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<本文から>
明治三十九年八月の暑熱のさなか、熊楠と松枝は結婚した。松枝は、熊楠が自炊生活をつづけていた家内を整頓し、住みやすくした。
しらみを湧かせていたという熊楠の不潔な衣類は、清潔なものにとりかえられる。松枝は結婚して、夫が尋常ではない変り者であるのにおどろく。
熊楠は家にいるときは、読書、論文執筆に没頭し、生物の採集にでかければ、ひと月も戻ってこないことがある。
食事はとくに好むものとてなかった。牛肉があればよろこぶが、なければ飯に味噌を塗って食い、満足する。
腹が減れば、うどんを一、二杯も食べて満足する。松枝は夫が、深夜書斎で知人をむかえ、談笑しているような声を聞き、戸の隙からのぞいてみて、誰もいないのがふしぎでならなかった。
「あんた、毎晩書斎でにぎやかにしゃべっていやるけど、誰が来てるのよ」
松枝に聞かれた熊楠は、平気で答える。
「幽霊や」
「そんな気味わるいこと、いわんといてよ」
松枝が頗色を変えるが、熊楠は間のわるいような顛もしない。
「俺には神通力があってなあ。死んだお父はんやお母はん、妹から友達まで、いつでも傍へ呼びだせるんよ。なんなら、やってみよか」
「やめといて、そんなこと聞きたない」
奔放な生活に馴れてきた熊楠と、母亡きあとの家庭をとりしきってきた松枝との共同生活には、当然衝突がおこった。
熊楠は、当時の家庭について、記している。
「小生なども人と大飲をはじめるとき、妻が迎えの下女をよこす等のことあるとき、はなはだしくその心底をにくみ、執念く罵り苦しめしことなどあり」
松枝は熊楠の気債なふるまいに辟易し、一時実家へ帰るなどの波瀾もおこった。だがすでに懐妊しており、翌年には長男熊弥が出生した。 |
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