津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          巨眼の男 西郷隆盛 2

■勝海舟との会談

<本文から>
  蛤御門の変のあと、幕府は朝廷の長州追討令をうけ、西国二十一藩に征討の支度をさせた。
 長州藩の江戸、大坂藩邸は取りこわし、その廃材を湯屋に分け与え、藩邸詰めの者はすべて幽閉した。                
 だが長州征伐の軍勢は容易に動かない。征長総督は紀州藩主徳川茂承から前尾張藩主徳川慶勝に変更されたが、慶勝も責任の重い任務をなかなか受諾しなかった。
 吉之助は、元治元年(一八六四)九月十六日付の大久保一蔵(のちの利通)あての書状に、勝安房(海舟)の印象をつぎのように記している。
「勝氏にはじめて面会しもしたが、とても驚くばかりの人物でごわした。最初はさほどの者でもなかろううち軽く考えて出向きもしたが、ただただ頭を下げるばっかいごわした。
 どれほど智略のあるか分らぬような、いってみれば英雄の肌合いの人で、佐久間象山よりも一枚うわてのどつごわす。
 学問と見識においては、佐久間は抜群の人物ござしたが、実地のはたらきならば、この勝先生じゃち、惚れこみもした。
 兵庫港へ外国軍艦が迫ったときの策をたずねもしたら、いかにも良策と感じいりもした」
 吉之助は、勝安房から聞かされた通り、雄藩が連合して共和政治をおこなわねばならないと述べ、もしこの策が成功しないときは、断然、薩摩藩単独で富国強兵策をとらねばならないという。
 「じゃっどん、現状解決の順序からいうもんせば、長州征伐が第一ごわす。せっかく薩摩藩からいいだしたこつごわんで、油断せず実行しもんで、ご承知おき下さいやったもんせ。
 咋朝は、熊本藩士長谷川仁右衛門らと会見しもした。肥後、薩摩の両藩で勅許を得て、すみやかに実行すべきとの意見が出もしたが、薩摩藩は諸藩の評判もよくなかので、肥後が責任をもってくれるなら、ただちに同意するち申しいれておきもした。
 すると、いろいろ都合のわるかこつをいいだしてきもす。
 これまでの肥後の状況から見て、両藩で長州征伐を引きうけるというのは、とてもむずかしかち思いもしたが、そのまま本心を打ちあけると激論になりもんで、とにかく同意するちいいもしたが、こんのちどのように発展するか分りもはん」
 吉之助は勝安房から軍備拡張の必要を説かれ、軍資金の調達を急がねばならないと説く。
 「金繰りはまこて難儀な時節で、莫大な費用がかさんでおりもす。いま蒸気船で砂糖、唐薬種、煙草、鰹節などの国産品を大坂へ送り、はじめに高利を求めんで、鋼、生糸などと交換しておいてはどげんどわんそかい。
 今月から来月までが生糸を売り出し中で、値段もよほど下っておりもす。一箱につき百両の安値で、お国元織屋方も、年々三百貫目は買いつけておいもす。
 ただいま買い入れの手筈をととのえているところどわす。いまや幕府の嫌疑をはばかるどころではない事態ごわす。
 思いきってたくさん買いしめ、一挙に大仕事をしたかもんごわす。
 御内用金二万両が手もとにありもんで、それだけはなんとしても買いいれもす。十万両ほども買いしめたかもんどわんが、時間がとるっならば、私が顔を出して商取引をやりたかもんと考えておりもす。
 攘夷派から天誅の名目で暗殺さるっか、または幕府新選組などの刺客に襲わるっか、いずれにしてもたかが知れた敵ごわんで、ぜひともなしとげたく、せっかく手をつけたことごわんで、ご納得下さいやったもんせ。
 
