津本陽著書
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          巨眼の男 西郷隆盛 3

■隆盛は生け贄の牛のように思った

<本文から>
 だが、隆盛は容易に応じなかった。 
「お前のいうことはよく分る。でくっことなら、俺もひとはたらきしてみたか。じゃっどん、ほかの衆が、私欲を捨て大節に殉じる覚悟を持てんじゃろう」
 東京から川村純義、黒田清網も帰ってきた。彼らも隆盛に上京をすすめた。
 だが隆盛は考えを変えない。西郷信吾は東京へ、至急勅使を送ってくれるよう、連絡した。
 大久保はさっそく手配した。隆盛は鹿児島藩大参事という地方官で、勅使を派遣できる身分ではない。それで、島津久光の上京をうながすという名目にした。
 明治三年十二月十八日、勅使岩倉具硯、副使大久保利通、随員山県有朋が鹿児島に着いた。
 岩倉、山県は二十八日まで、大久保らは明治四年(一八七一)正月三日まで鹿児島に滞在し、久光と隆盛に政府出仕を要請した。
 隆盛は岩倉にかねて考えていた政府改革案二十五条を提示し、承認を得た。久光も春頃の出京を承知したので、出馬の決心をした。
 隆盛は明治四年正月三日、大久保とその二人の子息、川村純義、池上四郎らと鹿児島から海路長州に立ち寄り、八日に山口で木戸孝允と会い、十日に毛利敬親父子に会い、政府改革のために、薩長協力が必要であると説いた。
 さらに木戸、大久保とともに豊後灘を南下し、十七日、高知に到着、二十一日まで逗留して、老侯山内容堂、大参事板垣退助、福岡孝弟と会談し、三藩が連合し政府大改革をおこなう方針を説き、賛成を得た。
 西郷、木戸に板垣が同行し、二月二日、東京に着いた。
 隆盛は短時日のあいだに、薩長土協力の約束をとりつけた。ぐずついていては成功しないので、猛然と動いたのであった。
 薩摩の出方を疑っていた長州、土佐は、たがいに相談しあう余裕もなく、たちまち隆盛のいうままに動かされた。そのような神速の手際は、人望のない大久保、岩倉のよくなしうるところではなかった。
 隆盛は維新の大業をなしとげたあと、日本の政情が旧幕時代と変っていないことに不満を持っていた。農民たちが貧しい環境のなかで生れ、一生を酷使に耐えてはたらいたにもかかわらず、生れたときと同様の貧困のうちで死んでいった。
 農民は腐りきった役人たちの略奪をうけ、餌食にされていた。公金の悪用は、さかんにおこなわれている。政府には、高官と共謀した大がかりな横領の組織が存在し、彼らに支配される社会では、正直者が損を見るばかりであった。
 隆盛が鹿児島を出発するとき、旧友木場伝内に送った漢詩がある。
 朝野に去来するは、名を貪るに似たり
 竄謫の余生、栄を欲せず
 小量、まさに荘子の笑となるべし.
 犠牛、拭に繋がれて晨烹を待つ
『史記』に、荘子が大臣にむかえられたときことわった故事が記されていた。高給をもって朝廷に仕えても、牛が大廟の杭につながれ、煮殺されるのを待つにひとしいことであるから、皇帝に仕える気はないといったのである。
隆盛は荘子の故事を例にとり、自分のような小さな器量の人間は、荘子のように朝廷の招きをことわることができず、やがて犠牲の牛として覆られるであろうと、伝内に告げた。彼は、国家の浮沈にかかわるとき、渾身の力を傾けて国難にあたろうと決心したが、胸中には術策の徒にすぎない岩倉らと、衝突するときがあるだろうと、予測していた。
隆盛は、新政府の現状を、「錆びついた鉄車も同然」と見ていた。彼が出京すると、政府はその要望をいれ、二月十三日、鹿児島、長州、土佐の三藩に御親兵の出動命令を下した。
 隆盛は二月十五日に東京を出発し、二十五日に鹿児島に戻った。城下の常備隊である歩兵四大隊、砲隊四座、大砲三十二門、兵数三千人が、隆盛に従い上京したのは、四月下旬であった。
鹿児島には旧下級士団、四十八大隊が常時調練を怠らず、一朝有事の際に出動することを期待していた。
長州は歩兵三大隊、土佐は歩兵二大隊と騎兵二小隊、あわせて約八千人である。戊辰戦争後、東京に駐屯している諸藩兵をあわせても、一万人である。
 だが戊辰戦争の戦費に貯えをつかいはたした諸藩には、一万の親兵を相手に戦う余力もないと、隆盛は判断した。
 四月二十一日、品川に上陸した薩摩の親兵約三千人は、それぞれ異る服装であった。筒袖、袴の兵と並び、詰襟のラシャ服をつけた兵がいる。背には簑笠を負い、雨支度をしている。
 三藩の兵が集合すれば、外見ではどこの藩兵か見当がつかない。そのため、全員が幅五セシチ、長さ三十センチの布片を、左襟に縫いつけた。
 薩摩は赤、長州は黄、土佐は紫色である。そこに、「何藩藩士第何隊何某」と書きこむのである。
 東京に到着した薩摩御親兵は、九段の招魂社(のちの靖国神社)に参拝し、武運長久を祈った。 
▲UP

