津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          気骨の人

■半兵衛は稲葉山城を一日で乗っ取る

<本文から>
「稲葉山城を乗っ取るのです」
「われらのみのカでお城を取るなど、とてもできぬ。無謀も極まる考えだ。やり損じたときは叛逆の罪で、一族こぞって処刑されるにちがいない。思いとどまるがよい」
 城内には斎藤飛騨守を番頭とする、警固の兵が常時詰めている。
 半兵衛は日頃のつつしみぶかい態度を捨て、冒険実行の意志を変えようとしない。
 安藤伊賀守は、半兵衛の説く稲葉山城乗っ取りの謀計を聞くうち、成功するかも知れないと、心が動いた。
 「おのしがそこまでやるときめたからには、膿もとめはせぬ。カを貸そう。どうも、うまくゆきそうな気がする」
 半兵衛は、稲葉山城内に人質として留めおかれている、弟の久作を利用する作戦をたてた。
 まず久作に仮病をつかわせ、彼の看病をするという口実をつくって、家来たちに見舞いの品を納めた長持ちを、はこびこませる。
 長持ちの底には刀槍、甲胃などをひそませていた。
 永禄七年二月六日の朝、半兵衛はわずか十七人の供を連れ、稲葉山城にむかった。城内にはいると帯刀をはずすが、久作の居間にはいって手早く甲胃をつけ、武装する。
 主従は一団となり、近習の制止も開かず走って、番頭斎藤飛騨守ら歴々衆のいる広間に乱入した。
 飛騨守はたちまち斬り伏せられる。
 なにごとがおこったかと、うろたえつつも立ちむかってくる重臣、近習、小姓を、半兵衛たちは縦横に斬り伏せる。
 甲冑冑武者の数はすくないが、平服の侍たちが取りかこみ斬りかけても、かすり傷をも負わせることができない。
 浮き足だった番衆たちは、なだれをうって域外へ逃げ散った。
 「何の騒ぎじゃ、慮外者は儂が討ちとってやろうぞ」
 龍興が偲刀を手に、乱入者に立ちむかおうとしたが、重臣の長井新八郎、新五郎らが彼のまえに立ちふさがり、襲いかかってくる甲冑武者とたたかい、乱刃のうちに倒れた。
 龍興は正体も知れない敵と斬りあう勇気も失せ、城の一隅に身を隠す。
 城中には大勢の侍がいたが、不意の変事に動転し、半兵衛たちの人数を何十倍にも見誤って、抵抗をやめた。
 半兵衛の一族竹中善右衛門は、鐘の丸に駆けのぼり、合図の鐘をつく。
 城下に待ちかまえていた安藤伊賀守の軍兵二千が、喊声をあげ山上へ攻め登り、城中へ侵入した。 
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■半兵衛は木下籐吉郎が通い続けて軍師として迎える

<本文から>
  藤吉郎は飽きることなく半兵衛のもとへ通った。掘、樋口の両人が、あと一歩に至って調略に応じるのをためらっているのは、半兵衛の意向をうかがっているのである。
 藤吉郎は朝三暮四のたとえの通り、足しげく半兵衛の閑居をたずねた。
 彼はある日、まごころを尽くし、半兵衛に頼んだ。
「われら三人は、虎狼の心を抱き、いたずらに乱をもとめ、勝負をもてあそぶ者にはござりませぬ。また、おこがましきことながら、欲心をもって栄華富貴を願うにもあらず。風雲をのぞみ剣戦の間を往来して久しく、殺伐の所業をあえてし、功名をあげ候いしが、あまたの盟友を失うてござりまする。つらつら世のさまを見るに、乱世の諸将は寸土をあらそい闘争は尽きませぬ。生をよろこび、死を悲しむは、人の天性なるに、合戦に多くの人馬を傷つけ、士卒を苦しめるは、ひとえに平天下、百姓土民を依怙の沙汰、塗炭の苦しみより救い、おそれ多くも主上を安んずるが本意にて、われらが主人信長が武威を張る所以にござりまする。ご貴殿もなにとぞ天下のために、われらに一臂のお力をお貸し与え下されよ」
 半兵衛はいつものように、両眼を半眼にとじ、返答をせずにいたが、不意に口をひらいた。
 「木下殿のご所存のほど、あいわかってござる。それがし世間を捨て、ただひとり達観をよそおう。これつまるところは卑怯と存じまする。それがしはいまより貴殿の幕下に馳せ参じ、天下の争乱にたちむかいとうござりまする」
 藤吉郎たちは、闇夜に月を見たような心地であった。
 ただならぬ鬼骨と天下に聞えた竹中半兵衛が、藤吉郎に従うときめたのである。
 半兵衛が木下勢の与力となると聞いた堀、樋口も、いまはためらうことなく浅井をはなれ、半兵衛と行動をともにすることとなった。
 木下勢は名軍師を得たうえに、あらたな加勢を得て、面目をあらため、千数百人の同勢は三千人に増強した。
 半兵衛が、堀、樋口に説いて浅井家をはなれさせた論拠ほ、両家が譜代ではないという点にあった。
 先祖代々の恩をこうむってきた主人であれば、家来は主家に殉じて当然である。しかし、堀家はかつて浅井と同格の京極家被官であった。
 それが時世の変化で浅井の下風についたのであるから、この際、堀家存続のためには劣勢の浅井家を捨て、織田方に就くのは理の当然であるというのであった。
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■半兵衛はお市と娘の救出作戦が成功