▲UP

■長州藩らとの西国雄藩連合

<本文から>
  吉之助は征長軍解兵の命令が下った翌日の十二月二十入日、広島を離れ、海路をとって途中で小倉に立ち寄った。
 彼は正月元日、征長副総督松平越前守と、小倉在陣の薩摩藩先鋒隊軍賦役黒田清網(嘉右衛門)に、解兵となった事情を告げ、芦屋の薩摩藩本陣にも報告におもむいた。
 彼は三日にふたたび副総督府に出向き、五卿接遇につき相談をしたのち、四日に鹿児島へむかった。
 正月十五日、鹿児島に戻った吉之助は、前年十月、久光から帰国の命令を受けたが、長州征伐の問騒が解決してから帰国したいと請願し帰国が遅れていたので、この件につき答めをうけると覚悟していた。
 だが、吉之助の名望は内外で高まっていた。久光はこれを賞し、刀一腰を与え、二の丸に勤仕するよう命じた。
 吉之助は、帰藩してのち、大久保一蔵に会い、長州征伐の実情について話した。
 「長州では俗論党が萩で毛利父子をいただき、本家として威を張っちょるが、内側を見れば、幕府と同様に腐っちょる。
 しかし、町人百姓まで大勢集めた諸隊というのが、千人ほどおりもす。もっとふえるじゃろうが、こいが長州の激党ごわす。激党は事に及んでたちまち怒りを発し、乱暴をはたらきもすが、そのいきおいは乱世を鎮めるための、国の宝ごわす。政庁に集まる上士どもは、幕府の鼻息をうかがうばっかいで、何もできもはん。去年勝安房殴と会ったとき、西国雄藩連合をこしらえ、幕政の改革を迫ればどげんかというておったが、九州の雄藩に説き、協力を誘ってはどげんじゃろうか」
 一蔵は、目を光らせうなずく。
 「そいも一法じゃ。さっそくやってみっか」
 彼は外圧を凌ぎ、西欧列強に伍してゆくため忙は、挙国一致の体制をとらねばならないという、吉之助の意見に同意した。
▲UP

■長州における諸隊の拡張

<本文から>
   山口に本陣を置いた高杉らは、いきおいを見て急増してくる入隊志願者をうけいれ、兵站をととのえ、萩へ進入するための軍備を周到にととのえている。
 萩の政庁では、最初はたかが知れた小人数の農兵たちに、なにができるものかとたかをくくっていたが、猫が猛虎に変ったように、諸隊の規模が急速に拡張されてきたので、うたえた。
 もはや藩兵によって、諸隊を鎮圧できそうもないという事実が、ようやく藩の首脳部にも分ってきた。
 諸隊の経済を支えている豪商、地主たちは、もはや藩主の威権を認めていない。士農工商の世のなかが変る時期が近いことを覚っていた。腹を切って藩主のまえで諌死するのが恩義であると考える、旧来の武士の意識など念頭にない。高杉を支持するのはそのためであった。
 萩城下では、俗論党の支配する政庁が派遣した鎮静軍が、諸隊との戦闘に連敗したので、俗論党、正義派のいずれにもついていない中立派の藩士たちが、しだいに数をふやしてきた。
 彼らは二百余人で、鎮静会議員と称した。彼らのうち、大谷口総奉行をつとめる毛利将監が、約七十人の議員をともない、藩主に謁し、意見をのべた。
 「このたび諸隊討伐として、数千人さしむけられ、すでに一月ほどにあいなり候えども、いまだ誅滅に及ばず候儀は、必勝の御廟算あいたたざるゆえと恐縮奉り候。
 然るに藷隊の勢、日々強勢にあいなり、諸軍諸士ならびに百姓までも帰服つかまつり、容易に誅滅いたしがたく、かつ小民ども奔命につかれ、一揆をあい企て候者これあるよう評判つかまつり候。
 笑もって御大事の時と存じ奉り、日夜憂苦寝食を安んぜずまかりあり候。
 さっそく戦をとどめ、鎮静の御策略これなく、遷延に及び候ては、このうえいかようの御大害差しおこり候こと、これあるべくも計りがたしと存じ奉り候」
▲UP

