津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          巨眼の男 西郷隆盛 1

■西郷は愛加那と夫婦に

<本文から>
  翌朝、竜家の家奴たちは、明けそめた空の下で、もろ肌をぬいだ吉之助が木刀をふるい、狂ったように庭木に打ちこみをつづけるのを見た。
 「チェーイ、チェーイ。シモタ、シモタ、チョッシモウタ」
 泣くような甲声をあげ、立木打ちをつづける吉之助の心中を察しているのは、愛加那だけであった。彼女は朝餉の支度をととのえ、行水の湯を沸かし、忙しく立ちはたらいた。
 吉之助はその日、竜佐民の家をたずね、愛加那を妻に迎えたいと頼んだ。
 「私は、愛加那さあと所帯を持とうと心をきめもした。事情はお察しくいやんせ。ついては日を選び祝言をあげたかとですが、お前さあと奥様さあが媒酌の労をとってくいやれば、このうえのしあわせはございもはん」
 佐民と石千代夫婦は、顔を見あわせた。
 流罪人が島妻を迎えるとき、祝言をおこなうことはない。島妻になるのは未亡人とさ れている。初婚の娘は島妻になるのを望まない。流罪人が帰藩するとき、島妻を同伴できないが、男子は鹿児島で学問をさせることが許されていた。
 学習を終えた男子は、大島に戻ると代官所役人となり、労役を免ぜられ、開墾田畑を与えられる。
 そのような特典があるので、大島の未亡人たちは島妻になるのを望んだが、愛加那のような良家の娘が吉之助の妻になるのは、異例であった。
 吉之助は愛加那と夫婦になるとき、大島の名族である竜家の慣例に従い、親戚、代官以下の諸役人を招き、三献の祝儀をあげるつもりである。
 彼は佐民夫婦のまえに手をついた。
 「よろしゅうお頼みしもんで。どうか媒酌の労をとってく.いやんせ」
 三献の祝儀をあげ、披露の婁を盛大に催した吉之助は、愛加那と蜜のように甘やかな日々を過ごした。
 佐民、佐文らがたずねてゆくと、吉之助は愛加那を大きな膝のうえにのせ、子供をいつくしむような風情で、歓語している。彼はあわてる様子もなく客を迎えた。
 「これはちいっと、たしなみのなか様子をお見せしもしたな。わが家では、ふたりともそばを離れたくなかので、ご覧のようなていたらくになってしももした」
 吉之助は愛加那と暮らすようになると、世帯の諸費用がかさんできた。
 彼は代官に経費の融通を頼み、鹿児島の大久保正助に仕送りを求め、竜家の援助を受けた。
 
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■大久保は目的を遂行するまで断じて後退しないと心にきめていた

<本文から>
 「お殿さあが、俺どもにわれらの不肖を輔けよと、仰せられた。このうえのありがたかお沙汰があっか。俺どもがわずかの人数で事をあげるより、藩をあげて動くほうがどれほど心づよかことか。いまは思いとどまり、お殿さあのあとについていこうじやなかか」
 当時、藩主の親筆は藩士が手に触れることも容易ではない、貴重なものであった。
 正助たち御小姓組の軽格の士は、諭告の文面を拝しただけで、感動のあまり涙を滂沱と流した。
 彼らは泣きながら、文章を音読する。
 「順聖院様御深意をつらぬき、国家をもって忠勤をぬきんずべき心得と仰せらるっか。あいがたか」
 「おのおの有志の面々、深くあい心得て国家の柱石にあい立ち、われらの不肖を輔け。おう、このあとは読めんぞ」
 逞しい男が、太い腕で溢れ出る涙をぬぐいつつ、声をあげて泣いた。
 「俺どま、誠忠士面々じゃっど」
 翌十一月六日、正助らは茂久の告諭に従う旨の請書に同志四十九人の連名書と、藩政に対する建言書をそえ、さし出した。連名書の筆頭には、大島渡海菊池源吾と記した。
 久光は大久保正助の藩政改革方針を採用し、斉彬の遺志を継ぐ態度をあきらかにした。
 まず幕府迎合の保守策をとっていた城代家老、島津豊後の政務の実権を奪った。豊後は非常の際に城代を勤めるという、格式のみの家老となり、彼に代って薩摩日置城主島津下総が、政事の運営にあたることとなった。
 下総は斉彬の家老として敏腕をふるったが、茂久の治世になって、島津豊後ら保守派と意見を異にして引退した。
