津本陽著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          剣聖 乱世に生きた五人の兵法者

■塚原ト伝の一つの太刀

<本文から>
 「この眼は、人間の眼ではない」
 備前守は、新右衛門の眼が、欄々と炬火のような光彩に燃えたつのを見た。
 彼は青眼の剣尖の狙いを、新右衛門の喉もとにつけた。新右衛門は、無念無想であった。備前守はかまえを解いた。
 「新右衛門、手のうち見届けたぞ。見事じゃ」
 備前守は、新右衛門の姿勢に鉄壁のようにゆるがぬ強さを感じた。打ちこんでゆける隙は、どこにもない。そのうえの業前をたしかめる必要はなかった。
 二人は大勢の客が待つ広間へ戻った。備前守は一同に告げた。
「新右衛門は鹿島神霊のご加護によって、まさしく剣術開眼、虚心の道理を得てござる。拙者ただいま、しかと見定めて参った」
 わあっ、と列座の人々の間に、歓声があがった。
「よかったぞ、めでたや」
「祝着、祝着、このうえなし。当流の名をあげてたもれ」
 新右衛門は熱気あふれる言葉にとりまかれた。
 備前守に業前保証の折紙をつけられたうえは、新右衛門には名実ともに鹿島七流の代表者としての名誉と責任が与えられたわけであった。
 祝いの座についた新右衛門に、養父安幹が聞いた。
「そなたが神より授けられし技は、何と名付けるのか」
 新右衛門は深い思いをこめた眼で安幹を見た。
「おそらくは世にこのうえなき、ただひとつの太刀と存じますれば、一つの太刀と呼ぶことにいたしまする」
「一つの太刀か、それはよき名じゃ。そなたは鹿島随一の兵法者となったのじゃ。鹿島随一はすなわち、天下随一なれば、このうえは塚原の地にとどまらず、ふたたび諸国を遊歴して、当流を弘布してくりやれ。剣をもって天下に惟神の道をひろめるのじゃ」 
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■鹿島の宮の大祖神霊より剣の秘奥を相伝

<本文から>
 神はついに、新右衛門に鹿島の剣の秘奥を授けられた。新右衛門の五体は、感激にふるえた。
 彼が神と向いあうとき、無意識にかまえた上段は、攻めの形のみで防ぎ技ではない。そのため、敵の攻撃を誘いやすい。敵が斬りこんでくると、その剣尖を払いのけもせず、飛び下って外しもせず、その場で身をうしろにそらせて五分(約一・五センチ)の間合をはずすのである。
 そうすれば敵の技が尽きたところを、完全に打ちとめられる間合から反撃し、一刀両断に仕とめることができる。
 敵の刃が眼前五分の空間に閃くのを見届けるには、非常の胆力と判断力を必要とするが、間合を見切って間髪をいれず打ちかえせば、敵にはこちらの攻撃をしのぐ手段はない。
 「これじゃ、これこそ剣の至極じゃ。神はわが体に宿られ、以心伝心に妙理を与えられしか」
 喜悦きわまれば、悲哀に通じていた。彼は波のように寄せては返す昂ぶりに胸をゆさぶられ、双眼の満涙をこらえかねた。
 長年月の修行を通じ」新右衛門は敵の打ちこんでくる太刀を、しのいで打ちかえす技、飛びさがり飛びちがえる足さばきの技に執達したが、神が授けてくれたような、
一太刀で敵の死命を制する秘術は、思いついたこともなかった。
 新右衛門は暁明にいたるまで神前にひざまずいていたが、辰の刻(午前八時)にいたり、躍るような歓喜のおもいに満ちて、住居に戻った。
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