津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          胡蝶の剣

■郷中での遊びは戦場で役立つ体力鍛練をめざすもの

<本文から>
 郷中での稚児たちの遊びは、すべて戦場で役立つ体力鍛練をめざすものであった。走り競べ、飛び競べ、相撲、軍真似、大将追取い、降参いわせなどである。
大将追取いは、稚児たちが二手に分かれ、大将を取ろうと攻めあい、格闘をする遊びで、指揮者の作戦の巧拙、稚児たちの闘志、体力が問われる。実戦さながらの荒々しい進退で行われた。
 切り傷、擦り傷、頭に痛ができ、鼻血を出す者はめずらしくない。なかには生爪を剥がし、気絶する者もいたが、稚児たちはひるむことなく全力をつかいはたすまで、勇みたって相手方と格闘した。
 降参いわせというのは、やはり稚児たちが二手に分かれ、大将を決め、素手で組みつき、噛みつき、撲りつけ、おさえつけ、降参をいうまで攻撃をやめない、遊戯ともいえないほど、殺気立った遊びである。
 降参する者が多くなり、大将を守る者がすくなくなると、敵方は大勢で押しかけてくる。大将がおさえつけられ、「降参」といえは勝ちであった。
 だが、この遊びでは稚児たちは殴りつけられ失神しても、降参を口にしないため、勝敗が決まらないのが常であった。このため審判により、優勢勝ちを判定することになる。
 正月の橙打ちあいも、危険な遊びである。門口の飾りにつけた橙を投げあう合戦で、眼にあたれば大怪我をする。
 また二才たちはしばしば長稚児たちを伴い、隊伍をととのえ、道のない山野を強行軍で歩き通す、「山坂達者」の訓練をおこなった。
 林太郎は、下加治屋町郷中に通うようになって、このような心身を練る遊びの際、江戸下りの柔弱者と見られ、袋叩きにあったが、彼が臆病者でないと分かると、意地悪いたくらみをする者がいなくなった。
 長介、彦太郎らの友人のほかにも、剣術に練達した彼を郷中の誇りとしている者が多い。林太郎も、故郷の男たちの心情を理解するようになっていた。
 彼らは荒々しい訓練によって鍛えぬかれ、勇敢である。よそ者をいったんは排斥するが、知りあうと肉親に対するような親愛感をあらわしてくる。 
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■林太郎の九人抜き、城中にあがる

<本文から>
  林太郎はその夜、帰宅して湯殿で汗を流した。斉彬の面前での試合で九人を抜いたよろこびが、身内に湯のようにたぎっている。
 林太郎は、婢が焚く鉄砲風呂の湯に身をしずめ、試合の情景を脳裏にくりかえす。立ちあいの内容は、さだかには覚えていない。相手の動きにつれ、日頃身につけた技が夢中のうちにあらわれるのである。
 だが、一本を決めた技が何であるかは覚えている。
−今夜の試合でも、体が思うように動いたぞ。いまの俺は、誰と立ちあっても、十二分に技を出せる。父上の申されたように、俺は技のひとつめの山にさしかかっておるのかも知れぬ−
 高見馬場郷中の、深町という遣い手との立ちあいでほ、林太郎は相手が強豪であると聞かされてはいたが、気圧されることはなかった。
 立ちあったのち、深町の動きが読みとれなくなることがなかった。試合に勝つためには、敵の意表をつき、隙を逃さず打ちこまねはならない。
 深町は、林太郎の意表をつく攻撃をおこなえなかった。深町に体当りを仕かけられたとき、林太郎はとっさに身をひらき、足揚をかけ、起きあがったところを狙い、豹のように飛びかかって体当りをくわせた。
 林太郎の体重は、十四貫(五十二・五キロ)である。深町は林太郎より二寸ほど背が高く、十八貫(六十七・五キロ) の体重にものをいわせ、体当りを仕かけたがはねかえされ、転倒した。
 林太郎はしたたかに地面に背を叩きつけた深町が、起きるのを待ってやった。はね起きた深町は、十歳年下の小兵の林太郎に足揚をかけられ、主君の面前で醜態をさらした屈辱に、全身を火のように燃えたたせていたにちがいない。
 狼狽した深町に、林太郎は左片手横面を見舞うと同時に、腰のはいった体当りで彼をはじきとばした。
 林太郎は、一瞬気を失った深町の立ちなおるのをふたたび待ってやった。打ちこめば一 本をとれる好機を、見逃す余裕を見せたのである。
 結局、深町は林太郎に後の先をとられつづけ、自らの動きの裏をとられ惨敗した。
 −深町さんには気の毒なことをしたが、試合だから手加減はできぬ。やむをえないことだ−
 林太郎は、自分の技が決ったときの光景を脳中によみがえらせ、気をたかぶらせた。
 彼は九人の相手と立ちあい、体のどこにも打撃をうけていない。技ありといえるほどの打ちこみも許さない、彼の進退は万全であった。
 −これで、来年の夏に江戸へ帰り、母上や弟に、よいみやげ話ができた−
 林太郎は風呂からあがり、灯心のほの明りのなかでひきしまった体を拭く。彼は痩せていたが、胸が分厚い。簡胴といわれる体型である。
 筒胴の者は、打撃カがつよい。剣術で、引きがつよいといわれる、冴えた打ちこみがで引きの強弱は、真剣をとっての巻き藁の試斬のとき、出来ばえにかかわってくるものであった。
 引きが強ければ、真剣をふるうとき、手のうらを締めることができる。手のうちを締めるとは、物体を斬る瞬間の動作に、全力を凝集することであった。
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