■隆盛は動機、目的、手段が、天下に恥ずべきものでないとする性格

<本文から>
 西郷が維新の大業をなしとげたのは、彼が郡方書役助の頃から接してきた、貧困のなかで際限なく労働の成果をしぼり取られてきた農民たちに、しあわせな生活を与える社会をつくりあげたかったからである。
だが、現実は失望せざるを得ないような、政、官、財の癒着。新興財閥から顕官たちが収賄をする、堕落した有様であった。維新の混乱を泳ぎ、思いがけない栄達を遂げた成りあがりの二流、三流のかつての志士たちが、変貌を遂げた姿であった。
 西郷は幕府を倒したのち、新国家の構想を持っていなかったという説があるが、国家建設の実務はすぐれた人材に任せ、政治理念を確実に把握しておればいいと判断していたのである。
 彼は理想社会の実現だけを望み、大久保らの治政がその方向へむかってくれることを望んでいたが、いつのまにか、自分が新政府の声威の邪魔者とされるようになったことに、気づいていた。
 大久保には、目的のために手段を選ばない策謀家としての根性があった。隆盛は動機、目的、手段が、天下に恥ずべきものであってはならないとする性格であった。大久保の「有司専制」の方針は、やがて天皇統帥権の絶対化につながってゆく。
 川路の命をうけた警視庁少警部中原尚雄が川内に上陸したのは、一月十日であった。まず串木野の親類、長平八郎をたずねた。
 平八郎は中原を見るとおどろいて家のなかに引きいれ、鹿児島県下の情勢を教えてくれた。
「こん串木野でも、私学校生徒にならん男は、すべて犬か牛馬のように扱われ、迫害をうけちょる有様ごわす。東京から帰った者はすべて政府の放った密偵と見なされ、村八分にされちょいもす。道を歩けば、どこからか石が飛んでくるぞ。お前も気をつけたほうがよか」
 中原は予想をはるかに超える緊迫した情勢に、川路大警視から命ぜられた城下士族と外城士族の離間をはかる運動は、きわめて困難であると判断した。
 薩摩人は闘争心が強い。ウドさあ(隆盛)が私学校党を率い、政府問罪のために上京すると聞くだけで、その理由をくわしくたしかめることもせず、東上して隼人の強悍な武威を天下に知らせてやるといきりたつ。
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■隆盛が官職を辞してから動向

