津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          巨人伝・下

■結婚した松枝は変り者であるのにおどろく

<本文から>
  明治三十九年八月の暑熱のさなか、熊楠と松枝は結婚した。松枝は、熊楠が自炊生活をつづけていた家内を整頓し、住みやすくした。
 しらみを湧かせていたという熊楠の不潔な衣類は、清潔なものにとりかえられる。松枝は結婚して、夫が尋常ではない変り者であるのにおどろく。
 熊楠は家にいるときは、読書、論文執筆に没頭し、生物の採集にでかければ、ひと月も戻ってこないことがある。
 食事はとくに好むものとてなかった。牛肉があればよろこぶが、なければ飯に味噌を塗って食い、満足する。
 腹が減れば、うどんを一、二杯も食べて満足する。松枝は夫が、深夜書斎で知人をむかえ、談笑しているような声を聞き、戸の隙からのぞいてみて、誰もいないのがふしぎでならなかった。
 「あんた、毎晩書斎でにぎやかにしゃべっていやるけど、誰が来てるのよ」
 松枝に聞かれた熊楠は、平気で答える。
 「幽霊や」
 「そんな気味わるいこと、いわんといてよ」
 松枝が頗色を変えるが、熊楠は間のわるいような顛もしない。
 「俺には神通力があってなあ。死んだお父はんやお母はん、妹から友達まで、いつでも傍へ呼びだせるんよ。なんなら、やってみよか」
 「やめといて、そんなこと聞きたない」
 奔放な生活に馴れてきた熊楠と、母亡きあとの家庭をとりしきってきた松枝との共同生活には、当然衝突がおこった。
 熊楠は、当時の家庭について、記している。
 「小生なども人と大飲をはじめるとき、妻が迎えの下女をよこす等のことあるとき、はなはだしくその心底をにくみ、執念く罵り苦しめしことなどあり」
 松枝は熊楠の気債なふるまいに辟易し、一時実家へ帰るなどの波瀾もおこった。だがすでに懐妊しており、翌年には長男熊弥が出生した。
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■神社合祀令の撤廃

<本文から>
 説くところは、神社合祀が淫祠邪教を撤廃し、敬神思想をたかめたと政府が称するのは、地方官公吏の書き上げに瞞されているのみであるとして、大害を社会に及ぼした事実を列挙論証したものであった。
 神社合祀は民の和融を妨ぐ。合祀は地方を衰徴せしむ。神社合祀は国民の慰安を奪い、人情を薄うし、風俗を害することおびただし。神社合祀は愛国心を損ずることおびただし。神社合祀は土地の治安に大害あり。神社合祀は史伝と古伝を滅却す。合祀は天然風景と天然記念物を亡滅す。
 八章に分け、わが国文化に及ぼす合祀の悪影響を、詳細に論じた文章は、独得の卓越した風韻を帯びたものであった。
 「そもそも全国で合祀励行、官公吏が神社を剿蕩滅却せる功名高誉とりどりなるなかに、伊勢、熊野とて、長寛年中に両神の優劣を勅問ありしほど神威高く、したがって神社の数はなはだ多かり、土民の尊崇もっとも厚かりし三重と和歌山の二県で、由緒肯き名社の濫併、もっとも酷く行なわれたるぞ珍事なる」
 三重県は五千五百四十七社を九百四十二社に減じ、和歌山県は三千七百社を六百社に減じた。
 このような無法の合祀によって、国民は各大字の産土神を失い、尊寮の対象をいずれに求めるかに迷い、人心頚廃にむかいつつある現状を、熊楠はするどく指摘した。
 熊楠の卓論を支持する有識者は、しだいにふえてくる。国粋主義を標楊する学者志賀重昂も、その一人であった。
 同年三月十二日、代議士中村啓次郎は熊楠持論の代弁者として、衆議院で神社合祀令につき、一時間にわたって反対の質問演説をおこない、多数の賛成を得た。
 白井光太郎、徳川頼倫らの、貴族院ほか各方面への運動もしだいに成果をあらわし、全国の合祀実施はしだいに下火となった。
 神社合祀令が無益であると貴族院で議決され、廃止されたのは大正九年であったが、熊楠の努力によって、那智山をはじめ、幾多の古社、山林が荒廃に帰する運命を免れたのである。
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■柳田国男でさえ対面できない対人嫌悪

<本文から>
 彼は初対面の人と会うとき、耐えきれない恥ずかしさに襲われる。他人との関係をたもつのに、円滑に接触できない傾向が身内にひそんでいた。
 大酒を呑むのは、酒によって精神をやすらがせ、他人との交流を成りたたせるためであった。
 彼は日頃からいっていた。
 「ひとは俺を酒呑みというが、たえず呑んでるわけでもないし、酒が好きやというわけでもない。人に会うときに、しらふでは嫌やさかい、呑むんや」
 熊楠の羞恥心は、対人関係の障害になるほどはげしいものであった。
 彼が他人と交際するうえでの理想の形式は、自分のほうから相手が見え、相手から自分が見られない状態であった。
 見て、見られる相互の関係は極端に嫌悪し、こちらからのみ観察する一方的な関係を望むのである。
 相手にわが姿を見られざるをえない場合、彼は隠れ責として飲酒泥酔した。
 熊楠は後年、柳田国男あての書簡で述懐している。
 「小生はずいぶん酒を飲みたる男なり。これを飲みしには飲むべき理由がありたるなり。このことはゆくゆく世間に分り申すべし。いかなる理由ありても酒を飲んだものが、今も酒を飲むようにいいはやさるるは是非なきことかも知れず」
 熊楠が柳田に送った書信は、明治四十四年三月から大正五年十二月までのあいだに、百五十九通に達している。
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■南方植物研究所設置

