津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          危地に生きる姿勢

■武蔵は相手の拍子を乱すことが肝要であると説いている

<本文から>
 真剣勝負で立ちあう相手の剣尖が、自分の眼前五分の空間を通過するように間合いを保てるのは、人間業とは思えないが、相手の動きの裏をとって不即不離に進退する身の軽捷さがなければ、六十余度の試合に勝ちぬき、五体満足でいられるわけはなかったであろう。
 武蔵が若年の頃にあらわした『円明流兵道鏡』、晩年に立ちいたった境地を示す『兵法三十五箇条』、『五輪書』には、彼の手のうちが詳細に語られている。
 心構え、太刀の持ちよう、眼の配り、足腰、上体の構えからはじまり、相手を誘いこみ隙をつくらせる高度な技法にいたるまで、明噺な分析説明がなされている。
 そのなかで、武蔵は相手の拍子を乱すことが肝要であると説いている。剣の技というのは人によってそれぞれことなる拍子で打ちだされるものである。
 試合にあたっては、いちはやく相手の拍子を読みとり、崩さねばならない。崩したのちは、自分の動きの拍子に相手を巻きこむことが勝利の要因であるという。
 また山海の変りということも説く。山といえば海とこたえるように、虚々実々の応酬をする意味と、おなじ技法を二度以上用いてはならないという意味を含んだ教えである。
 武蔵は吉岡一門と戦った際、最初に吉岡清十郎との試合の場に遅参した。つづいて吉岡伝七郎との試合にも遅参する。三度めに、清十郎の子息又七郎との果しあいの場には、今度も遅参するであろうという相手の思惑の裏をかいて、決闘の場に先着し待ちぶせていて急襲する。これは山海の変りの極意による駆けひきとされている。
 また、彼はむかつかすということを、兵法の心得として重視していた。試合の場に遅参するのも、相手をむかつかせる一法である。
 必死の争闘を目前にひかえた相手が、武蔵の遅参によって長時間待たされているうちに、緊張しきった心身を疲労させる。立ちあいがはじまったときには、平常とは比較にならない拙劣な動作しかできず、不本意な敗北を喫してしまうことになるのである。
 真剣勝負において五分の間合いを見切り、敵の拍子をいちはやく読み、三度とおなじ技を使わず進退する高度な技術を見せた武蔵は、死生を超越した境地に身を置いていたにちがいない。
 禅僧が座禅を組むとき、眼覚めていながら脳波が熟睡しているときのように平坦になるという。喜怒哀楽を超越した不動の境地にありながら、外界の現象をつまびらかに掌握しているという空の境地に達していなければ、『五輪書』に説くような剣の秘訣は実行できなかったにちがいない。
 わが身を刻むような山中における不断の禁欲と鍛練によって、えらばれた才能の者のみが、ようやく空の境地に達しうる。
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■近藤勇のうでまえ