 島津下総が政務にあずかるようになると、豊後派の重職にある者は罷免、転任させ、斉彬のもとではたらいた諸士を抜擢して用いる。豊後らは改革に反対し、藩内の実状を幕府に内通しようとしたので、正助はその動きを探知し、久光に知らせた。
 久光は正助の進言によって、いちはやく対策を講じた。斉彬が生前に吉之助とならび信任した、山田壮右衛門を小納戸役に復職させ、江戸におもむかせ、天璋院(斉彬の養女、前将軍家定夫人)に事情を告げさせることにした。
 天璋院は斉彬に養われ、安政元年(一入五四)近衛忠無の養女として家定の室となった。壮右衛門は斉彬と天埠院のあいだの連絡役として、はたらいてきた。
 正助はようやくつかんだ台頭の機会を、たやすく取り逃がすような失敗はしない。島津豊後らの策動を探知し、未然に抑えることに手抜かりはなかった。
 彼はいつかは藩政の主流に樟さしたいと願っている。そのために多くの人を動かし、前途に立ちふさがる障害を打ちこわさねばならない。
 正助の内部には、長い不遇の時期の記憶が、熱した炭火のように炎をゆらめかせている。彼は目的を遂行するまで、断じて後退しないと心にきめていた。
 いかなる難事に遭遇しても、あきらめない。ひとつまちがえば命を落すかも知れない、きわどい芸当をやってのけても、前途を切りひらこうとした。
 それは吉之助が持ちあわせていない資質であった。志をたてたうえは、是が非でも権力の座に辿りつこうという、余人の及ばない熱情が、彼の脳中でたぎっている。
 吉之助が月照と投身し蘇生して、藩庁が彼を大島へ送るときめたとき、正助はひそかにすすめた。
 「吉之助さあ、お前さあは肥後の長岡監物殿のところへ逃げたらどげんじゃろう。これから大事をなし遂げにゃならん時にお前さあに大島にいかれては、心もとなかかぎりでごわす。同志のために、そげんしてくいやんせ」
 長岡監物は肥後藩家老、尊攘派であった。かつて正助は江戸に出府する吉之助に熊本まで同行し、長岡にひきあわせてもらったことがあった。
 昔之助は正助のすすめを、言下にことわった。
 「俺は、逃げ隠れしてまで、生きのびようとは思うちょりもはん」
 吉之助が大島へゆけば、藩庁の指示でいつ抹殺されるかも知れない、危うい立場になると見られていた。
 そのとき、正助は吉之助を首領として、誠忠組をこぞって突出し、他藩志士と協力して、天下を震撼させようと考えていた。
 突出すれば、破滅の危険はあるが、鹿児島にとどまるよりは、志を達しうる万に一つの機会を撰ぼうとしたのである。
 正助は胸中の野心を達成するためには、危険をおそれない。藩内の平侍としてむなしく老い朽ちるよりは、たとえ玉砕しても、運命の打開を試みるべきだと、決死の覚悟をきめていた。
 いま、好運にも久光の知遇を得て、台頭の機運に恵まれている正助は、思慮ふかい猛獣のように息をひそめ、周囲の気配をうかがっている。
 彼は一度たけりたてば、悍馬のように狂奔して、抑えるすべもなくなる、血気の誠忠組の同志を、自在に操縦しうる器量をそなえていた。
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■西郷の二度の処分、大久保が決死にあたる

<本文から>
  翌日、大坂から兵庫行きの便船に乗るまえ、吉之助は姫路からきた薩摩藩目付喜入嘉次郎たちに会った。
 喜入、志々目らが、久光の命令を伝えると、吉之助は四力条の罪状を開かされてもまったく反論せず、従容としていった。
 「君命をかしこむばかいでございもす。私を捕縛しやったもんせ」
 大坂藩邸の留守居役たちは、血相を変えて喜入、志々目を問いつめる。
 「こん四力条のうち三力条は、まったく合点がいきもはん。誰が悪謀によって、大島どんを罪に落したか。お側役に論判せんと、済むこつじゃごわはん」
 喜入らは吉之助に手を出せば、二才衆たちに即座に斬り殺されかねない状況に怯える。
 吉之助はいった。
 「お前さあ方は、あいすまんどん、いっしょに兵庫までいってくいやはんか。私は何としても、こん書状をお方さあにお見せして、ご相談せんとならんとです」
 喜入たちは吉之助の頼みをうけいれた。
 久光が兵庫に到着したのは、七つ(午後四時)頃であった。吉之助の乗った便船は、日が暮れてから兵庫に着いた。