<本文から>
 野中に苦しめられたときが過ぎてのち、熊楠の身辺がにわかにあかるくなった。
 田中長三郎の南方植物研究所設置の企画に頼倫が賛同し、助力を約束したからである。六月になって、「南方植物研究所設立趣意書」ができあがった。
 設立に賛成した協力者には、各界一流の人物が顛をそろえている。
 政治家では原敬、大隈重信、岡崎邦輔。貴族院は徳川頼倫、鎌田栄吉。新聞社は大阪毎日社長本山彦一、東京朝日杉村楚人冠。学界では幸田露伴、高田早苗、白井光太郎、安部磯雄、三宅雄二郎ら、堂々たる顔触れがそろっていた。
 設立趣意書にいう。
「先生齢五十五にしてなお一生の才幹毫も衰えず、その蘊蓄せらるる智能は、植物生産に動物生産に民族史に仏典に、行くとして可ならざるなしといえども、我国興亡の依てかかわる植物生理学に至りては、いまだ何人も先生のために機関を供するものなく、その宝庫をひらかしむるもの無し。これ実に邦家最大の損失たらずとせんや」
 研究所の第一期醵金総額は、十万円と定められていた。
 十万円は理事会の管理のもとに積みたてられ、その利子をもって経営資金とするのである。
 研究所は南方邸に置き、所長は熊楠である。第一期事業は満三カ年のうちに、これまでの熊楠の植物ならびに植物生産に関する研究成績を、一、邦文研究報告書。二、英文定期刊行物の発行。三、英文菌藻図譜の発行の三方法で、整理公表することであった。
 研究所設立は、熊楠にとって天来の福音にほかならない。いままで乏しい生活費をきりつめて、必要最低限度の研究における資金を稔出してきた。
 魚屋にまで、南方の奥さんは小魚しか買わないと蔭口をきかれても、文献を買いあつめるために窮迫した生活をつづけてきたのが、今後は金の心配をせず、研究ができるのである。
 十万円の預金をすれば、年間六、七千円の金利が手に入る。それだけあれば、いままでとちがい、自由に学問の天地に飛翔できる。
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■天皇に標本類を献上

<本文から>
 貴顕の陪席するなか、陛下の正面に椅子を賂わった熊楠は、キャラメルの空箱にいれた標本類と、新聞紙に包んだ粘菌類を献上する。
 陛下は熊楠の足疾を知っておられ、「おかけなさい」とのお言葉があった。
 だが熊楠は御前三尺ほどのところに起立したまま、多種の標本をご覧に供しご説明をする。
 「これは海の蛇で、尾の端に数個のエビがついておりまするウガ、またはカイラギというものでございます」
 「これは私が二十五歳のとき、西インドのキューバで採取いたしました地衣、ガアレクタ・クバナでございます。東洋人が西洋人の地域で発見いたしました、最初の新種でございます」
 「これはおなじ頃に、私がアメリカのフロリダや西インドをめぐり、採集した菌類の標本帳でございます。先年、アメリカより買いもどしに参りましたが、むかし薩摩人が英国人と戦い、獲った碇を英国へ送り返して、後人に笑われた例もございますので、私は断然これを外国へは売りません」
 陛下は熊楠の言葉を聞き、笑声をたてられた。
 熊楠はさらに、菌類図譜三二〇種をご覧にいれる。
「これは去年十月からこの年頭までのあいだに、およそ八十日にわたり妹尾と申す山林で採集し、写生した菌類でございます」
 陛下はお頗を図譜に近づけられ、ていねいにお目を通された。
「これは鉛山に棲む海蜘蛛とその巣でございます。こちらは、琉球、小笠原にはおりますが、本州では鉛山だけにしかおりませぬ、陸に棲むヤドカリでございます。海に生れて丘にあがり、昼間は山の樹に登っております」
 熊楠は最後に、日本産粘菌十種入りの箱十一個を献上する。
 小人数の集会での座談の巧みさに定評のあった、熊楠のご進講は、二十五分間で終った。余った五分間で、熊楠は神島の森林保護について奏上する。
 陛下は粘商標本などについて、熱心なご下問をされ、熊楠は面目をほどこし、お召艦から追下した。
 熊楠は日暮れまえに帰宅した。その夜写真屋にゆき、マグネシウムをたき、記念写真を単独で写したのち、妻松枝とならんで写した。
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■熊楠の最期

<本文から>
  十二月十六日、熊楠は病床で今昔物語の扉につぎの署名をし、形見として文枝に与えた。
「昭和十六年十二月十六日、神田神保町一誠堂に於て求む。娘文枝に之を与う。 南方熊楠」
 ラジオがハワイ、フィリピン、マレー半島に進撃する日本軍の連戦連勝を報じているさなか、熊楠の寿命は尽きようとしていた。
 二十八日、萎縮腎に黄疸を併発した熊楠は半醍半眼の状態であった。文枝が「お父さん、お医者さんを呼んできまひょか」と聞くと、熊楠は答えた。
 「天井に紫の花がいっぱい咲いててとてもきれいやさかい、医者を呼ばんといてくれ。花消えるさかいのう」
 南方邸の庭には、神島から移した棟が、五月になれば紫の花をつける。
 熊楠は棟の花が咲きほこると縁側に出て、ながいあいだ眺めていることが多かった。
 熊楠は十二月二十九日の午前六時半、七十五年の生涯を終えた。最後に「熊弥、熊弥」と二言つぶやいたといわれる。
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