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<本文から> だが、隆盛は容易に応じなかった。
「お前のいうことはよく分る。でくっことなら、俺もひとはたらきしてみたか。じゃっどん、ほかの衆が、私欲を捨て大節に殉じる覚悟を持てんじゃろう」
東京から川村純義、黒田清網も帰ってきた。彼らも隆盛に上京をすすめた。
だが隆盛は考えを変えない。西郷信吾は東京へ、至急勅使を送ってくれるよう、連絡した。
大久保はさっそく手配した。隆盛は鹿児島藩大参事という地方官で、勅使を派遣できる身分ではない。それで、島津久光の上京をうながすという名目にした。
明治三年十二月十八日、勅使岩倉具硯、副使大久保利通、随員山県有朋が鹿児島に着いた。
岩倉、山県は二十八日まで、大久保らは明治四年(一八七一)正月三日まで鹿児島に滞在し、久光と隆盛に政府出仕を要請した。
隆盛は岩倉にかねて考えていた政府改革案二十五条を提示し、承認を得た。久光も春頃の出京を承知したので、出馬の決心をした。
隆盛は明治四年正月三日、大久保とその二人の子息、川村純義、池上四郎らと鹿児島から海路長州に立ち寄り、八日に山口で木戸孝允と会い、十日に毛利敬親父子に会い、政府改革のために、薩長協力が必要であると説いた。
さらに木戸、大久保とともに豊後灘を南下し、十七日、高知に到着、二十一日まで逗留して、老侯山内容堂、大参事板垣退助、福岡孝弟と会談し、三藩が連合し政府大改革をおこなう方針を説き、賛成を得た。
西郷、木戸に板垣が同行し、二月二日、東京に着いた。
隆盛は短時日のあいだに、薩長土協力の約束をとりつけた。ぐずついていては成功しないので、猛然と動いたのであった。
薩摩の出方を疑っていた長州、土佐は、たがいに相談しあう余裕もなく、たちまち隆盛のいうままに動かされた。そのような神速の手際は、人望のない大久保、岩倉のよくなしうるところではなかった。
隆盛は維新の大業をなしとげたあと、日本の政情が旧幕時代と変っていないことに不満を持っていた。農民たちが貧しい環境のなかで生れ、一生を酷使に耐えてはたらいたにもかかわらず、生れたときと同様の貧困のうちで死んでいった。
農民は腐りきった役人たちの略奪をうけ、餌食にされていた。公金の悪用は、さかんにおこなわれている。政府には、高官と共謀した大がかりな横領の組織が存在し、彼らに支配される社会では、正直者が損を見るばかりであった。
隆盛が鹿児島を出発するとき、旧友木場伝内に送った漢詩がある。
朝野に去来するは、名を貪るに似たり
竄謫の余生、栄を欲せず
小量、まさに荘子の笑となるべし.
犠牛、拭に繋がれて晨烹を待つ
『史記』に、荘子が大臣にむかえられたときことわった故事が記されていた。高給をもって朝廷に仕えても、牛が大廟の杭につながれ、煮殺されるのを待つにひとしいことであるから、皇帝に仕える気はないといったのである。
隆盛は荘子の故事を例にとり、自分のような小さな器量の人間は、荘子のように朝廷の招きをことわることができず、やがて犠牲の牛として覆られるであろうと、伝内に告げた。彼は、国家の浮沈にかかわるとき、渾身の力を傾けて国難にあたろうと決心したが、胸中には術策の徒にすぎない岩倉らと、衝突するときがあるだろうと、予測していた。
隆盛は、新政府の現状を、「錆びついた鉄車も同然」と見ていた。彼が出京すると、政府はその要望をいれ、二月十三日、鹿児島、長州、土佐の三藩に御親兵の出動命令を下した。
隆盛は二月十五日に東京を出発し、二十五日に鹿児島に戻った。城下の常備隊である歩兵四大隊、砲隊四座、大砲三十二門、兵数三千人が、隆盛に従い上京したのは、四月下旬であった。
鹿児島には旧下級士団、四十八大隊が常時調練を怠らず、一朝有事の際に出動することを期待していた。
長州は歩兵三大隊、土佐は歩兵二大隊と騎兵二小隊、あわせて約八千人である。戊辰戦争後、東京に駐屯している諸藩兵をあわせても、一万人である。
だが戊辰戦争の戦費に貯えをつかいはたした諸藩には、一万の親兵を相手に戦う余力もないと、隆盛は判断した。
四月二十一日、品川に上陸した薩摩の親兵約三千人は、それぞれ異る服装であった。筒袖、袴の兵と並び、詰襟のラシャ服をつけた兵がいる。背には簑笠を負い、雨支度をしている。
三藩の兵が集合すれば、外見ではどこの藩兵か見当がつかない。そのため、全員が幅五セシチ、長さ三十センチの布片を、左襟に縫いつけた。
薩摩は赤、長州は黄、土佐は紫色である。そこに、「何藩藩士第何隊何某」と書きこむのである。
東京に到着した薩摩御親兵は、九段の招魂社(のちの靖国神社)に参拝し、武運長久を祈った。 |
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