<本文から>
  だが奥州鎮撫軍参謀、世良修蔵は長州人で、思慮に乏しい人物であった。蛤御門の変で会津藩兵にいためつけられた経験のあった世良は、嘆願書をうけつけず、会津征討の命令を発した。
 世良はさっそく同じ参謀の大山格之助(網良)に書状を送り、西郷吉之助に向背ただならざる奥羽諸藩の実状を報告し、征討軍の派遣を依頼した。
 だが、書状は途中で仙台藩の手に入り、世良は閏四月二十日に、福島の色町で遊興しているところを仙台藩士に襲撃され、殺された。
 この事件のあと、五月三日に、奥羽二十五藩と北越の長岡、新発田、村上の諸藩が、「奥羽越列藩同盟」を結成した。
「官軍とは名ばかりで、薩長の私兵が天下をわがものとするつもりだ」
 彼らが反撃態勢をとると、江戸にいた西郷が、白河、越後に援兵を派遣したが、とても鎮撫できる情勢ではない。
 十月になると北国は雪が降りはじめる。それまでに大部隊を増援させ、同盟軍を制圧しなければならない。
 隆盛は援軍を募集するため、京都に戻ってきたのである。隆盛は茂久に進言した。
「とても、こん兵力では奥羽越三十藩と戦えもはん。急ぎ帰国して大兵を募集したのち、出陣されよ」
 茂久は進言をいれ、奥羽出兵を思いとどまり、隆盛とともに鹿児島へ帰藩した。
 同年八月、隆盛は北陸征討軍総差引を命ぜられ、越後へ出陣した。彼は新発田の北陸征討軍本営入りをすすめられたが、辞退した。十月末、出羽、庄内藩の降伏後の処理をすませたあと、京都に帰り、政府残留のすすめをうけいれず、吉井友実、大久保一蔵に後事を托し、鹿児島に帰り、すべての官職を辞した。
その後は日向山温泉にいて、狩猟を楽しむ生活を送った。
 隆盛が官職を辞したので、藩主茂久、島津一門の重役が新政府の中枢へ進出できなくなったと、鮫島氏は説く。
このことは明治椎新史のうえで大きな意味を持つというのである。
 鳥羽伏見の戦いの、わずか二十五日前の慶応三年十二月九日の、宮中小御所会議までは、薩摩、越前、尾張、土佐、安芸各藩の藩主、老侯が、朝政の主導権を握っていた。
 その後も、隆盛が藩主とその一門を政府の中枢に押し出しておれば、当然各藩も、それにならい、その結果、維新を下級武士主導で推進できなくなる。四民平等、版籍奉還、廃藩置県も実行されていなかったかも知れない。
 徳川幕府にかわり、島津幕府が出現しただけで、革命が終った可能性がある。
 明治二年二月、日向山温泉にいる隆盛のもとへ藩主茂久が村田新八をともない来訪し、藩政参与になるよう懇請した。
 薩摩藩では戊辰戦争の帰還兵士が、中、小隊長格の川村純義、野津鎮雄、伊集院兼寛を代表として、倒幕に際しまったく尽力しなかった門閥、上士を役職から引退させ、従軍した小姓組、郷土からの人材登用を迫った。
 東京、大阪から小松帯刀、大久保、吉井らが帰郷、説得しても騒動が納まらなかったためである。
 隆盛は藩政の大改革にあたった。その間に新式常備隊を設け、箱館戦争に従軍し、長州、福岡の贋札事件で出張した。
 六月に賞典禄二千石を下賜され、九月正三位に叙せられたが、位階を辞した。
 明治三年十二月には、鹿児島に勅使岩倉具硯がきて上京を促され、翌四年、政府参議として、廃藩置県を断行した。
 明治五年には天皇の西国巡幸に供奉し、六月に鹿児島に着いた。七月に近衛兵の暴動がおこり、急遽帰京。陸軍元帥兼近衛都督兼参議となった。
 明治六年五月、陸軍大将兼参議に任ぜられ、十一月に帰郷した。
 明治九年二月、島津久光は政府の方針に異をとなえ、家令内田政風を帰郷させ、隆盛に薩軍を率い上京し、政府を打倒、改革せよとすすめたが、隆盛はことわった。
「賢明な久光公が大臣の職におられ、十分ご尽力されても実効があがらん情勢で、不肖短才の私が改革でけんこつは、明々白々でどざいもす。私の素志はただ、国難に来れるのほかに何の望みもございもはん」
 隆盛がもっとも信頼していた桂久武にあてた、明治三年七月八日付の書状には、彼の久光に対する心情が、赤裸々に語られている。
「私はいかに讒言されたとはいえ、賊臣の名をこうむり、沖永良部島の獄に監禁されもした。
 そんまま朽ち果てれば、先君(斉彬) へ申しわけごわはんで、一度は国家の大節にのぞみ、御信任にむくい、賊臣の御疑惑をはらしもしたら、泉下の先君に謁してこころよくさまざまご報告できるち思いもした。
 ただこれだけの思いこみで、藩にもご奉公しちょり、久光公と自分との情誼はまったくどわはんで、義の一字のみで勤めるばっかりごわす。ご憐察下さいやったもんせ」
 隆盛は顕職を辞した本心を明かす。
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■隆盛が狩猟、湯治などに時を過ごしていたのは、千載一遇の好機を待つため

