|
<本文から> 真剣勝負で立ちあう相手の剣尖が、自分の眼前五分の空間を通過するように間合いを保てるのは、人間業とは思えないが、相手の動きの裏をとって不即不離に進退する身の軽捷さがなければ、六十余度の試合に勝ちぬき、五体満足でいられるわけはなかったであろう。
武蔵が若年の頃にあらわした『円明流兵道鏡』、晩年に立ちいたった境地を示す『兵法三十五箇条』、『五輪書』には、彼の手のうちが詳細に語られている。
心構え、太刀の持ちよう、眼の配り、足腰、上体の構えからはじまり、相手を誘いこみ隙をつくらせる高度な技法にいたるまで、明噺な分析説明がなされている。
そのなかで、武蔵は相手の拍子を乱すことが肝要であると説いている。剣の技というのは人によってそれぞれことなる拍子で打ちだされるものである。
試合にあたっては、いちはやく相手の拍子を読みとり、崩さねばならない。崩したのちは、自分の動きの拍子に相手を巻きこむことが勝利の要因であるという。
また山海の変りということも説く。山といえば海とこたえるように、虚々実々の応酬をする意味と、おなじ技法を二度以上用いてはならないという意味を含んだ教えである。
武蔵は吉岡一門と戦った際、最初に吉岡清十郎との試合の場に遅参した。つづいて吉岡伝七郎との試合にも遅参する。三度めに、清十郎の子息又七郎との果しあいの場には、今度も遅参するであろうという相手の思惑の裏をかいて、決闘の場に先着し待ちぶせていて急襲する。これは山海の変りの極意による駆けひきとされている。
また、彼はむかつかすということを、兵法の心得として重視していた。試合の場に遅参するのも、相手をむかつかせる一法である。
必死の争闘を目前にひかえた相手が、武蔵の遅参によって長時間待たされているうちに、緊張しきった心身を疲労させる。立ちあいがはじまったときには、平常とは比較にならない拙劣な動作しかできず、不本意な敗北を喫してしまうことになるのである。
真剣勝負において五分の間合いを見切り、敵の拍子をいちはやく読み、三度とおなじ技を使わず進退する高度な技術を見せた武蔵は、死生を超越した境地に身を置いていたにちがいない。
禅僧が座禅を組むとき、眼覚めていながら脳波が熟睡しているときのように平坦になるという。喜怒哀楽を超越した不動の境地にありながら、外界の現象をつまびらかに掌握しているという空の境地に達していなければ、『五輪書』に説くような剣の秘訣は実行できなかったにちがいない。
わが身を刻むような山中における不断の禁欲と鍛練によって、えらばれた才能の者のみが、ようやく空の境地に達しうる。 |
|