津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          巨人伝・上

■子供時代から卓抜な能力を発揮

<本文から>
  叔父は熊楠のこしらえる写本を弥兵衛とすみに見せ、彼の卓抜な能力を認めさせる努力を怠らない。
 「こんど熊楠は、連れの家へ行てからに、こげな書物を読んでは覚えて帰って、写本をこしらえはじめたんよ。まだ九つやというのに、神業やのう、兄さん、姉はん、あんたらの子にひたら、ほんまに出来過ぎや。小学校の教師らより、熊楠のほうが学力があると、もっぱら世間の噂や。熊楠のような欲のない神童は、この家にとっての福虫じょ。その証拠に熊楠が生れてこのかた、兄さんの商売は上向き一方やろがのう。まあこれ見てみよし。こげなむつかし本を読める子供が、天下を探ひても熊楠のほかに、どこにあると思うかえ。兄さんも熊楠には出銭を惜しまんと、教育つけてやりよし。ええかえ、分ったのう」
 弥兵衛とすみは、熊楠の絶倫な記憶力を立証する写本をみせられ、息子の才能を伸ばすために、上級の学校へ進ませようと考えはじめた。
 熊楠はさほど大柄ではないが、体は頑健で、とくに足が丈夫であった。和歌山近郊への散策に、九歳の小児が五里、六里を歩いて疲労の色をみせなかった。
 十歳の春、彼は雄小学校の八年間の教科を三年で修了し、湊紺屋町に新設された速成中学科鐘秀学校に進学した。
 弥兵衛もようやく熊楠の教育に熱心になりはじめたのである。
 熊楠は、通学のかたわら漢学塾に通い、どれほど難解な書物をも読みくだす能力を身につけた。 
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■菌学の父・バークレに影響をうける

<本文から>
 熊楠は東京の自由な空気を呼吸し、楽しい日をすごしていた。
 和歌山では、町の人々がたがいに筋を見知っている。どこの誰が、いかようのことをしたと、茶呑み話に噂されるので、熊楠のような変り種は市中の注目の的となっていた。東京へくれば彼などは群衆のうちに埋没して、アメーバのように無視された存在でいられるのである。
 熊楠は共立学校に入学したのちも、アメーバについての文献を読みあさっていた。アメーバは淡水、海水のいずれにもおり、寄生するものもある。
 熊楠は生物学のうち細胞に関する研究に興味をむけていた。当時日本は自然科学の勃興期をむかえていた。動物学の分野では箕作住吉、石川千代松、飯島魁らの学者が近世学派をひらき、生物上の大問題とする胚葉の研究で、世界の学界の注目を集めた。
 植物学では、明治九年にアメリカから帰朝した矢田部良書博士を中心とする学者グループのさかんな研究がすすめられている。
 天文学では寺尾寿、平山信、北尾次郎、木村栄などの大学者が世界に名を知られており化学分野でも高峰譲吉博士の活躍があった。
 熊楠は和歌山中学校に在学中から、イギリスの高名な植物学者パークレーにあこがれていた。彼のような業績をあげるのが、将来にえがく夢でもあった。
 彼は共立学校に通学している間に、アメリカのカーチスという植物学者が、自ら採集した菌類六千点をパークレーのもとに送付し、調査を依頼したというニュースを耳にした。
 パークレーは昼はギリシャ語教師として生計をたて、夜は寝る間を惜しみ勉学にはげみ、菌学の父とたたえられた人物であった。
 熊楠はこれを聞き、ふるいたつ。やがてカーチス、パークレーの両人は協力し、「カーチス・パークレー菌曹類標本彙集」を大成したのである。
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■アメリカでの苦学

<本文から>
 熊楠はアナーバで、スクールボーイ(学僕)をつとめ、生活の資を得ていた。雇い主の家に寄宿し労役を提供しつつ、学問をする苦労に彼は耐えねばならない。
 スクールボーイは低賃金労働に耐え、屈辱をしのばねばつとまるものではなかった。昼間は学校に出て、残余の時間で家庭の掃除、洗濯、料理をすればよい。
 アメリカではいかなる労働者も、一日八時間以上働かせることは禁じられていた。だが日本から続々とおしよせてくる移民が、スクールボーイの就労条件を低下させていた。
 たとえば週一ドル半のスクールボーイは、朝一時間半、晩二時間働くのが当然であったが、実際には十四時間もこき使われる実例さえあった。
 皿洗い、床流し、ポテト、人参、葱の皮むき。買物、掃除、ベッドメイクまで、後は坐る間もなく追い使われる。
 「これはえげつない。和歌山の親父や兄貴でも、年季奉公の丁稚をこれほどこき使わんはずや」
  熊楠は、スクールボーイに見切りをつけると、窓拭き、料理店の下男などあらゆる職業をいとわず、糊口をしのぐ道を探しもとめた。
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■「ネイチャー」への論文から名声が高まる

<本文から>
 熊楠の運命は、この小論文によって急展開をみせることになった。
 熊楠の多彩な活動がはじまった。十月十三日発行の「ネイチャー」に彼の論文、「アーリー・チャイニーズ・オブザペイション・オン・カラー・アダプティション」が前号の論文に次いで掲載され、名声はさらに高まる。
 熊楠は意気さかんな日を送る。大英博物館へは足しげく通い、仏像部を詳しく調査しはじめる。彼は所持していた鰐口、香合各一個を博物館に寄付した。
 その頃、彼は館員リード氏を夜間に訪問し、途上まで送られて帰った。貴族のリードにすでに友人の扱いをうけるようになったわけである。
 十月二日、リード氏より著書「人類学疑条」さらにガーペット氏より著書「クリストハックスレーケイス」を贈られる。
 「ネイチヤー」誌上に発表した熊楠の論文の骨太な構成、該博深遠な造詣、犀利かつ明晰をきわめた論調が、英国学界の信頼を得ていた。
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■イギリスでの孫文との出会い