■薩長連合で幕府を倒す考えに至る

<本文から>
  幕府が崩壊するのを待ち、帝のみに勤王をとなえようとする、はなはだ憎むべき奴らであるとして、長州征伐がヽ いよいよ勝利ときまれば、薩、土、越、尾、肥前、肥後、筑前、因州などの諸藩を、追い追いに討滅する遠謀があるらしい。
 これは事実のようである。
 この春嶽に、幕府は表向きの待遇を厚くしているが、内心は油断できないと、ある人が余に忠告した」
 親藩の越前藩でさえ、このような疑念を抱くほど、幕府は強気であった。その裏面には、長州藩の密貿易を封鎖しょうとはかる幕府を支持し、協力体制をかためようとする、フランス公使レオン・ロッシユの策略もかかわっている。
 幕府が指摘する、毛利父子の容易ならぬ企てとは、長州藩が上海で蒸気船を売却した代金で、多量の銃砲を購入したことであった。
 長州藩の行為は、たしかに幕府の武家話法度に背いている。幕府に無断で武器の売買をすれば、謀叛をたくらんだことになる。
 だが幕府の権威は、もはや昔日に比べることもできない。
 津藩主藤堂和泉守高猷はいう。
 「将軍は京都にとどまり、朝廷の意向をうかがうべきです。やむをえないときは、大坂城におとどまり下さい。
 もし播州路までお進みになれば、長州藩はいよいよ決心をして刃向ってくるであろうから、自重すべきです」
 吉之助は、元治元年(一八六四)十月入日、京都から鹿児島の大久保一蔵あての書状では、長州藩を五、六万石に減封し、国替えせねばならないと記した。
 そうしなければ、薩摩藩の脅威となりうる勢力を温存することになるというのである。
 そのような強硬論をとなえていた吉之助が、一カ月を経た同年十一月には、長州壊滅を主張する征長副総督松平越前守を説得し、降伏をうけいれさせるよう、小倉へ出向いている。
 毛利父子の処分、削封については忘れたかのようにふるまい、三家老の切腹、山口城の破毀、五卿の筑前移転という、寛大な条件で、長州を降伏させた。
 吉之助は七月の蛤御門の変の際、捕虜とした長州人は殺さず、厚遇して帰国させた。その寛大なふるまいは、会津藩が征長出陣の血祭として、長州の捕虜をすべて斬戮した行為と対照された。
 薩摩人は、何事にも単純な判断を下さない。吉之助は機を見るにきわめて鋭敏で、状況に応じ、迅速に政策の転換をする、薩摩人の特徴をそなえていた。
 彼が第一次長州征伐において、対応の態度を豹変させたのは、九月半ばに勝安房(海舟)と面談し、日本の前途につき、多くの示唆をうけたためであった。
 『海舟日記』によれば、九月十一日の項につぎの記載がある。
 「薩人大島吉之助、吉井幸輔、越人青山小三郎、来訪」
 勝と対面した様子を、大久保一蔵に知らせた書状は、既に記載したが、勝は長州藩を再起不能に陥れることは、日本国の将来を考えると、思いとどまるべきであると説いたのであろう。
 幕府の組織が、欧米先進国に日本が追いつくために、いかに障害となる腐敗しきった組織であるかを、雄弁に語り、外国の事情にうとい吉之助は、眠から鱗の落ちる思いをしたにちがいない。
 吉之助は当時、小松帯刀とともに京都にいて、薩摩藩の方針を決める重要な代表者として行動していた。
 吉之助が長州藩を薩摩藩の競争者として、撃滅しようと動きかけた藩論を突然変更し、降伏した長州藩を庇護する立場に急に変ったのは、もはや西欧諸国との対応に、何の行動力もあらわすことのできない幕府を見限ったためであった。
 薩摩藩は表向きの動きは長州藩のように泥手ではないが、情勢判断がはやく、政情の変化を知るやいなや、きわめて現実に即応した行動をとる。
 まず行動をおこせば、名分はあとから何とでもつけられるという、現実主義の傾向が吉之助が「御国」というとき、日本国をさしているのではなく、薩摩藩のことである。
 彼の主君は藩主茂久ではなく、亡き斉彬であった。
 彼は長州藩の奇兵隊をはじめとする諸隊の威力を知ると、薩長連合をなしとげ、協力して幕府を倒すべきであると考えるようになった。
 屋台骨が朽ちかけているといっても、幕府は薩摩藩の独力で倒すことは困難である。三百諸侯のうち、ぬきんでて強大な戦力を擁している薩摩と長州が提携すれば、幕府を打倒し、日本の政治の実権を掌握して、外国と対等の国力を養えるだろう。
 そうすることは、亡君斉彬の遺志を達成することである。
 吉之助の考えに、在京の薩摩藩士は唯々として同意する。
 吉之助が小松帯刀と胡蝶丸で鹿児島へ帰る直前の元治二年(一八六五)四月十日、在京の高崎緒太郎(五六)が大坂藩邸に逗留していた岩国藩士、横道平八郎に送ったつぎの書状に、長州に接近する心情があらわれている。
 「さてもその後、天下の形勢は何の異変もなく、ただただ因循の風のみ吹きおこり、嘆息するばかりでございもす。
 まだ将軍御上洛もあるやらないやら、いっこうにたしかな沙汰が出もはん。とにかくこげな有様のあげくは、幕府が瓦解するほかはなかろうち存じもす。
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■龍馬の尽力で薩長連合がなる

