後のことは俺の胸中にあるのだ」
 板垣は予想もしなかった隆盛の返答をうけ、こやつの慢心もここに至ったかと落胆の溜息をつかざるをえなかったという。
 板垣との協力さえ辞退した隆盛が、江藤と手をむすぶはずがなかった。江藤はたしかに政敵と廟堂で論戦するとき、口舌の切れ味はすさまじく、反抗する敵をなぎ倒す手腕は恐るべき威勢をあらわした。
 だが彼には隆盛のような天下の人心を集める武人の資質がなかった。
 当時、全国に名声がとどろき渡っているのは隆盛であった。
 政権を完全に掌握している大久保、岩倉の人気でさえ、隆盛とは比較にならなかった。
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■江藤は西郷を説得できず

<本文から>
 江藤が六人の同志とともに二十五日に鹿児島へ着くと旅館に荷物を置き、ただちに武村の隆盛の屋敷を訪れた。家人は隆盛が留守だというばかりで、行先を答えなかった。
 江藤は懸命にたずね、ようやく揖宿郡山川郷の宇奈木(鰻)温泉に滞在していると教えられた。江藤が宇奈木へむかったのは二月二十八日で三月一月に字奈木温泉に到着し、隆盛を訪れた。
 隆盛は入湯し養生していたが、江藤の突然の来訪に驚きつつも、側近の者を退かせてこころよく対面した。二人は廟堂に身を置いていた頃と変わらず、うちとけて語りあっていたが、話の内容を聞く者はいなかった。
 密談は三時間に及び、江藤は隆盛のもとを辞し温泉の近所の民家に泊った。翌二日の早朝、江藤はふたたび隆盛をたずね、密談はおよそ四時間に及んだ。
 二人は対話に熱中してたがいににじり寄り、膝頭を突きあわせるのにも気づかなかった。隆盛はきびしい口調で議論をつづけ、双方の激昂した声は窓外にひびく。江藤はついに隆盛を説得できず、午前九時に別離の挨拶をのこし、宇奈木温泉を去っていった。
 隆盛は江藤の去ったあと、しばらくおちつかず、ついにあとを追い揖宿郡十二町村湊まで出向き、その夜は村の区長宅に一泊し語りあかした。
 翌日、隆盛は区長に漁船を雇わせ、鹿児島へ去る江藤を送らせた。
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■徳川幕府にかわり島津幕府ができるのを阻止した

<本文から>
 隆盛はもう年寄り仲間に入ったというが、当時は四十歳で初老という年齢である。隆盛は一月十八日、朝廷から徴士(準参与)任命を辞退、藩主茂久に朝廷の陸海軍総督任命を辞退させた。
 京都薩摩藩邸で藩士たちは茂久への辞令を見て、「新将軍はうちの殿でごあんそ」と騒ぎたてているところへ、隆盛があらわれ叱りつけた。
 茂久が隆盛を叱責したのは、この件がからんでいたのだといわれる。島津茂久が新政府の中枢に進出すれば、薩摩とともに倒幕に尽力した諸藩主も政府に進出する。そうなれば維新を血でかちとった下級藩士らの立場は圧縮され、徳川幕府にかわり島津幕府ができあがる。
 それでは士農工商の身分を廃し平等とする方針、藩地を政府へ奉還する廃藩置県を実行する維新の目的がすべて消え去る。
 そのため隆盛は茂久に奥羽出兵を辞退させ、ともに鹿児島へ帰港した。政府は八月になって、隆盛を北陸征討軍総差引に任命し、越後出陣ののち新発田に置かれた北陸征討軍本営に留まるようすすめたが、隆盛は断り、十月末に出羽、庄内藩降伏の手続きを終えたのち、官職を辞して鹿児島に帰った。
 薩摩藩では戊辰戦争に参加した兵士らが幹部将校の川村純義、野津鎮雄、伊集院兼寛
らを中心として集まり、討幕運動にまったくかかわらなかった上土たちを藩の要職から引退させる運動がはじまっていた。
 騒ぎはひろがるばかりで、元小姓組、郷士ら軽格であった兵士らを柔順に従わせるためには、隆盛の説得をまつほかはないと藩主茂久が明治二年二月、村田新八を連れて日当山温泉にいた隆盛をたずね、藩政参与になるよう頼みこんだ。
 隆盛はやむをえず藩政改革に着手し、藩兵の再編成をおこなう。同年六月、隆盛は賞典禄二千石を下賜され、九月に正三位に叙せられたが位階は辞退した。
 その後廃藩置県、近衛兵暴動などの重大事に際しては上京して政府に協力した。明治五年には陸軍元帥兼近衛都督兼参議、明治六年には陸軍大将兼参議に任命されたが、政変後の十一月に帰郷した。
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■新八は帰郷したが新吉は東京に残る