<本文から>
 近藤勇が尊攘志士の会合している京都三条小橋の池田屋へ斬りこんだのは、元治元年(一八六四)六月五日の午後十時前後であったと思われる。
 当日は宵のうちに霧雨が降り、気温は華氏九十度(摂氏三十二度)に達していた。
 近藤らは手わけして三条界隈の旅宿の宿改めをおこなっているうち、池田屋に思いもかけない多数の志士が集っているのを発見し、たちまち乱闘が起ったわけである。池田屋二階座敷にどれだけの数の志士が会同していたのか、たしかなことは不明だが、討たれた者、捕縛された者、逃走した者の人数をかぞえると、三十人を超えているようだ。斬りあいになったとき、新選組は池田屋の表口と裏口を四、五人でかため、屋内に入っていたのは近藤勇、永倉新八、沖田総司、藤堂平助と、近藤の養子周平であったといわれている。
 土方たち援軍が駆けつけてくるまで、近藤たちは多数の強敵に斬りたてられ、一時は全滅の危険さえあったように思われる。
 沖田が喀血か、脳貧血か、打撲傷かで戦闘能力を失い、永倉は左手栂指の根元に斬りこまれる。藤堂は鉢金を打ちおとされ頭に一太刀を浴びて倒れる。そのような状態のなかで、近藤は多数の敵に囲まれ、援軍が駆けつけてくるまで持ちこたえた。
 当日は午後九時頃に月が落ちる。剣戟の場は真の闇だが、屋内の闇のなかで乱闘をおこなう場合、相手が敵か味方かという識別は、なぜかできるそうだ。
 これには紀州藩公用人三浦休太郎の証言がある。慶応三年十二月七日、京都油小路天満屋に泊っていた三浦は、坂本竜馬暗殺事件の首謀者とみなされ海援隊士の襲撃をうけたが、行灯が蹴倒され、辺りがまっくらになっても、なぜか敵味方の見わけがはっきりとでき、窓から屋根に這いでて死をまぬがれたのである。近藤と志士たちも、必死の斬りあいの場で異常な視力のはたらきによって、はげしく斬りむすんだであろう。
 永倉新八は後半の述懐談で、池田屋の暗中に近藤の甲高い気合がひびきわたり、まことに頼もしく感じたといっているが、近頃近藤の腕前について想像できる資料を読んだ。それは池田屋事件のあと、新選組から修繕に出された刀の損傷状況についての磨ぎ師の手控えである。
 激闘に参加した隊士たちの侃刀の損傷は甚大である。近藤とともに刀をふるって戦ったとみられる永倉、沖田、藤堂の侃刀は新刀ながら分不相応の逸物とされていて、いずれも刃渡り二尺四寸を超える剛刀ぞろいである。破損の状況は永倉は刀身に大小あまたの刃こぼれがあり、土間に倒れた敵を拝みうちにしたとき、切先から九寸が折れたとしているが、真実かどうかはわからない。敵の斬りこむ刃を、誤って鎬でうけたのかもしれない。沖田の刀も紀子から四寸が折れ、刃こぼれが凄じい。藤堂のはとりわけての銘刀ながら、あまりに刃こぼれが凄じく修復不能とされている。
 彼らにくらべ、近藤の虎徹はまったく刃こぼれがないというのは、どういうことであろうか。よほど足腰をきたえた達人であったと考えるよりほかはないと考えられる。乱闘になっても死を怖れず冷静に状況を読み、前後左右から襲いかかってくる敵刃を刀の棟ではね、刃筋を狂わすことなく手のうちを締めて斬ったとしか思えない。
 刀の刃はどのような銘刀でも柄を握る右手と左手の角度が一致しなければ、骨などの硬いものを斬れば欠けることになる。
 気剣体の一致と双方の手の茶巾しぼりで柄を握る体勢がわずかでも狂えば、刀身は欠けるか曲るものである。
 近藤が乱闘の場で、刃筋に一分の乱れもなく、敵刃のはねあげ打ちおとしに正確な対応をおこなえたであろうことは、虎徹の状況から推測しうることである。彼は基礎練習により抜群の体力を有し、剣技も事に及んでは、新選組内部でもおそらく対抗する者のないほどの、卓抜な冴えを見せる立派な遣い手であったと思われる。
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■日本刀の斬れ味

<本文から>
 私の義兄は太平洋戦争で四年間戦線にいたが、日本刀は重いばかりで武器としてははなはだ頼りにならなかったといっている。
 いつか読んだ週刊誌の記事も頭にこびりついていた。新宿あたりのバーかどこかで喧嘩があり、ひとりが日本刀を振りまわし相手の手首を斬りおとした事件についてのものだが、ふつうはそのようには斬れないものだという、警察側の談話が載っていた。
 その見解は、日本刀ほど斬れないものはない。手首が落ちたのは、たまたま当りぐあいがよかったためで、三島事件でも刀がグニャグニャに曲っていて、ろくに斬れていなかったというのである。
 ほかにも人を斬れば刃に血脂がのってまったく斬れなくなるとか、一人斬れば目釘ががたついてだめになるとか、聞いたことがある。
 実際に日本刀は斬れるものであろうか。
 (中略)
 巻き藁をすべて斬り終えると、いよいよ豚を斬ることになった。まないたに置いてみると、肉塊ははじめ見たときよりはるかに大きい。
 「こりやむずかしいぞ。骨は太いのと細いのと二本あるし、死んでそうとう日がたってるから硬いぞ」
 中村氏は難色を示されたが、私は曲りを直した刀で挑戦する。
 振りかぶり夢中で振りおろすと、なんと大腿はふたつになり、断面を見せているではないか。腕にひびく手ごたえはおろか、触れたという感触さえなかった。断面には直径三センチぐらいと、その半分ぐらいの骨が見えている。
 「ほう、こりゃそうとうなもんだな。こんどは付け根の太いほうをやってみよう」
 中村氏は一刀で斬り、私にその横手を斬れといわれる。
 「気合をかけてやりなさい」
 私は気合もろともに斬る。
 まないたを叩いた感触だけが手にこたえ、肉は音もなく斬れていた。
 怖ろしいまでの斬れ味である。斬ったという感じではなく、いつのまにか斬れているのである。
 私は刀を持つと自分のうちに、いままでかくれていたあらたな能力が、よみがえるような気がした。日本刀は、そう思えるほど魔法のような斬れ味を見せてくれたのである。
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