<本文から>
 また明治七年一月、鹿児島の西郷を訪れた高知県士族林有造は、西郷から内心をうちあけられた。
「木戸氏は俺を昔から憎んじょる。しかしいま俺が土佐と協力すれば、木戸氏は決して俺を討つことはできもはん。
じゃっで、お前んは板垣氏に説き、木戸氏を煽動して俺を征伐さすっがよか。政府がまず手を下し、俺を討てば、俺は怒りもんそ。薩摩国中の志士は皆怒って防戦するこつじゃろう。戦がはじまれば、俺の打つ手はすでに定まっちょりもす」
隆盛が板垣の同志である林に、いくらかからかう口調でいった言葉のうちには、彼の本心がひそんでいた。
このとき隆盛は、木戸孝允と戦うつもりでいた。兄弟よりもふかい交流のあった大久保と戦うとは、まだ考えていなかった。
隆盛が私学校党の結束をつよめ、あるときは叱咤し、あるときは温情をもって、青年たちをわが影響力のもとにおいたのは、その勢力を用いる機会を待っていたためではなかったか。
 いずれは天下の人民が、こぞって隆盛の決起を望むときがくる。そのとき隆盛は私学校党を率い、政府問責にむかうのである。
 隆盛が狩猟、湯治、開墾、揮重などに時を過ごしていたのは、千載一遇の好機を待つためであった。
 隆盛が決起せざるをえなくなったのは、明治十年の弾薬椋奪事件にあった。掠奪をおこなった生徒たちは、黙視しておれば叛逆罪を犯したとして処断されよう。
 このまま手をこまぬいておれば、西郷を中心とする私学校党は、政府の圧迫のもと解散させられてしまう。
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■官軍に戦いを挑むつもりは隆盛にはなかった

<本文から>
 大山県令は、この別紙を長崎県令豊島秀朝に託し、有栖川宮職仁親王に提出し、特使を政府に派遣し、三条太政大臣、岩倉右大臣に上申した。
 隆盛は、熊本城攻撃に悩み、官軍の南下に必死の戦闘をつづける一万数千の薩軍を率い、今後の結着をどうつけようと考えていたのか。彼はかつて長州征伐のとき、自ら敵地に足を運んだ。江戸城明渡しのときも同様である。
 上申書にしるすところでは、隆盛は自分を暗殺しようとした大久保利通らを弾劾するため、東京の政府へむかおうとしたのである。
 それならば、永山弥一郎がいったように、西郷、桐野、篠原が単独で上京し、政府要路と直接談判すべきであった。だが私学校党のほとんどは、それに反対した。鹿児島まで刺客を派してくるような政府が、隆盛を自由に行動させるはずがない。
隆盛を政府に捕えられては、私学校党を統率できる者がなくなる。危険を防ぐため薩
軍は同行した。だが鹿児島出発のとき、官軍に戦いを挑むつもりは隆盛にはなく、従って薩軍は戦闘のための支度を本格的にととのえなかった。
大砲、銃砲弾の多くは鹿児島の諸所に隠されていた。兵站の不備はもちろん、族費さえろくに持っていなかった。
熊本城攻めで手痛い反撃をうけたとき、ただちに反転して下関へ渡り、中国路を東へむかえば、私学校党が予想していた通り、各県下の不平士族が蜂起していた可能性は充分にあった。
 下関へ出るのがむずかしいときは、戦力を消耗しないうちに鹿児島に戻り、たてこもって長期戦に持ちこめば、全国の有志が決起して政府の基盤を揺がすことになる。
俸禄を金禄公債に替え、武家の商法でそのわずかな貯えを失い、生活に窮している士族の数は、どれだけあるか知れない。
 隆盛は官軍と戦うつもりがなかったので、薩軍の指揮を桐野に一任していた。それが川尻での鎮台兵との衝突以来、事態は思いがけない方向へ激流のように動いてゆく。
 隆盛は熊本城に攻めかかるまで、官兵何するものぞと驕りたかぶっていた薩軍の士気をひきしめ、頓勢をたてなおす手段を自らたてるべきであった。
だがかねてから私学校党撲滅の策を立て、機をうかがっていた政府の対応はすばやかった。私学校党が不在の鹿児島には、島津久光父子がいる。政府は父子を西郷に同調させないよう諭告するため、鹿児島へ勅使を参向することにきめた。
 元老院議官柳原前光が勅使に任ぜられ、陸軍中将黒田清隆、陸軍大佐高島靹之助が随行することになった。黒田、高島はともに鹿児島県人である。
▲UP