<本文から>
 新吉は鹿児島藩士として長崎の英学者何礼之の塾で勉学するうち、洋行費を調達するため友人たちとともに英和辞書の編纂をくわだて、明治二年に上海の米国長老派教会美筆書院に印刷を依頼し『和訳英辞林』を出版した。
 新吉は渡米して英語研究をかさねたのち、帰国して租税寮官僚として財政に手腕をふるっていた。
 新八は新吉と会い、内心をうちあけた。
 「征韓で参議らが衝突した。西郷、大久保両大関の衝突じゃ。政府諸官の征韓論の決着についての意見は、大久保の意見と同様である。
 それで俺はいまから鹿児島に帰ってうどさあ(隆盛)の意見をたしかめたのち、今後の進退を決しようと思うのじゃ」
 新吉は応じた。
 「そんなことなら、俺も兄貴といっしょに鹿児島へ帰るよ。進退をともに決しょう」
 二人はただちに旅装をととのえ、横浜の旅館で一泊した。翌朝に鹿児島へ向かう汽船に乗り、帰郷する。
 新人は夜がふけてから新吉に突然話しかけた。
 「今夜俺は寝床に入っても、どうしても眠れん。頼むから起きて、俺と話しあってくれ」
 二人は言葉をかわしはじめたが、新八は年下の従弟の今後の発展を願うため、帰郷を思いとどまらせようとした。
 「うどさあに俺が会えば、その心中はわかる。お前は東京にとどまり父殿を保護する任務があるぞ。鹿児島に戻り、うどさあのもとを離れて東帰できるかはわからん。帰郷するのは俺一人でよか」
 新吉は新人の忠告をうけいれ、東京に戻った。新人は新書が隆盛に会えば、おそらく東京に戻ることはあるまいとわかっていたのである。
 隆盛は全身涙の袋といわれるほど後輩弱者への慈愛に満ち、いったん彼に接して心を通わせた者は、その傍から離れることができなくなった。
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■再び上京し施策を断行

<本文から>
 明治三年一月、隆盛は参政を辞任し藩政顧問となったが、七月には藩庁の要請をうけ藩大参事に就任した。さらに十月には弟西郷従道が帰郷し、政府への再出仕を求められたがうけりいれなかった。
 だが十二月に大納言岩倉具視が鹿児島へきて、島津久光に隆盛再出仕を懇願したので、久光もうけいれざるをえなくなった。
 上京した隆盛は大久保、木戸孝允と協議して、東京に集結させた薩、長、土三藩の親兵隊の兵力で全国諸藩を制圧し、明治四年七月に「廃藩置県」を断行した。
 明治二年に「版籍奉還」をおこない、形式としては全国の土地、人民は天皇に奉還されていたが、依然として藩主が藩知事となり旧領を支配していた。
 その後、藩知事は東京府貫属の身分を与えられ、天皇政府が全国を直接支配する絶対主義制度が成立した。
 それを維持するためには徴兵制度を採用せねばならず、軍隊は士族のみで編成されるものではなくなり、士農工商すべての階級から徴募されることになった。
 生活の方途を削減される士族たちに要求されるのは、日本が文明国家となるため耐えねばならない窮乏生活であった。
 隆盛は彼らの前途を思えば、政府首脳として身を置くことが苦痛であった。その後、岩倉具視を特命全権大使とする国際不平等条約改正交渉使節団が派遣され、およそ一年八力月にわたり、木戸、大久保、伊藤ら政府実力者が洋行した。
 隆盛が徴兵令をうけいれたのは、兵は庶民から徴募するが、士官は士族から採用すると山願有朋らに説得されたためであった。
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■西郷は決起の成功を楽観していた