<本文から>
   龍馬は、木戸の覚悟を開き、彼が膝を屈して連合を申しいれることはできないと了解し、ただちに吉之助に会い、長州に連合を求めよと迫った。
 木戸は、二本松藩邸に到着し、はじめて西郷、小松ら要路の人々と対面したとき、これまでの薩州と長州との関係を述べたうえで、長州の意思はこの通りであると、胸にたくわえていたゆきがかりをすべて述べたてた。
 同席していた長州藩の品川弥二郎は、後年に語っている。
「己を薩人にすると、木戸の演説には十分つっこむ所がある。それをいかにもどもっともでございますというて、しやがんだままなにもいわなかったのは、さすが西郷の大きいところであった」
 吉之助は、龍馬の周旋を待っていた。
 龍馬は熱弁をふるい、島津伊勢、小松帯刀らを説得した。それまで薩摩側に利用されてきた龍馬が、このとき一介の浪人の立場で二大藩を結びつける、大きな役割りを果たした。
  木戸は自叙伝にしるしている。
 「ここにおいて、龍馬余の動かざるを知り、またあえて責めず。而して薩州またにわかに余の出発をとどむ」
 龍馬はいま薩摩藩が長州藩の滅亡を見のがせば、つぎに幕府から抹殺されかねない立場に追いやられるであろうという事情を、勝海舟に教わった通りに説いたのであった。
 「一日、西郷余に将来の形状をはかり、六条をもって将来を約す。龍馬またこの席に陪席す」
 龍馬が証人として、薩長連合の約定の席につらなったことは、木戸がいかに彼の力量を認め、信頼していたかを証する事実である。
 吉之助は両藩のいずれにもかたよらない第三者として、意見を述べることのできる龍馬の立場を、充分に活用できた。
 「その翌、京都を発し、浪華に下り、とどまる数日、而して前忙約するところの六条、前途重大の事件にして、余の謬聞あらんことをおそれ、一書をしたため、龍馬に正す。
 龍馬その紙背に六条の過誤なきを誓ってこれを返す。
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■大久保は王政復古の策を練る