<本文から>
 孫文は熊楠の底知れない学識に、驚くばかりである。
 熊楠の語学力、推理分析の能力は常人の域を越えていた。熊楠は笑いつつ話をつづけた。
 「シュレッゲルは落迺馬が西欧人の書物に記載される海馬と同一のものであると、何によって立証できるかといってきた。その点も俺は詳しく調べておいた。正字通の落迺馬の出典は、南懐仁敦伯の『坤輿図志』で、著者は支那人ではなく、十七世紀に支那に滞在していた耶蘇会士、フェルジナンド・フェルビーストと分っていたのや。それでもなお落迺馬が海馬の音訳と認めないため、論争を公開してやるというと、ようやく詫び状を出してきたんだよ」
 孫文は、熊楠に手をさしのべ、握手をした。
「君は、ほんとに非凡の人だな。天才というべきだ。君のように東洋と西欧の科学、文学に通暁している人物には、会ったことがないよ。私のように故国を追われて、わずかに異郷に生存を許されている者には、おなじ東洋人に君のような偉人がいることが、心の支えになるね」
 孫文は、しばらくロンドンに滞在し、大英博物館に通って、政治経済の書物を閲読し、新しい知識を得て先進国の文物を把握理解しまうとつとめていた。
 熊楠は、孫文から革命の意見を詳しく聞く。
 「いまの清朝は、腐りきっている。宦官が政治を壟断し、民衆はうちつづく内乱と圧政に疲れきっている。すみやかに清朝の鞋虜どもを追いはらって、中国を恢復しなければならない」
 「それで、君はどのような新政府をおこすのかね。腐りきった清朝を倒して、漢民族の天下にするのか」
 「そうだ、漢民族こぞっての、合衆国を創立するのだ」
 「なるほど、では君はやがては大統領となるわけだな。俺は生涯をかけて、世界の誰も追随できない学問の業績を築きあげるつもりだ」
 二人は、たがいの志をのべあい、はげましあった。
 いまはどちらも、ロンドンの一隅にひっそくする東洋の貧書生であるが、やがては天にのぼる蚊竜となる日がくると、昂然と前途をゆめみた。
 孫文はハワイでアメリカの教育をうけたのち、香港で中国歴史、文学を学んだ。香港では西医学院に学び、ドクターの称号をも得ていたので、政治経済のみでなく、科学知識をも豊富に身につけていた。
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■何の肩書きもないみじめな姿に

<本文から>
 考えてみれば、熊楠は多額の学費と長年月をついやし、何の肩書きをも持っていなかった。学歴といえば、和歌山中学校を卒業したのが最後で、あとは中退ばかりである。
(むかし尾張の細井平洲は四方に遊学して、法螺ばかり吹く未熟な教師についたところで何の益もなしと覚って、多くの書籍を貫いあつめ、馬に乗せて帰郷し、自学自習して大儒となったが、こんなことはあほうの弟夫婦にいうたところで分らん。しかし、俺もつまらん人間や。金儲けの才がまったくない。いまだに弟に飯を食わせてもらうのは、ほんまに自慢にならんことや。お父はん、お母はんの墓へは、恥ずかして参られん)
 彼は和歌山市塩屋の延命院にある両親、妹の墓へ足をむけたことはなかった。
 彼は自分のみじめな姿を、墓前にさらすのに忍びなかった。
(俺には、自分の歩んだ道がまちがっているとは考えられん。俺はブリティッシュ・ミュージアムに眠っていた稀書、珍書を片端から読破し、タイラー、フレイザーのような著名学者を啓発する、故事の博捜をやった男や。別段、お父はんお母はんに恥じるところはないが、やっぱりこの年齢になってひとりで食えんのは不徳の至りといわぎるを得んことや)
 熊楠は丈たかく伸びた秋草をちぎり、草笛を吹きつつ、いくつかの岩山を越え、雑賀崎に着く。
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■孫文との親交は続く

<本文から>
 孫文は、熊楠が和歌山で身動きのとれない状態におちこんでいるのを心配し、木堂に紹介し、独立して学問のできる環境を与えてもらいたいと考えていた。
 だが、熊楠には未知の木堂に面会して助力を求めるような、融通のきく処世の才はなかった。孫文の紹介状はむなしく熊楠の手にとどまり、二人はそののち再会の機を得ることは、ついになかった。
 孫文はその後も熊楠と音信を交しつづけた。和歌山来訪ののち、ハワイに渡った孫文は、マウイ島で直径八インチの地衣パルメリアを採集し、その上皮に署名して熊楠に贈った。
 熊楠はおりかえし、地衣の発見場所につき問いあわせ、孫文は七月一日付の手紙で、採集地の様子を詳しく知らせてきた。二人の友情は、遠隔の地にいてもなおこまやかなものがあった。
 孫文は十度に及ぶ革命の挫折をのりこえ、大正十年広東で大総統に選ばれ、翌十一年には叛乱軍に追われて一時上海へ亡命する。十二年には再度広東で大元帥となり、十四年三月十二日、肝臓癌で北京に没した。
 熊楠は孫文の死後、友人に送った書信のうちに、孫文との交遊が、経済上の不如意によってままならず、ついに不通になった淋しさを、「人の交りにも季節あり」と記し表現している。
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