■隆盛は桐野たちに強制せれて決起した

<本文から>
  五十余日間の熊本城攻囲のあいだ、隆盛は本営にいるのみで、病院へ慰問に出かけるだけであったという。戦闘指揮はもとより、軍議の座での発言が、まったく記録されていない。
一万余の薩軍を率い、鹿児島を出発したのは、西郷の命令によるものではなかったのか。サトウの記録を読めば、その疑いが濃くなってくる。
 鹿児島在住士族の総意によって、西郷は政府尋問のため東上することを懇願された。
 いや、むしろ強制されたのではないか。強硬手段をとっても、政府実力者を打倒しようと考えたのは隆盛ではなく、桐野、篠原ら一部の私学校党指導者であったのかも知れない。
 すでに火薬庫襲撃事件はおこっていた。このまま時を過ごせば、鹿児島県は他県と同様に、牙を抜かれた狼のように無力になって、体制に順応しなければならない。
 桐野たち過激な旧軍人たちは、隆盛のもとに結束し、彼らを無力な庶民に同化させねばやまない政府を打倒しなければならなかったのであろう。
 薩軍が熊本から退却したのち、とるべきもっとも正しい方法は、官軍に降伏することであった。しかし官軍は、降伏の条件として反政府勢力の一掃を要求するにきまっていた。
 薩摩隼人が官軍に無条件降伏をするよりは、死をえらぶをよしとした心境も理解できる。隆盛は、彼らが頼る大黒柱として、無理を承知で私学校党を率いたのである。
 熊本城攻略に失敗した薩軍は、もはや追われる立場である。薩軍は豊後から日向へ退却するばかりであった。
 窮地に陥った彼らが、もっとも救援を期待しているのは、土佐の同志であった。土佐では板垣退助の腹心である林有造が、薩軍に協力を急いでいた。
 林は土佐の足摺岬に近い宿毛の出身で、兄岩村通俊は、大山網良が捕縛されたあとを継ぎ、鹿児島県令、弟高俊は佐賀の乱に佐賀県権令としてはたらいた。林はひとり外務官僚で、板垣退助とともに辞官したのち、立志社中で活躍した。
 私学校党が決起したとの情報が全国に伝わったとき、立志社大幹部の林は、土佐の大森林である白髪山を、政府に買いあげさせ、その資本を政治運動に投入しようと企てていた。
 政府は窮乏する士族のため、救済の施策を惜しまずにいた。開墾のために士族に払いさげた土地を、あらためて高値で買い戻すようなこともした。政府は白髪山買いあげに関心を示していた。
 林有造は明治十年二月、東京にいたとき政府に対して、白髪山買いあげを要請する運動をしていたが、ある日三菱海運に立ち寄った。
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