<本文から>
   吉之助が上京したのは、大久保一蔵が「共和の大策」を実行する計画をたて、協力を求めたためである。
 大久保一蔵は、徳川家を相続した慶喜が、長州大討込みの直前に、作戦を撤回した機に乗じ、幕府の権威を失墜させようとはかった。
 兵庫開港の難問彊に直面し、諸藩を召集し、国是を決定することは、幕府、勤王勢力がいずれも望むところであったが、その内情はまったく相ことなるものであった。
 幕府は朝命により諸侯を召集し、その決議により慶喜に将軍宣下されることを建言し、ついで長州藩の処分をさだめ、幕威を回復することを狙っている。
 一方、勤王諸藩は、諸侯の会議によって朝命を仰ぎ、長州藩の罪を許し、毛利父子の官位を回復し、五卿の帰京復職を実現ののち、兵庫開港の問題をさだめ、王政復古を実現させることを願っている。
  だが慶喜と意見をひとしくする二条関白、賀陽宮朝彦親王(のちの久邁宮)らは、諸侯召集の命をつぎのように発した。
 「徳川中納言言上のおもむきもこれあり。諸藩衆議開し召さるべく候あいだ、すみやかに上京いたし、決議の趣は中納言をもって奏開あるべき旨、仰せ出され候こと」
 大久保一蔵は、このままに推移すれば、慶喜に主導権を握られるばかりであると見た。たとえ久光が上京しても、その意見が用いられることは不可能である。
さいわいにし、慶喜は徳川家を相続し.たが、将軍職を辞退したいとの意志をあらわしていた。本心から辞退するのではなく、諸侯から推戴され、やむなく将軍宣下をうけるという形をととのえたいのである。
 将軍位が空位となっているいまは、共和の大策を実行し、幕府の権力をうちやぶるための、またとない好機であると、一蔵は見ていた。
 一蔵は洛北岩倉村に蟄居している、岩倉具視とひそかに交流し、王政復古の策を練っていた。
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■決死の王政復古の大号令

<本文から>
   岩下はただちに休憩室におもむき、岩倉にその旨を伝えた。
 小御所の周囲は、薩兵が取り巻いていて、内部でどのような事件がおこっても、現場にいあわせた者のほかには分らない。
 岩倉はしずかにうなずき、短刀を懐に入れ、非蔵人に命じ、浅野茂勲を呼ばせた。茂勲は具視から決死の手段をとる覚悟を開かされ、危険が身に迫っているのを覚っていった。
 「ただいま、辻(将曹)に申しつけ、後藤を説いて、卿の論に従わせようとはからっておりまする。もし後藤が聞きいれぬときは、予はあくまで容堂に説き、翻意させましょう」
 芸州藩家老の辻将曹が、五藩重臣の休憩室に入ると、後藤象二郎が大久保一蔵を熱心に説き、容堂の説に従わせようとしているところであった。
 一蔵はまったく聞きいれない。
 将曹は象二郎を休憩室の一隅につれてゆき、具視をはじめとする大久保らの決心がただならないことを告げた。
 「このうえ談判をつづければ、容堂殿は小御所のうちにて、仕物(謀殺)にかけられまするぞ。容堂さまにその旨をお伝え下され」
 岩倉、大久保たちは、この場で譲歩すれば、万事が崩壊すると見ている。
 鋭敏な感覚をそなえた後藤は、たちまち考えを変え、容堂と春嶽にひそかに危険を告げた。
 「さきほどよりご主張遊ばさるる尊議は、あたかも内府公が詐謀をいだかるるを知って、これを蔽い隠さんとするもののごとききらいがござりまする。願わくば、今日のところは主上の御前を引きさがり、再思下されませ」
 容堂は放胆な性格であったが、具視たちの必死の気力に屈せざるをえなかった。
 まもなく天皇が出御され、親王藷臣を召され、会議を再開された。容堂はさっきまでの気力を失い、あえて争おうとしなかった。
 朝議は具視の論旨の通りに、ついに決した。職仁親王(有栖川宮)が御前に伺候し、宸断を仰いだ。天皇はこれを可された。時刻はすでに三更(午後十一時から午前一時)になっていた。
 小御所会議ののち、一切の国務、政権、政務が、倒幕派の手に握られることになった。
 吉之助はこの朝譲に列座せず、大久保に一切を譲り、自らは小御所の外にいて、各所の警戒、諸軍の指揮、諸藩の動静警戒にあたった。
 吉之助は、元治元年(一八六四)の蛤御門の変あたりから、もっぱら軍事を担当し、大久保は外交交渉を担当するようになっていた。
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■鹿児島に閑居するに至った経緯と理由