<本文から>
 隆盛の決起に応じて反乱に参加する全国士族の数は、おびただしいと村田は予想していた。高知県の林有造らは、隆盛が頼めば決起して大阪を占領するため、立志社の壮士らを動かすであろう。
 隆盛は政府と戦うことなく、わが威望により、岩倉、大久保、木戸らの悪政を指弾し、失脚させられると思っていた。だがそれは世情を知ることに疎くなった隆盛の夢想にすぎないと、村田はそうした楽観の消え去る日がくるのを覚悟していた。
 政府の海陸勢力は薩軍とは比較にならない彪大なもので、戦意を持たず東京へ旅行に出向くつもりの薩兵は、弾薬、食糧、衣類など輔重の支度はまったくない。
 軍資金もわずか二十五万円を持っているだけである。島津久光側近の市来四郎は薩軍の貧寒とした懐ぐあいにつき、記している。
 「将兵から人夫に至るまで、およそ二万人を超えている。一日一名、食糧などの費用が二十銭ずつとして四千円である。傷病人の療養費一名につき三十銭として、一日分六千円となる。
 二十五万円の軍資金では一カ月も持ちこたえられないのではないか」
 市来のいう通り、隆盛らが予期していなかった戦支度は皆無に近い状態であった。
 熊本鎮台は谷干城陸軍少将を司令長官にいただく、歩兵第十三連隊第一大隊、第二大隊、砲兵隊、工兵隊をあわせ三千四百余人である。
 官軍の全兵力は、第一、第二、第三、第四旅団、別働第一、第二、第三旅団。その総兵力は六万に近い。
 また海軍は二千三百一トンの龍旗以下十九隻の艦船を擁し、兵員二千二百八十名。艦砲射撃、警備、偵察に縦横の活躍をおこない、精鋭無比の薩軍も九州、四国から近畿に及ぶ海域の制海権を官軍におさえられ、海路を用いる作戦行動を展開できない。長崎、博多、下関など薩軍が東上のための要衝に進出できない情況に引きずり込まれてゆく結果を招く威力を発揮した。
 熊本鎮台では薩軍接近の直前、二月十九日の正午前、谷司令長官と樺山参謀長が城内巡察に出ていたとき、突然本営附近から黒煙が湧きあがり、火の手は見る間に一帯の建物にひろがる。龍城にそなえ倉庫から廊下、櫓に積みあげていた兵糧、薪炭がいっせいに燃えあがった。
 櫓下の火薬庫に引火すれば大爆発をひきおこすところであったが、将兵の命をかけての消火活動で引火は免れた。だが天守閣、二の天守から城内のすべての楼閣倉庫は三時間ほどのあいだに全焼してしまった。予想して協力者である鎮台兵、巡査、壮士が減少にむかうであろう。
 そうなれば廃藩置県によりすべての特権を失う全国不平士族がどれほど薩軍に協力を申しいれてくるか、予測もできない。
 明治十年四月十五日まで、薩軍が官軍の銃砲撃に身をさらし、白兵突撃の死闘を続けたのは、熊本城を占領すれば政府を潰滅させることができる見通しが立つためであった。
 萩原延寿著『西南戦争 遠い崖−アーネスト・サトウ日記抄13』には西郷を中心とする私学枚党の決起について、きわめて重要な内容の記述がある。
 駐日イギリス公使パークスは、西郷を中核とする私学校党の行動につき、明治十年三月十二日付のイギリス、ダービー外相への報告書に、下記の観察、推測を記した。
 「薩摩士族は自分たちの力を過信してはいなかったか」(萩原氏訳。以下同)
 「薩摩士族は自藩の威信とその指導者(西郷)の名声と、この二つのものへの信頼によって、判断を誤りはしなかったか」
 「二、三年前ならば、かれらは江戸へ進軍できたかも知れないが、現在では国論によって大いに支持されないかぎり、かかる目標がなし遂げられる見込みはない。しかし、サトウ氏が聞かされたように、これこそがかれらの目的なのであり、かれらは政府が驚愕のあまり、本気で抵抗を試みないだろうと信じ込んでいる」
 「かれらはさらに次のことを当てにしている。すなわち、陸海軍が政府に不忠をはたらくことであるが、いままでのところ、かかることは起こっていない。つぎに、大部分が百姓からの徴募兵である政府軍が、社会的に上位の士族階級と戦闘を交えるさいの恐怖心である」
 「しかしながら、薩摩士族は、おそらくつぎの点を知ることになろう。すなわち、下層階級の出身者といえども、良き兵士となりうること。そして、国民一般は、士族階級が自分たちとおなじ社会的地位に引き下げられたことを承認していることである」
 萩原氏は同年三月十日付のダービー外相にあてた報告書に西郷と私学枚党決起について、もっとも深刻で最大の謎とされる無謀さについて指摘している。
 「船舶がなければ実現不可能なかかる計画を立てるとは、叛徒が自国の状態について奇妙なほど無知であり、たとえ自分たちの言い分にきわめて不利な結果を招こうとも、ためらうことなく絶望的な行動に出ることを暴露している」
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■久光は内田を通して隆盛を出仕させ自身の立場を強化しようとした