 吉之助の処罰は、すでに決定していてもはや動かせない。姫路で有村俊斎の注進を開いた久光は、吉之助を罵った。
 「あんやつは分際もわきまえんで、不遥の者どもの人気取りをいたしおったか。余の下命に背いてまで名を欲した不忠、不義の賊臣め。叛心は安禄山に劣らず、所詮は薬鍋をかけて死ねる奴ではなか。引っ捕えて厳重に所置をせい」
 兵庫湊に上陸した吉之助は、村田新八、森山新蔵を有村俊斎の宿へおもむかせ、自分は正助の宿をたずねた。
 正助は吉之助を誘い、宿の外へ出た。
 「ここじゃおちついて話ができもはん。浜へ出もんそ」
 雨夜であったが、二人は人の気配のない浜辺へ出た。
 「お前さあと私は、これまで力をあわせてやってきましたどん、お方さあがお怒りなさって、あとへは引かんご剣幕じゃ。お前さあは捕縛されたうえで、腹を切らさるつか分らん。こげなふうになったのは、私がお前さあに合力を頼んだためでどざいもす。
 お方さあは、お前さあが諸藩の有志撃と二才衆を煽りたて、掻動をおこしたち思いこんでおいやって、私が申しひらきをしようとしても、お目通りも叶わない有様でどざいもす。お前さあも三年ぶりに島から帰って、またこげな難儀をこうむるのは、無念の至りでありもんそ。
 私もどうせお前さあと同腹じゃちゆうて答めをうけるにきまっておいもす。おたがいの至誠が通じんとなら、ここで刺し違えて死にもんそ。罰をうけるなら私も同罪じゃ」
 吉之助は応じなかった。
 「俺は月照どんと入水して、生き返ってからは、自害すっとはやめもした。すべて天命ございもす。こんどは腹を切らさるっとならそいでもよか。わが身の果つるところまで 見届けるつもいじゃ。お前さあは、死んでどうすっとか。俺が死んだとしても、順聖院さあのお志をうけて、日本国の建てなおしをなしとげんとなりもはん。歯をくいしばって、こらえにゃいけん。こらえ申そ、こらえ申そ、こらえ申そ」
 正助は日記にしるす。
 「とくと申し含め候ところ、従容として許諾。拙子もすでに決断を申し入れ候に、何分右の通りにて、安心にてこのうえなし」
 吉之助が久光の軽率な処分に応じることなく、脱藩して攘夷派を率い、行動をおこせば、誠忠組は瓦解する。
 吉之助が誠忠組を誘えば、一致して京都で波瀾をひきおこす可能性は高い。正助が、吉之助と刺し違えようと決断したのはこれまでの責任をとるためである。吉之助の行動は、すべて正助との黙契によるものであった。
 だが吉之助は応じることなく、処罰を拒むこともしなかったので、正助は安心した。
 彼は吉之助が切腹を命じられるか、極刑を免れても誠忠組筆頭の座にふたたび戻ることなく、失脚することが分っていて、このうえなく安心したのは、死中に括を得る道がひらけたと思ったためである。吉之助が暴動をおこせば、正助も藩を離れ、破滅へむかい、歩み出さざるをえない。
 正助はそのあと久光に、吉之助がきており、村田、森山も有村と同宿していることを言上した。
 久光は命じた。
 「そのほうと奈良原、有村が同船して、大坂へ三人を送るがよい」
 その夜は風向きがわるく、船を出せなかったので、吉之助たちは正助の宿に泊った。
 翌朝も大雨であったが、四つ (午前十時)頃から晴れてきて出帆、八つ(午後二時)頃に大坂に着いた。
 正助はすでに大坂に到着していた小松帯刀に届け出て、船中で待機した。
 暮れ六つ(午後六時)頃、正助が呼びだされ、藩邸へ出向いた。どのような処分がいい渡されるのであろうかと、胸を痛める正助に、小松帯刀は命じた。
 「今晩のうちに、藩船天祐丸が出帆する。吉之助らをそれに乗りこませ、帰国させよ」
 天祐丸は天候不良のため、その夜は滞船し、翌朝出帆した。
 正助と堀、有村が見送り、藩邸の二才衆、志士が気づかないままに、吉之助と村田、森山は大坂を離れた。久光は騒動がおこるのをおそれ、すべてを隠密のうちに運び、処分の申渡しも延期した。
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■西郷の敬天愛人の思想

<本文から>
  与人役は、島中でわずか三人撰びだされ、万人の上に立つ役である。人民の死命を与人一人が判断を誤まれば、万人の運命を誤まることになるので、何事にも慎重にしなければならない。