<本文から>
   鳥羽伏見の戦いのあと、かつて長州征伐に際し、長州人に長州問題を片づけさせたように、官軍東征の際に参謀となった西郷は、勝海舟との協議によって、幕府の要望をできるだけ許容し、平穏のうちに鎮定を果そうとした。
 だが長州の大村益次郎、佐賀の江藤新平らが慶応四年(一八六八)五月十五日、上野彰義隊攻撃を主張し、作戦は成功した。
 このあと西郷は五月二十九日に江戸を船ではなれ、六月五日に京都に入り、勅命により関東出征の支度をしていた藩主島津茂久を翻意させ、九日にともに鹿児島に帰った。
 五十余日後の八月六日、西郷は官軍の懇請により鹿児島を出て十日に新潟柏崎に着き、北陸道征討総督本営に入らず、弟吉二郎が戦傷死した十四日、米沢、会津を出て翌九月二十七日に出羽庄内藩の鶴岡に到着、征討軍参謀黒田清隆に、庄内藩の寛大な措置を命じ、二十九日に江戸から改まったばかりの東京へ帰った。
 越後長岡藩を中心とする北越、さらに奥羽列藩同盟を官軍に敵対させたのは、大村益次郎ら長州出身参謀の意向によるものであるといわれる。
 明治元年(一入六入)十一月に帰藩した西郷は、日向山温泉に退隠していたが、藩父久光から藩政改革にはたらくよう求められた。
 戊辰戦争の凱旋兵らが、戦場に出ることもなかった家中門閥者を引退させ、人材登用を藩庁に強請し、大久保利通らが東京から帰郷して騒動を鎮圧しようとしても治まらなかったためである。
 明治二年二月、西郷は乞われて参政となり、藩の株序回復に尽力する。五月には藩命により箱館に出陣。帰藩ののち六月に賞典禄永世二千石、九月に正三位に叙せられた。
 藩父久光は従二位大納言、藩主忠義は従三位参議であったので、西郷は官位が藩主より上位であるとして辞退し、賞典禄は東京に開校した、戊辰役の戦死傷者の子弟を教育する幼年学校の創設資金にあてた。
 大久保と黒田清隆は十二月に帰郷し、勅命を伝え、新政府に西郷の出仕をうながしたが、そのかいはなかった。
 明治三年(一八七〇)正月、隆盛は参政を辞したが、久光は彼の人望を用いて藩の動揺をおさえるため、七月藩大参事に任命した。
 新政府では、各地の不平士族が協力して第二の維新をおこなうため決起する情勢に怯え、威望のある西郷を内閣に招いて軍備の強化をはかり、難局を乗りきろうと考えていた。
 同年十月、ヨーロッパ視察から帰朝し、兵部権大丞に任ぜられた西郷の弟信吾(従道)が、帰藩して、新政府への出仕をすすめた。
 諸政一新、全国統一は西郷の力がなくては叶わないものである、そしてこれは新政府閣僚の意見であると、信吾はいった。だが隆盛は動かなかった。
 当時、彼は鹿児島を訪れた庄内藩士らにわが心境を語っている。
 「政府よりかさねてのお召しをお受けいたしておい申す。しきりに天朝のお役に立てとすすめられ申すが、俺はこういってやい申した。いったい朝廷の役人は、いま何をしておるか。過分の俸給をうけ、広い屋敷で大名のごたる暮らしをしておるじゃなかか。それで職責は何ひとつ果しちゃおらん。俸給泥棒じゃ。
 お前がたは、俺に泥棒の仲間入りをして、渡しかふるまいをせいとおすすめかとな。以来、誰も上京をすすめる者はおりもはん。いまの政府は錆びてしもうた鉄の事ごわす。油をさしたくらいじゃ動きもはん。鉄鎚で打ちこわさにゃいかん」
 この言葉のうちに、明治四年(一八七一)から六年にかけて、陸軍大将参議として政府に重きをなした西郷が、ふたたび下野し鹿児島に閑居するに至った理由が明瞭に存在しているのである。
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