<本文から>
 信長は小谷本城に浅井長政とともにたてこもる、妹のお市の方と二人の童女を救出したいが、長政は信長の意をうけいれず、三人を渡さないで、全滅を覚悟の死闘をつづけていた。
 半兵衛は、お市の方を救出するには、まず小谷城の出城である、京極つぶらを攻め落すべきであると主張した。
 京極つぶらには長政の父久政がいる。久政がいるかぎり、長政は父に遠慮してお市母子を差しだすまいが、久政が死ねば、きっとお市らの助命をのぞむにちがいないというのである。
 木下勢は、山岳戦になれた蜂須賀衆を先頭に、京極つぶらに襲いかかり、城内に乱入して久政を追いつめる。
 久政は観念して、近臣二十余人とともに自害した。
 京極つぶらが落城し、紅蓮の火の手があがるのを見た本城の長政は、半兵衛の予想の通りお市母子を織田勢に渡し、自害して果てた。
 信長は半兵衛の進言の通り、小谷本城に力攻めをかけずにいたのが功を奏し、お市母子を無事にとり戻すことができ、満足した。
 小谷攻めのまえ、藤吉郎は羽柴筑前守秀吉と改名していた。
 浅井滅亡ののち、秀吉は浅井旧領地のうち、浅井郡、坂田郡、伊香郡三郡を所領として信長よりあてがわれた。
 秀吉は今浜に入城すると、重立った家臣に給地を与えた。
 木下小一郎八千五百石、木下家定三千二百石、浅野弥兵衛三千八百石、蜂須賀小六三千二百石、前野将右衛門三千百石などにつづき、竹中半兵衛千五十三石とある。
 さほどの高禄ではないが、欲のない半兵衛が遠慮したのかもしれない。
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■剣豪ト伝は弟子に恵まれなかった

<本文から>
 ト伝は、流儀を継がせる弟子をえらぶのに、苦労したようである。卜伝ほどの名人になれば、悟達の境地が常人の域を超越している。
 従って極意を理解できる素質をもつ弟子に、めぐりあうのがたいへんむずかしい。
 『常山紀談』に、つぎのような逸話がある。
 ト伝は、道統を継がせるにふさわしい弟子をようやく見つけ、「一つの太刀」の秘伝を伝えることができると、よろこんでいた。
 ところが、その弟子が一日、町なかを歩いているとき、道端につながれていた馬が、不意に跳ねた。
 弟子はとっさに身をかわし、飛びのく。
 町の人々は、口々にはめそやす。
 「さすがはト伝さまの高弟じゃ。えらいものだわさ」
 だがト伝は、落胆した。
 「これではとても、あとを継がせられぬ」
 彼はいった。
 「馬が跳ねたならば、飛びのくのは武芸にすぐれておるように見えるが、まだ至らぬものだ。馬は跳ねるものと分かっているからには、うかつにその傍を通らぬようにすることこそ、武芸者の心得じゃ。さようの理をわきまえぬ者は、不覚者といわざるをえないではないか」
 ト伝のあとを継いだ剣客に、松岡兵庫助がいるが、ほかに目立つ存在がいない。
 ト伝の境地は、ついに弟子たちにうけ継がれなかったようである。
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