 人の頭に立つ者は、人々の信望を集めなければならない。そのためには、自ら勤倹力行し、私欲を絶ち去らねばならない。
 万人の頭の命令は、下々の者は、どんな無理を命ぜられても、いやいやながら背くことができず、従順にいうことを聞く。
 それをわが威勢と考え、人を我優に扱えば、たちまち万人の仇敵となり、頭役の実力を失ってしまう。
 役人はどんな理由で立てられるのか。自分勝手をいたせと立てられるのではない。そのわけの第一は、天が直接に万民をお養いできないため、天子を立てられ、万民がそれぞれの業に安んじるよう統治をお任せなされたのである。
 天子はお一人で万民を統治なされがたいゆえ、諸侯を立てられ、それぞれの領分の人民を養うようお任せになった。
 諸侯はお一人では国中の人民を治めることができかねるので、諸役人に任せた。
 役人は、万民のためにあるものだから、役人は万民の疾苦をわが疾苦とし、万民の歓楽をわが歓楽として、日々天意をあざむかず、その根本に報いるのが良役人である。
 この天意にそむいては、天罰は逃れがたいところであるから、深く心を用いなければならない」
 吉之助は天子に統治される人民の実相を端的に語り、役人の任務についても古今にわたり変ることのない本質を指摘している。
 間切横日の役割については、つぎのように語っている。
 「横目は監察ともいい、諸役人はもちろん万事の目付役でございもす。ただ犯人を探したとか、訊問が上手であるとかいうことは枝葉のことでありもす。
犯罪者を出さないようにするのが、第一の務めどわす。孤独の人を憐れみ、患難憂苦の者を恵み、善行をする者を褒め、人々がたがいにいたわりあうようにすることが大切でありもす。
 もっとも気をつけんといかん点は、諸役人の人民に対する取扱いの善悪と、百姓の苦しみでありもす。
 役人が私腹を肥やすようなことをしては、罪の無か石姓も各人にすることが多くなるので、その実状をよく調査し、人民がなぜ罪を犯すかをつまびらかに察しなければなりもはん。これは重大な任務ごわす。
 もし、役人が曲事をはたらき万民を苦しめ、君をあざむけば、一人の盗賊などよりははるかに重い罪であるから、重刑に処すべきであり為す。
 軽い罪を重く罰し、重い罪を軽く扱うように、法を私することが通用すれば、人々は法度を何とも思わぬようになるものごわす」
 吉之助が、ここに説くところは、生涯変ることのない彼の信念であった。
 敬天愛人の思想が、彼の内部に深く根づいていた。天命に背く者は、いかなる高位にあっても許しがたい。
 吉之助はある日、囲をたずねてきた政照にたずねた。
 「沖永良都島では、天災があって飢饉がおこつたとき、どげんして窮民を救助するつもりごわすか」
 政照は答えた。
「そんときは、藩庁にお助けを願うのみでございもす」
「しかし、こん島は鹿児島から海上百余里も距たっておりもす。海上に風波のあるときは、船を出せもはん。鹿児島へゆくだけで何十日もかかり、米船が鹿児島から到着するまで何十日もかかるでしょう。そのあいだに島人は餓死するかも知れもはん」
 政照は返答に窮した。
 吉之助は政照に教えた。
 「そげな非常のときには、日頃から社倉に米穀を貯えておき、飢えをしのがねばなりもはん。俺がひとつ社倉をこしらえる趣意書を、つくってあげもんそ」
 吉之助の趣意書の大要は、つぎのようなものであった。
 「凶作荒年に備えるのは、豊年のときに支度しておくものである。社倉は非常時に用いる穀物を備蓄しておく倉である。村々で各戸に苦情の出ないよう、米、麦、粟などの余分を調べ、供出高を割りあてる。
 一村で集めた米が、仮りに五石になれば、年二割の利子で貸しっければ、年間一石の利米が得られる。これを年々貸しっけてゆけば、三年めには元利八石六斗四升、五年後には十二石余となる。
 そのときには、最初に集めた五石の米はそれぞれの家へ返し、あとは利子米だけでふやしてゆけばよい。
 このように社倉に米穀をたくわえておけば、飢饉に犠牲者を出さなくてもよい。飢饉で百姓が飢死にするのを、災難だからしかたがないと見過ごすようであれば、役人の罪になる」
 土持政照は吉之助の趣意書に従い、社倉設置に努力することにした。
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