<本文から>
 島津久光の側近であった内田政風は維新後、石川県令であったが明治八年に辞職して島津家家令となり久光の政治活動につき従い尽力していた。彼は明治九年はじめ鹿児島へ帰県し、隆盛に意見書二通を送り政界への復帰をすすめた。
 島津久光と隆盛は主従の縁でつながっていたが犬猿の仲であった。久光が倒幕の資金を惜しまなかったのは、徳川幕府が崩壊ののち自分が新政府の首長となるためであった。
 隆盛が巧みに軍隊を指揮して倒幕を果たしたのちには、久光は全国支配をおこなうつもりであったが、全国の大名士族は秩禄奉還によって財政上は平民と同様の立場に落されただけであった。
 その後、隆盛は久光を政府重職に推そうとはせず、久光は自ら運動して明治七年四月、左大臣に任ぜられたが、立案する意見は採用されることなく、明治八年十月に辞任した。
 久光が内田を県令から辞任させたのは、これまで仇のように憎悪していた隆盛を政府に出仕させ、その力量によって自分の政府における立場を強化しようと考えたためであった。
 隆盛は旧藩期に幾度も遠島投獄され、殺されかねない窮地に投げこまれた久光に、味方として操挽しようと手を差し伸べられたのは、意表をつかれる思いであったに違いない。
 長文の政風の意見書は次のようなものである。
 「近頃の国家の現況、政治情勢を観察して、いつ瓦解するかも知れない有線で、嘆くべき至りであると思われた久光公が朝廷でいろいろとご建言なさいました。
 ところが二、三の大臣がこれを否認いたし、恐れ多くもご壮年の天皇陛下を眩惑し奉り、ご採用されなかったのでご辞職なさったのです。引っこみ思案の近頃の形勢を見れば、外交は無方針、ひとつとして根幹になるものはなく、すべて枝葉末節にのみこだわり、中途半端な政策ばかりいたします。
 朝鮮事件にはすでに黒田清隆ら使節を派遣していますが、往復電報を大秘密にするので、進展内容がさっぱりわかりません。
▲UP

■西郷はいずれ国政改革のために決起せざるをえなくなると見ていた

<本文から>
 隆盛らが東京から帰郷した明治六年冬から、世上は大小の動揺に見舞われつづけていた。明治七年一月に、岩倉具視が喰違門外で土佐の士族武市熊苦らに襲われ、二月には江藤新平、島義勇が佐賀の乱を起した。同月十四日には宮崎県下の士族農民五千人が上納年貢を不満として強訴。
 同年八月十一日には、函館駐在のドイツ代理領事フーバーを、秋田県士族が殺害。九月九日に酒田県田川郡農民が官吏の不正を追及するため蜂起。翌十日には秋田県下各村で徴兵令を血税とする誤解から農民等が挙兵した。国際間題では台湾出兵、北京談判がおこなわれた。同年、政府大改革が大久保の計画によりおこなわれたが、まもなく板垣退助に続いて、木戸孝允も参議を辞職し、朝鮮江華島砲撃事件がおこった。
 内田政風が久光と隆盛を提携させるために動いた明治九年は国民がいつ動乱が起こるかと、不安に駆られる情報が飛びかった。
 九年十月には熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱があいついで起こった。隆盛は諸県の志士たちから協力を求めにくる使者、身辺を探る政府関係者から遠ざかるため、温泉入湯、狩猟に出向いていたが、いずれは国政改革のために決起せざるをえなくなると見ていた。決起するのであれば東京への進路を妨害する官軍の行動を排除せねばならない。
 そのために必要なものは軍資金であった。
 大砲、小銃、銃砲弾を中心とする軍需物資、軍艦、商船などである。
 私学校党が決起するとき、官軍に戦闘をしかけたくはない。戦うのは官軍がこちらを賊軍と見なして攻撃したときのみである。
 俸禄から離れた生活で早くも生活に窮している全国士族が唯一の希望の光明として頼っているのは隆盛であった。彼らは隆盛が攻撃を受ければ、かならず一斉蜂起して協力してくるであろうと、国民のすべてが見ていた時世であった。
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